第89話_道
――Astron
四は、静かだった。
三の底を抜けた先に、音が無かった。音が無いのではなく、音を聞く側の輪郭が、薄くなっていた。全部の色が、輪郭の外側から内側へ、流れ込んでくる。流れ込んだ色は、俺の中で、色ではなくなった。感情になった。怒り。恐れ。安堵。名前のない、たくさんの、他人の感情。呑まれた三十人分の、最後の一秒が、俺の胸の真ん中に、順に、入ってくる。
これが、嵐の内側だった。
色を読む目は、ここでは要らない。読む前に、入ってくる。入ってきたものを、自分の感情だと思った瞬間に、俺は嵐の一部になる。近弾の日、カレンの一秒を、二分、自分の怒りとして怒った。あの二分の、三十人分が、今、一度に来ている。
線を、引いた。
ここまでが、彼らの。ここからが、俺。線があった場所を、覚えていなかった日がある。今日は、覚えていた。覚えていたのではなく、引いた。引いて、引いた場所を、握った。握っている手が、震えるのが分かった。震えは、俺の震えだった。俺の震えなら、俺の側だ。
「引きを、受けています」
λの声が、遠かった。遠いのではなく、遅い。一語ごとに、間がある。間の中で、λは、嵐の側から俺を引く力を、浅い側で受け止めている。受け止めた分だけ、声が遅れる。
「回線は、嵐の中では、通りません。……呑まれた機体の、回線も、全部、沈黙しています。通るのは——共鳴だけです。あなたの、共鳴だけが、今、中心まで、届いています」
俺の共鳴だけが、届く。
「道を、作る」と俺は言った。声が出たかどうか、分からなかった。分からなくても、λには届く。「俺の共鳴を、中心まで、一本、通す。その上に、ステラの声を乗せてくれ」
「はい。……乗せます。あなたの共鳴を、声の通る形に、わたしが整えます。整える間、あなたは、線を、保ってください。線が切れれば、道も切れます」
線を保つ。道を保つ。同じことだった。
「四で、あなたの個の反応を、保てる時間は——推定、五分です。五分を超えると、線を引く力が、嵐に負けます。……五分で、届かなければ、戻します。合図の前に、戻します」
五分。
「分かった。……五分、保つ」
道を、通した。
通し方は、木星の坑で、街の記録を読みに行った時と、少しだけ似ていた。あの時は、λが柱と同期して、俺はそれを見ていた。今日は、俺が、中心と繋がる。繋ぐ相手は、記録ではなく、人だった。人の方へ、俺の共鳴が、全部の色の坂を、中心の一点まで、細く、まっすぐに、伸びていった。伸びた先の一点は、色が無かった。色が無い場所に、道の先端が、触れた。触れた瞬間、道の上を、何かが逆流してきた。悲しみだった。名前のない、深い、静かな、古い悲しみ。
線を、握り直した。
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嵐が、縮み始めたのは、道が通った直後だった。
「半径、縮小に転じました」とλが言った。「毎分、一キロ。……理由は、不明です。あなたの道が、原因かどうかも、不明です」
縮む嵐の縁で、灰色が動いた。
「教団の回収体、縁の内側へ、進入。……空の機体を、曳き始めています」
彼らは、待っていた。空の機体が縁へ流れ出るのを。嵐が縮み始めた瞬間に、待つのをやめて、中へ入った。縮む速さで、空の機体が縁に近づく。近づいたものから、曳く。手順は、今日のために出来ていた。
曳く進路が、俺の道と、交差した。
回収体が、空の機体を曳いて、俺の共鳴の線を、横切ろうとしている。横切れば、線が乱れる。乱れれば、道が切れる。撃てば、止められる。撃つには、照準に共鳴を使う。共鳴を使えば、道が細くなる。
撃たなかった。
「交差点、三つ」とλが言った。「あなたは、撃ちません。……撃つのは、後ろです」
後ろから、色が来た。
カレンの色。俺の斜め後ろから、前へ、出た。回収体の一機目の進路に、彼女の機体が入る。入って、曳かれていた空の機体の、推進部を撃った。空の機体が止まる。止まった空の機体を、回収体は曳けない。曳けないまま、進路を変えた。変えた進路は、俺の線を、横切らなかった。
「一つ目、済んだわ」と、カレンの声が、共鳴の道を通って来た。回線ではない。俺の道の上に、λが乗せた声だった。「二秒分は、私。……あなたは、前だけ」
二秒分。近弾の日、俺の中に二分いた彼女の速さが、今日は、彼女自身の速さとして、俺の後ろで撃っていた。
二つ目の交差点。シドの長距離射撃が、回収体の一機の砲口を、先に潰した。潰された回収体は、撃ち返さずに、砲口の潰れたまま、進路を変えた。三つ目。ガルムの機体が、後席にステラを乗せたまま、回収体の正面に立った。立って、撃たずに、押した。機体の質量で、回収体の進路を、線の外へ押し出した。押し出された回収体は、押し返さなかった。手順の外のことは、しない。
「三つ目、済んだ」とガルムの声が言った。「道は、保ってある。……後ろは、見るな」
三人の戦いを、俺は、色と音で聞いていた。聞きながら、線を握っていた。握っている間、三人の色は、俺の中に入ってこなかった。三人の色は、線の向こう側で、俺の道を守っていた。線の向こう側に、四人いる。
「教団の回収体、進路変更、完了」とλが言った。「あなたの道と、交差するものは、ありません。……四人が、そうしました」
道は、保たれた。
「一分、経過。残り、四分」
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ステラの声が、道に乗った。
近かった。
回線越しの声は、いつも、少し遠い。距離の分だけ、薄い。今、道に乗った声は、薄くなかった。ガルムの後席の、生の声が、俺の共鳴の上を、そのまま滑ってきた。滑って、俺を通り抜けて、中心の一点へ、届いていく。届いていく声を、俺は、聞いた。聞くだけだった。
「聞こえているかしら」
一拍。答えは、無かった。無いまま、彼女は続けた。
「私よ。ヘスペリア。……あなたが数秒先に生まれて、私が数秒あとに生まれた。そう記録にあったわ。記録で知ったの。それまで、知らなかった。姉がいたことは聞かされていたけれど、顔も、声も、忘れていたわ。忘れなさい、と言われて、忘れられるものなのね、子供は」
道の上を、彼女の声が、まっすぐに通っていく。
「忘れなかったものが、一つだけあるの。夕方の空の、低いところの星。二人で見た。あれは私たちの星だと、どちらかが言ったわ。……どちらが言ったのか、私は、覚えていない」
一点の、色の無い場所で、何かが動いた。動いたのではなく、揺れた。全部の色の源が、一度だけ、揺れた。
「あなたは、覚えている?」




