24.神が見捨てた楽園
「間違いない。ここが発射地点だ」
帝国憲兵騎士団・特別捜査局のトーマス・ホフナーは、廃教会の天蓋近くに渡された木梁の上で屈み込み、低い声でそう断定した。
「まさか……そんな……」
背後に佇む部下の女騎士ロザーナ・ベルトランが、信じがたいものを見る目で絶句する。
「見ろ。ここだけ分厚い埃が払われている。人間の靴跡と、重い道具を置いた痕跡だ」
トーマスが指し示した板の上には、狙撃の為に侵入した「狩人」の足跡が鮮明に残されていた。
「しかし、ここからあの孤児院の建設現場までは……」
ロザーナは割れたステンドグラスの隙間から、外の景色へ視線を走らせる。
「ああ。直線距離にして、およそ六百メートル。しかも事件当日は、気まぐれな風が吹いていた」
「信じられません……到底、人間の仕業とは思えない」
ロザーナの瞳に映るはるか向こうの広場では、行き交う人々がまるで麦粒よりも小さく蠢いていた。
そこへ、あの未知の鉄矢を寸分違わず連続で叩き込んだのだ。
二人は、犯人が人類の領域を超えた「何者か」であるという不可解な畏怖を、冷たい悪寒とともに肌で感じていた。
「こりゃあ……上が喜ぶような報告書を書くのは、骨が折れそうだな」
トーマスは頭をガリガリと掻き、自嘲気味に呟いた。
「隊長、オズワルド・ブコナー議員の邸宅の捜査には、私たちは加わらなくてよいのですか?」
「ああ。あっちは、近衛騎士団がとっくの昔にガサ入れを終えているよ」
「近衛が……? なぜ彼らが真っ先に?」
「最初からそういう筋書きだったのさ。……偉い誰かさんが書き上げた、タチの悪い政治劇ってわけだ」
トーマスは深々と、諦念を含んだ重い溜息を吐き出した。
ロザーナは再び足元へ視線を落とす。
大きくも小さくもない、実に人間味のある靴跡。この怪物は、間違いなく実体を持ってこの街に潜んでいる。
「もう行くぞ」
トーマスに促され、二人は長い急斜面の梯子を伝って階下へと降りていった。
打ち捨てられた聖堂の空気は重く、雑然としていた。ステンドグラスの破片、横倒しにされた女神像、そしてそれらを覆う薄白い埃。
二人は静寂のただ中を歩きながら、天窓から差し込む光の筋を見上げた。
やりきれない感情を押し殺すように、トーマスがぽつりと呟く。
「おまけに、天まで犯人の味方をしやがった。事件の直後、大雨が降ったろう」
「はい。久方ぶりの、激しい雨でした……」
「あれのせいで、広場にいた群衆は一目散に散り散りになった。目撃者の聞き取りは絶望的。さらに、現場にいた騎士団の足止めまで完璧にこなされた」
「そして……まさかこれほどの遠距離から狙撃されたなど、当時は誰も思いつきもしなかった……」
「そういうことだ。まるで、すべてがオズワルド・ブコナーを殺すためだけに噛み合った、精巧な歯車のように惨劇が組み上がっていた」
「それは……まさか、神の意思だとでも?」
ロザーナは足元で静かに微笑む、薄汚れた女神像の顔を見下ろした。
「ふん、俺はそこまで信心深くはないさ。ただ……あのオズワルドって豚議員は、清々しいほどに極めて真っ当な『悪党』だったようだがな」
「と、仰いますと?」
怪訝そうに眉をひそめる部下に、トーマスは冷ややかな顔を向けた。
「奴の邸宅の地下に隠された秘密部屋から、何人もの戦災孤児が救出された。全員、あの豚が己の歪んだ性癖を満たすために飼い殺していた子供たちだ」
「ッ……! では、それではまるで……!」
ロザーナは言いかけて息を呑んだ。
それではまるで、あの恐るべき暗殺者こそが――正義の執行者ではないか。
権威の威を借りて事務的に捜査を進める自分たち憲兵こそが、道化師のように踊らされているのではないか。
激しい焦躁と義憤が、胸の奥を焼くように熱くさせた。
「さらに、あの未知の鉄矢だ。白昼堂々、あんな恐ろしい殺人兵器を見せつけられたんだ。後ろ暗い腹を抱えた議員どもは、今や身の危険を感じて辺境への引越し準備でてんやわんやさ。"見せしめ"としての効果は劇薬レベルだな」
実際、いくつかの派閥は召集に応じず邸宅に籠城し、下っ端貴族たちは大荷物を馬車に積んで帝都を脱出し始めていた。
次の議会選挙は大混乱を免れない。
「……『浄化された』と言い換えても良いかもしれませんね」
「バカ言え。自分が誰に飼われて、飯を食えているか、忘れるなよ」
トーマスは皮肉交じりに部下の軽率さを咎めたが、その瞳に叱責の色はなかった。
「ですが隊長。あの犯行が言葉なき警告だとしたら……あの『四本の矢』にも、何か特別な意味があったのでしょうか」
思慮の海に沈むロザーナへ、トーマスは静かに告げた。
「さっき、地下室から助け出された子供たちがいると言ったろ」
「はい」
「……残念ながら、助からなかった子もいた。それが、四人だ」
「まさか……」
「そのまさかさ。一人は喉を掻き切られ、一人は右腕を切断され、一人は左目をくり抜かれ……最後の一人は、とてもじゃないが口にできない有様だったらしい」
絶句するロザーナの脳裏で、血塗れの骸となったオズワルドの姿が重なる。
喉を貫かれ、股間を射抜かれ、右肩を砕かれ、左目を後頭部まで穿たれた巨躯。
矢が与えた苦痛の部位は、奪われた子供たちの痕跡と、残酷なまでに一致していた。
頭蓋の奥が、激しい怒りと恐怖で痺れる。
筋金入りの悪は討たれた。
何者かが解き放った凶悪な一閃によって、白昼堂々、最も屈辱的な形で惨めに殺されたのだ。
そしてオズワルド・ブコナーの胸糞悪い悪行は白日の下に晒され、彼の血族の名声も完全に失墜した。彼は被害者として同情されることもなく、最悪の変態性的嗜好者として、永遠に歴史に名を残した。
命を奪われただけではない。
存在の尊厳すら抹殺された――完全なる死。
まるで、死していった幼子たちの怨念が、あの四本の矢を誘導したかのように――。
「もう行くぞ。これ以上は時間の無駄だ。……それに俺は、埃っぽい場所だと鼻がむず痒くなる」
トーマスはグズッと鼻を啜り、背を向けた。
「隊長も、意外と繊細なのですね」
「ああ、俺の心はガラス細工並みに繊細なんだ。だから、もう少し優しく扱ってくれ」
軽口を叩く上司に、ロザーナは肩をすくめて小さく苦笑した。
重い木製扉を押して廃教会を出ると、帝都の上空には雲ひとつない青空が広がっていた。
あの日の惨劇や雨が嘘のように、陽光が街並み鮮やかに照らし出している。
ロザーナはふと足を止め、蔦の絡まる教会の古びた外壁を見上げた。
石壁には、かつて刻まれた古い教理の一文が残されていた。
『神、天にまします。世はすべて事もなし』
――なるほど……。
ロザーナは心の中で冷たく呟いた。
神が地上を捨てて天に引きこもっているからこそ、こんな救いのないことが繰り返されるのか、と。




