32.コールド・オーダー
人通りはまばらながら、途絶えることのない帝都の大通り。
立ち上る煙と脂の匂いに満ちた串焼き屋台の店先で、肉屋のドルテオは火床の炭に目を落としていた。
肉の焼き加減を見定めていたその視線の先に、ふと揺らめく影が落ちる。
立ち止まったのは、目深にフードを被り、闇を纏ったような人物だった。
男は低く、どこか芝居がかった声で妙な注文を呟く。
「今宵は、とある記念日でね……。是非とも、特別な品をお願いしたいのだが……」
ドルテオは視線を上げず、慣れた手つきで火箸を動かしながら応じた。
「特別な注文なら、この店で間違いありませんぜ」
フードの暗がりの中で、老紳士風の男が唇を微かに歪めた。
「……コレを……」
男の手から差し出されたのは、小さく折りたたまれた一枚の紙片。
ドルテオはそれを受け取り、一瞬だけ一瞥すると、何事もなかったかのような流れる動作で懐へと滑り込ませた。
白昼堂々の大通りで交わされた、他愛もない店主と客のやり取り。
だがそれこそが、依頼人から暗殺者ギルドへ新たな獲物を下すための隠語――符牒であった。
この瞬間、またひとつの命が、闇の底で死の刻限を刻み始めたことになる。
ドルテオは炭の位置を微調整し、爆ぜる火花を見つめながら低く呟いた。
「なるほど……ご指名、ですか……? よほどあの新入り――『狩人』がお気に召しましたようですな」
フードの陰から、楽しげな視線が覗く。
「ああ。彼は愉快だ。実に気持ちのいい若者だよ。それに、腕はとびきりときた……」
満足げに笑みを深める男の正体は、裏社会に深く根を張る武器商人、ユーリー・バウトであった。
「そうですか……。俺にとっては、奴の底知れなさは恐怖でしかありませんがねぇ」
ドルテオのどこか弱気な言葉に、ユーリーは低く肩を揺らした。
「クックック……何を弱気なことを言っているのかね? かつて共和国を恐怖のどん底に叩き落とした『切裂き魔――ドクター・ドール』の言葉とは思えんなぁ」
その名を口にした瞬間、空気の温度が凍りついた。
ドルテオの鋭い眼光が、射抜くようにユーリーを捉える。
「すまんが、昔の名は嫌いなんだ。今は……ただの肉屋だ」
押し殺した声に凄みを込めるドルテオに対し、ユーリーは挑発的な笑みを崩さない。
「今も昔もやっていることは同じだろう? 肉を切り刻んでいる……」
「……とにかく、依頼は確認しましたよ。受けるかどうかはギルドマスター次第ですがね。追って連絡をお待ちください」
「よき返事を期待しているよ……」
「ん? ……マズいですぜ。早く行ってくだせぇ。ほら……『狩人』のご帰還だ……」
ドルテオが顎で通りの向こうを指し示す。その表情には焦りの色が浮かんでいた。
「おっと。依頼人と仕事人の接触は厳禁……でしたな。では、これにて……」
ユーリーは素早くフードを引き直すと、水滴が溶け込むように人混みの闇の中へと消えていった。
直後、通りを極めてご機嫌な足取りで歩いてきたのは、濃密な血の匂いを全身から撒き散らす青年――ルイスだった。
彼は屋台のドルテオに気づくと、パッと顔を輝かせる。
「あっ! ドルテオさーん、お疲れ様でーす! コレ、鹿肉のお裾分けでーす。ぜひお客さんに提供してください!」
ルイスが笑顔で差し出してきたのは、大きな青葉に包まれたズシリと重い肉塊だった。
「あ、ああ……どうしたんだ、コレは……?」
「森で狩ってきたんですよ〜」
「そ、そうか……」
気圧されながら肉塊を受け取ったドルテオは、青年の背中に目を留める。ルイスは手製と思われる頑丈な背負子を担いでおり、そこには同じように葉で包まれた肉の山がいくつも括り付けられていた。
「いや〜、帝都の森も獣が多くて食肉の宝庫じゃないですかぁ〜! ま、だいぶゴブリンも殺しましたけどね……」
大収穫を無邪気に喜んだ直後、害虫でも払ったかのようにげんなりとした顔をするルイス。
だが、ドルテオの思考は全く別のところで停止していた。
(は……? ゴブリン……? コイツ、まさか……『魔爪の森』に行ってやがったのか……!?)
魔爪の森――帝都郊外に位置しながらも、封印されたダンジョンの影響で狂暴な魔獣が蠢く"一級危険領域"。手練れの冒険者パーティですら足を踏み入れるのを躊躇う死地だ。
「僕、これからは狩人としても活動することになると思うので、欲しい肉があればぜひご用命を!」
爽やかな笑顔を残し、ルイスは大荷物の重さを微塵も感じさせない軽やかな足取りで雑踏へと去っていった。
「裏の顔も狩人……表の顔も狩人って……なんの冗談だよ。笑えねぇって……」
ポツリと呟くドルテオの顔から生気が消える。
もしあの青年が、単身で『魔爪の森』を軽々と踏破し、狩りを行えるほどの戦闘力を有しているのだとしたら――その危険度は底が知れない。
控えめに見積もっても、冒険者の最高峰たる『Sランク』に匹敵する規格外の怪物だ。
そんな存在が裏社会の野に放たれていると知れば、帝国のみならず、王国や共和国といった列強諸国の暗部までもが喉から手が出るほど欲しがり、血で血を洗う争奪戦を繰り広げる未来しか見えない。
(……まあ、単なる肉屋の店主がそんな壮大な懸念をしたところでどうにもならんがな)
頭を振って現実逃避したドルテオは、仕入れの手間が省けただけでも儲けものだと割り切り、差し出された葉の包みを丁寧に剥がし始めた。
そして、手が止まる。
「ん……? ゲッ!? お、おい……この深みのある赤身と、極上のサシの入り方……ま、まさか……『暴食鹿』かよっ!?」
葉の隙間から現れたのは、まるで切り出されたルビーのように煌めく肉塊だった。
間違いなく、特一級の魔獣肉。
一口味わうためだけに、味道楽の貴族たちが金貨十枚を惜しげもなく投げ出すような超高級食材である。
ドルテオの思考は一瞬で切り替わった。
サッと周囲を見回す。
(よし、誰にも見られていない……)
彼は目にも留まらぬ手つきで肉を葉に包み直すと、足元の保冷箱の奥深くへと手際よく押し込んだ。
「……コレは、俺の個人的なツマミにさせて貰うぜ」
今夜の贅沢な晩酌に思いを馳せ、ドルテオの口元がゆるむ。
出所の知れない謎の危険人物――そう警戒していた若者が、自分に極上の恩恵をもたらす最高の"仕入れ先"へと変貌した瞬間であった。
ドルテオの中での『狩人』に対する好感度のメーターは、勢いよく跳ね上がっていた。




