31.ある日、森の中、ゴブリンに出会った
ルイスの足取りは、小鳥の囀りのように軽やかだった。雲ひとつない青空の下、ルンルン気分で帝都の大通りを歩いていた彼だったが、重厚な石造りの街門へ差し掛かった瞬間、ピタリと足を止めた。
(ん……? 衛兵騎士団の人……?)
重厚な全身甲冑を纏い、門の傍らに直立不動で佇む男。——門番だ。
この街に足を踏み入れた時も、先日クロスボウの試射に向かった時も、こんな場所に兵など立っていなかったはずだ。
嫌な予感というものは、得てして恐ろしい精度で当たる。
ルイスは冷や汗を流しながら、存在感を極限まで消し、そそくさと通り抜けようと視線を逸らした。
「あー……ちょっとそこの君」
ビクッ!!
背後から掛けられた低い声に、ルイスの体が弾けたように跳ね上がった。
ギギギギッという音を立てて恐る恐る振り返り、自分自身の胸元を指差す。
「え……あ、あのぅ……ぼ、僕……ですか?」
「ああ、そうだ。すまないが、そのバッグの中身を検めさせてもらいたいのだが?」
その一言で、ルイスの背中を滝のような冷や汗が吹き抜けた。
斜め掛けにした黒革バッグのベルトを握りしめる手のひらが、瞬時に湿っていく。
だが、ここで拒絶すれば一発で不審者として捕縛されるかもしれない……。
「は……はい……どうぞ……」
諦めたように肩から外し、差し出す。
地面にバッグを置いた騎士の男は、かがみ込むと留め金をパチリと外し、革の蓋を押し開いた。
「んん? 君……これは……何かな?」
騎士の鋭い眼光が、ルイスの射貫くように捉えた。
震えそうになる声を必死に声帯の奥で抑え込み、ルイスはすかさず言葉を絞り出す。
「は、はい! その……か、か、か、か! 狩りの、道具です!」
「ほう……これが、かね? 私には、とても、そうは見えないが?」
男がバッグから引っ張り出したもの——
それは、一本の丈夫な紐、ノコギリ、そして金属のヤスリだった。
「は、はいっ! 森の中で、現地調達で弓を作ろうと思いましてっ!」
騎士はしばしそれらを見つめた後、無言でバッグの中に収め直した。
「ふむ……よかろう。知っているとは思うが、帝都内への弓矢の持ち込みは厳重に禁じられている。気をつけるように」
「は、はいっ! 重々承知しております!」
「よろしい。通り給え」
胸を撫で下ろし、バッグを受け取って再び歩き出そうとしたルイス。だが——。
「あー、そうだ……」
「は、はいっ!? な、なんでしょうか!?」
ひび割れた声で振り返るルイスに、騎士はどこか親しみを感じさせる笑みを浮かべた。
「カモは撃つのかね? もし首尾よく仕留められたら、私にも融通してはもらえんか?」
「か、カモっ!? は、はい! 水辺に行けば、おそらく……!」
「そうか! 私の大好物でね。可能ならで構わない、頼むよ。……ああ、申し遅れたな。私の名はベン・ファルコーネ。新しく着任した門番だ。よろしく頼むよ」
「は、はじめまして! よろしくお願いします! あ、あの、その。僕はルイスです! そ、そう! 狩人の、ルイスです!」
ルイスは思わず、騎士団さながらのキリッとした敬礼を返した。
ベンと名乗った騎士は面白そうに目元を緩め、軽やかに敬礼を返してくれた。
小さくなっていくルイスの背中を遠目に見送りながら、ベン・ファルコーネは小さく息を吐いた。
「ふぅー。あんなに朴訥とした青年が、不審物など隠し持つはずかないだろうに。なのに、なぜ私はこんなにも真面目に仕事をしているのか……。まぁ、穏やかな余生と考えれば、悪くはないか……」
そう、一人ごちると、青空を見上げた。
オズワルド・ブコナー暗殺事件の際、現場警備の最高責任者として失態の全責任を負わされた男。
団長からの容赦ない降格人事を受け、彼は今、こうして門番という閑職に甘んじているのだった。
一方、しばくして。
彼から遠く離れた街道を歩くルイスは、心の中で猛烈に叫んでいた。
(あっぶねぇぇぇぇぇぇ! やっぱりあのクロスボウを持って来なくて大正解だったぁぁぁぁぁ!)
あの殺傷力の塊のような最新兵器は、現在ギルドで厳重保管中だ。
もし持ち出していれば、即座にあの重臣狙撃事件の犯人として逮捕されるか、あの場で首を刎ねられていただろう。
森に入ったルイスは、倒木に腰掛け、手際よく木を削り、ヤスリで形を整えていた。
「う〜ん……少し木肌が湿っているかな? まあ、大丈夫か……」
植物の繊維を編み込んだ細い紐を弦として張り、弓幹のしなりを確認する。
矢に使う枝木は不揃いで少々曲がっていたが、至近距離なら問題ないと割り切った。矢の尻に十字の切れ込みを入れ、道中で拾った鳥の羽根を押し込んで固定していく。
「よし、こんなところでいいや!」
立ち上がったルイスは、茂みの隙間から静かに覗き込んだ。
その先には清涼な湧き水が溜まった池があり、水面には二羽の丸々と太ったカモが浮いていた。
息を殺し、キリリ……と弦を限界まで引き絞る。
ルイスの意識が、波ひとつない水面のように透明に澄み渡っていく——。
「グギャギャ……」
次の瞬間、背後から放たれた異様な濁声。
思考の途切れなく、ルイスは身体を反転させながら指を離した。
――ヒュンッ!
風を裂く鋭い羽音。緑色の血が、空気中に噴煙のように舞う。
「グガッ!?」
喉仏を貫かれ、仰向けに落命した緑色の不気味な矮人。
ルイスは残心をとったまま、小さく息を吐いた。
「ふぅ……やっぱりゴブリンか……」
バタバタと水鳥が羽ばたき、逃げ去っていく羽音が響く。せっかくの獲物を逃したことよりも、ルイスの意識は眼前の危機へと向けられた。
「あっちゃ〜……完全に囲まれてたか。帝国にもゴブリンっているんだなぁ」
「グギャ、ギャギャァ!」
「ギャ、ギャギャッ……!」
草陰から続々と湧き出す緑色の魔獣たち。
ルイスの故郷の村でも、集落を襲う害獣として最も忌み嫌われていた存在だ。知能は低い癖に好戦的で、何より、"煮ても焼いても食えたものではない"。
ルイスは地面に突き立てておいた即席の矢を二本手挟むと、一本の弦に同時に番えた。
ツンッ——!!
「グギッ!?」
「グベェッ!?」
二重の着矢音。
一本は眉間を深く穿ち、もう一本は左胸を正確に打ち抜いた。
だが、これで矢は尽きた。
ルイスは即座に駆け出した。
地を蹴り、一気に跳躍する。
空中で踵同士を強く打ち付けた瞬間、ブーツのつま先からシャキンッ! 銀刃が飛び出した。
「ムグッ!?」
対空の勢いのまま、ルイスは迫るゴブリンの顎下へつま先の刃を突き刺した。
鋭い牙が強制的に噛み合わされ、口の隙間から濃緑色の血が迸る。
着地と同時に、両手に持ったナイフを水平に投擲。
「ギャッ!」
「グエッ!」
旋風のごとき動作で、さらに二体を瞬殺する。
腰のホルダーから新たなナイフを抜き出しながら、ルイスは感嘆の声を漏らした。
「お〜! やっぱりこの隠し刃ブーツ、買っておいて大正解だった! めちゃくちゃ便利じゃん!」
武器商ギャラリーで所有欲を抑えきれずに衝動買いした暗殺道具だったが、思いがけぬ実用性を発揮している。
「ま! ゴブリンなんてどこでも一緒か。数が多くても、これなら森のクマさんの方がずっと強いね!」
そう言って笑うと、ルイスは再び風となって疾走し始めた。
「ケ、ケギッ!?」
「ギャ、ギギギ!?」
ゴブリンたちの致命的な誤算——それは、森の中で間抜け面に佇む人間の小僧を「たやすい獲物」だと誤認したこと。
そして、その相手がルイスだったということだ。
深緑に包まれた森の奥。
無知な矮人たちが最後に目にしたのは、"獲物"と定めたはずの人間の、楽しげで、どこまでも無垢な笑顔だった。
緑色の血の雨が、草花を鮮やかに濡らしていく。




