21.白昼の悪夢
帝国諸侯議会議員オズワルド・ブコナーの肥満体は、金箔と紋様で飾られた豪華絢爛な馬車の中で、突き上げる執拗な振動に悲鳴を上げていた。
「くそっ……相変わらず、ケツが割れそうだ!」
肉の塊のような巨体を苛立ちまぎれによじり、座面の最高級絨毯越しに伝わる路面の凹凸への文句を吐き捨てる。
対面に座る憲兵騎士団長ベン・ファルコーネは、その醜悪な悪態を涼しげな薄笑いで受け流していた。
「閣下、もうしばしの辛抱にございますゆえ」
「ちっ……面倒だ。実に面倒だよ、ファルコーネ君。なぜこの私が貴族街の静謐を捨て、わざわざこんな垢じみた下界へと足を運ばねばならんのだ」
「そう仰らずに。これも閣下の新たなる事業のため……ひいては、お噂に聞くご趣味のためでもございましょう?」
「ファルコーネ! 貴様ッ……!」
「おっと失礼、冗談が過ぎましたな。どうかご容赦を。なにぶん私も下界の泥にまみれて育った身ゆえ、貴族階級の嗜む高潔な対話というものを心得ておらんのです」
悪びれもせず 肩をすくめる男の態度に、オズワルドは激しく「ふんっ!」と、鼻を鳴らして窓の外へと視線を逃がした。
鉛色の曇天の下、行き交う人々の瞳には希望の光など微塵もない。
虚ろな眼差しでたたずむ浮浪者、
重い荷に背を丸める青年、
そして崩れかけた石塀の上から冷ややかに見下ろす、一匹の痩せた黒猫。
すべてが貧困と停滞の臭気をまとっていた。
だが、そんな景色すら車輪の回転とともに去っていく。
馬車が目的地に滑り込むと、整列した憲兵騎士団の鎧がかすかな金属音を奏でた。
集められた民衆は、まるで深く生い茂る原生林のように言葉を失い、広場を静かに埋め尽くしている。
そこは、新設される孤児院の建設現場だった。
中央に組まれた簡素な演台には、誇らしげな文字が踊っている。
『オズワルド・ブコナー孤児院』
あからさまな政略と忖度が透けて見える、ハリボテの儀式。
銅貨二枚の報償で動員された市井の人々は、馬車から濡れた豚のように這い出てくる肥満議員の姿を、どこか冷めた目で眺めていた。
護衛の手を借り、悲鳴を上げる階段をよたよたと登りきったオズワルドは、演台の中央に立つと、瞬時に「政治家」の顔を作ってみせた。
「お集まりの諸君! 今日という祝福の日に集ってくれたこと、心より感謝する!」
顔面に張り付けた完璧な笑みと、大袈裟な身振り手振り。
金と腹芸だけで商人から貴族の列へと這い上がった男の、真骨頂とも言える演技だった。
「私が出資したこの孤児院は、戦災孤児や親を失った幼子……そうした不幸を背負いし子供たちの未来を照らす希望の灯火だ! 私が推し進める社会貢献の第一歩として……ゲブッ……グブッ!」
流暢な演説が、突如として途切れた。汚らしい濁声とともに喉を詰まらせるオズワルド。
演台の下で警備の指揮を執っていたベン・ファルコーネは、違和感を覚えて見上げた。
思考が追いつかなかった。
オズワルドの喉から、黒い棒状の物体が突き出ている。
「は……?」
間抜けな声が漏れた瞬間、
――ヒュゥゥゥゥン!
風を裂く鋭い笛のような音が空気を揺らした。
「ゴっっ! ……おぉぉふっ……!」
オズワルドが声にならぬ絶叫を上げ、股間を押さえ込んで膝を折る。
ベンの目が限界まで見開かれた。
議員の太い指の隙間から見えているのは――短く、凶悪な――矢の軸だ。
「閣下ァァァァッ!?」
叫び声が響くのと、動転した肉体が跳ねるのは同時だった。
ドスッ!
悲鳴をかき消す湿った音が響き、次はオズワルドの右肩を穿つ。
「ングッ!!!」
舞い散る真紅の飛沫が、背後に掲げられた『オズワルド・ブコナー孤児院』の看板に、醜い血の斜線を描いた。
「キャァァァァァァァ!!」
「な、なんだ!? なんなんだよこれっ!!」
静寂は破られ、広場は一瞬にして蜂の巣をつついたような狂乱の渦へと叩き落とされる。
「全員警戒! 閣下をお守りしろ!」
ベンは剣を抜き、跳び上がるように演台へ駆け登った。
手を伸ばせば届く、その直前――。
――ブヂュッ!
嫌な破壊音が、目の前ではじけた。
漆黒の矢羽を蓄えた一矢が、オズワルドの左目を深々と貫通し、後頭部からその先端を覗かせていた。射抜かれた眼球から溢れる血が伝う矢軸が、一瞬だけ怪しく鈍色に光った。
残された右眼をギョロリと見開いたまま、オズワルドの巨体は崩れ落ちた。
演台の床板へ、どす黒い血が急速に広がっていく。
(……即死、か……)
ベン・ファルコーネは青ざめた顔で、もはや物言わぬ肉塊となったオズワルドを見下ろした。
「どこだ!? どこからだっ?!」
「探せ! そう遠くからではないはずだ!」
憲兵たちが乱乱として走り回る。
ベンは素早く視線を巡らせ、周囲の街並みを睨みつけた。
しかし、視界に入るのはパニックに陥る群衆と、冷たく閉ざされた石造りの窓枠ばかり。人影などどこにも存在しない。
もう一度、横たわる死体へと、目を落とした。
「……チッ……」
苦い唾を吐き捨てる。
想定外だった。
いや、忘れていたのだ。
帝都内で弓矢の所持が厳罰化されてから数十年。遠距離からの暗殺という概念そのものが風化し、憲兵騎士団の警護要項から狙撃への対処マニュアルは完全に失われていた。
ベンは、力なく空を見上げた。
鉛色の雲が低く蠢き、重い圧迫感をもたらしている。
――雨が、来る。
「ハァ……、せめて、悪い夢であってほしいものだが……」
周囲に広がる血の臭いと、肩にのしかかる絶望的な警備責任の重みを感じながら、ベンは生ぬるい風の中に立ち尽くしていた。




