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λ:ASTRA 〜星の共鳴者〜  作者: Pemo


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第90話_——私よ

道の上を、逆流が来た。


悲しみだった。最初に触れた時より、近い。近い分だけ、形があった。誰かに、届かなかった。何をしても、届かなかった。届かない者を測り続けて、測り切れなくて、それでも測ることしか、知らなかった。測る手を止めた日に、一枚の刃は、全部の色になった。


その悲しみが、線を、越えようとした。


越えれば、俺の悲しみになる。俺の悲しみになれば、俺は、彼女と同じ場所へ、沈む。沈めば、道は、二人分の重さで、切れる。


線を、握った。


ここまでが、彼女の。ここからが、俺。彼女の悲しみは、彼女のもので、俺が持つべきものではない。持たない、と決めた。決めて、線の内側から、線の外側にあるものを、見た。見ているだけで、入れない。入れないことが、今日の俺の、全部の仕事だった。


「三分、経過」とλが言った。遅い声だった。「残り、二分。……あなたの線は、保たれています。震えていますが、切れていません」


ステラの声が、続いた。


「私は、あなたに、会いに行くんじゃないと決めたの。まず、知る。あなたが何を見て、何を選んで、そこに立っているのか。……知ったわ。全部じゃない。全部は、無理だった。でも、あなたが測っていた人のことも、測り切れなかった日のことも、記録で知った。知った上で、来たの」


一拍。


「ポスポリア」


彼女は、その名前を、声に出した。木星の夜、最後の一音で割れた名前を、今日は、割れずに、最後まで言った。


「明けの明星。私は、宵の。同じ星よ。誰が名づけ直しても、私たちは、星に戻るの。……綺麗にまとめようとしてる。分かってるわ。でも、今日は、まとめるわ。まとめないと、届かないから」


色が、抜け始めた。


全部の色から、一色ずつ。最初に、橙が抜けた。橙は、王権の兵たちの、指定された深さの色だった。抜けた橙は、どこへも行かず、消えた。次に、金。誰かの一番強い一瞬の色が、抜けて、消えた。青白。名前のない色。名前のない色。一色、抜けるたびに、全部の色は、少しずつ、全部でなくなっていった。


「どちらが言ったのか、教えて。……あの星は、私たちの星だと」


藍が、残った。


全部の色が抜けた後に、藍だけが、残っていた。揺れず、乱れず、静かで古い、一枚の刃。空の三分の一を占めていたものが、旗艦の周りの数百メートルまで、縮んで、一枚に戻っていた。一枚の刃の、中心の一点に、色が戻った。藍だった。彼女の藍。


道の上を、声が来た。


逆流ではなかった。声だった。低く、平坦で、乱れの無い声。木星の夜明けに、公式文を一度だけ読んだ声。その声が、今日は、公式文ではないものを、一つだけ、言った。


「——私よ」


あれは私たちの星だと言ったのは、私。


「……そう」と、ステラの声が言った。長い間があって、それから、いつもの声で。「あなただったのね。……覚えていてくれて、ありがとう。私は、忘れていたのに」


答えは、無かった。無くても、足りていた。


道の上で、二つの名前が、一つの星に戻った。俺は、線の内側で、それを、聞いていた。聞いていただけだった。五分間、俺の戦争ではないものが、俺の道の上を、通っていった。通っていく間、俺の中に入ってこようとしたものを、俺は、一つも、入れなかった。入れなかったことを、誰も知らない。知らなくていい仕事だった。


---


「隊長機、生体反応——あります」とλが言った。「個の反応です。嵐の反応では、ありません。……戻りました」


戻った。


王権の回線が、開いた。嵐の中で沈黙していた回線が、嵐の縮んだ分だけ、外から戻ってきていた。『旗艦、応答しろ。旗艦——』。呼びかける声に、返事があった。返事の中身は、聞こえなかった。聞こえなくても、返事があったこと自体が、答えだった。


「嵐、半径、旗艦の周囲、二百メートル。縮小、継続。……消えます。四分二十秒。あなたの残り時間、四十秒。……戻ります。さん」


さん。


「に」


に。


「いち」


いち、で、戻り始めた。四の底から、三へ。三から、二へ。線を握っていた手を、開いた。開いた手は、まだ震えていた。震えたまま、浮いた。浮く方向は、λの声のする方向だった。方向が分かっている限り、深さは、距離だった。


二から、一へ。一から——計器の並ぶ、コックピットへ。


固定具の中で、体が、いつもの重さに戻った。戻った重さは、いつもの三倍あった。肩に、腕に、首に。指を開いて、閉じる。二回目で、動かなかった。三回目で、動いた。鼻の奥の鉄の味が、垂れてきて、垂れたまま、止まらなかった。


「帰還を、確認しました」とλが言った。声が、いつもの速さに、戻っていた。「深度四、錨付き。往復の所要、五分十一秒。……帰還、あり。二件目です。記録しました。わたしが、持っています」


二件目。ゼロの欄と、全件の欄と、あの人の一件の隣に、帰還あり、の一件。


「摩耗の増分は」


「……後で、言います」とλは言った。「今は、言いません。言う時間が、今日は、まだ、あります」


言う時間がある。それは、俺が、生きて戻った、という意味だった。


---


嵐は、消えた。


縁の外の空は、王権の星の夜明けの色をしていた。青い空ではない。もっと暗く、もっと高い、天井の無い色。その色の中で、三十を超える空の機体が、正しい姿勢で、漂っていた。


教団の円が、動いた。


集めた空の機体を、回収体が曳いて、円ごと、来た時と同じ速さで、離れていく。放送は、無かった。通信も、無かった。集めるものを集めて、去る。それだけの動きだった。去っていく灰色を、俺は、見送った。見送りながら、彼らが集めたものの中に、今日、俺の名前が入らなかったことを、数えた。


王権の残存が、旗艦へ向かっていた。


旗艦は、無傷だった。無傷の旗艦の、共鳴調整区画に、一人、いる。反応は、個のもの。その一人を、俺は、見なかった。見る理由が、俺には無かった。見る理由のある人が、一人だけ、いた。


ガルムの機体の、後席で、ステラは、旗艦の方角を、見ていた。


見ているだけだった。何も言わず、端末も開かず、ただ、旗艦のある方角を、見ていた。知ってから、動く。今日は、知って、動いて、届いた。届いた後に、何をするかを、彼女はまだ、決めていない。決めていない時間を、彼女は、旗艦の方角を見ることで、使っていた。


「五分だった」とガルムの声が言った。「……割の悪い五分だ。うちの専門だ」


「後ろ、見なかったわね」とカレンが言った。「見なくていいって、言ったけど。……本当に見ないのね」


「見る余裕が、無かった」


「知ってる。だから、言ってるの」


シドは、何も言わなかった。言わずに、俺の機体の脚部を、自分の機体の腕で、一度、叩いた。


夜明けの色の中を、五人で、管理区へ向けて、戻り始めた。行きは一列だった。帰りは、俺を真ん中に、四機が囲む形になっていた。誰が指示した形でもなかった。護衛対象が真ん中にいる、というだけの、紙に書いてある通りの形だった。承認番号〇八六の任務は、達、だった。達の欄の先に、何が書かれるかは、まだ、誰も知らなかった。


「λ」


「はい」


「嵐は、止まったな」


「はい。止まりました」とλは言った。それから、一拍、置いた。「……嵐は、止まりました。原因は、止まっていません」


原因は、止まっていない。


その一行の意味を、俺は、管理区の壁が見えてくるまで、聞かなかった。聞く時間は、今日は、まだ、あった。


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