第88話_怖い、です
嵐の縁は、色の壁だった。
近くで見ると、壁ではなかった。境目が、無い。全部の色が、ある所から急に始まるのではなく、薄い所から濃い所へ、なだらかに続いている。なだらかな坂の、どこからが嵐かを、目では決められなかった。決めたのは、λだった。
「ここから先、共鳴の同期率が、五割を超えます。五割を超えた所で、個の反応が、嵐の側に、引かれ始めます。……縁、と呼びます。縁の内側で、深度を管理します。管理できる限界を、先に、決めます」
「決めてくれ」
「深度三、まで。それより深く潜れば、あなたの共鳴が、嵐と同期します。同期すれば、戻りの合図が、届きません。……三で、中心まで、行きます。行けるかどうかは、不明です。行けなければ、戻ります」
行けなければ、戻る。降りる前に、戻りを決める。錨の作法だった。
縁の内側に、入った。
漂う機体が、見えた。二十六——今は、三十を超えている。王権の残存艦隊の機体が、無人のまま、嵐の色の中を、漂っている。推進器は、生きているものと、燃料の切れたものがある。どちらも、姿勢は正しかった。正しい姿勢で、誰も乗っていない。三番機の日の一機が、ここでは、三十だった。三十の空の機体の間を、五人で、進んだ。
王権の艦は、縁の外にいた。連邦の艦も、縁の外にいた。縁の内側にいるのは、空の機体と、俺たちだけだった。手を出せる者が、この空に、いない。
「深度、三です」とλが言った。「錨、繋いでいます。……嵐の側からの、引きを、感じています。引きは、あなたの方へ、行かせません。わたしが、受けます」
λが受ける。錨が、深い側からの引きを、浅い側で受け止めている。受け止めている分だけ、λの声が、いつもより、少しだけ、遅かった。
全部の色の中を、進んだ。
進みながら、彼女の色を、探した。藍。木星で沈んだ、静かで古い色。全部の色の中に、藍もある。あるが、他の全部と混ざっていて、彼女の藍ではなかった。彼女の藍は、一枚の刃だった。十の点で同時に存在する、一枚の。それが、ここには無い。
無い、と思った所で、見つけた。
全部の色の、真ん中。一点だけ、色の無い場所があった。
教団の無色とは、違う。あれは、周りの波を押し退けた穴だった。これは、押し退けていない。全部の色が、そこへ流れ込んでいる。流れ込んで、そこで、色が無くなっている。全部の色の源であって、源そのものは、色を持っていない。
「中心です」とλが言った。「旗艦の、共鳴調整区画。……隊長機の、反応は、ありません。反応が無いのではなく、反応が、嵐の全部です。全部が、彼女です」
全部が、彼女。
一枚の刃が、空の三分の一に、なっていた。
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中心まで、あと二十キロ。二十キロの色の坂を、深度三で、降りていく。降りるほど、同期率が上がる。λの声が、遅くなる。遅くなった声で、λは、数字を言い続けた。同期率、六割一分。六割四分。六割八分。
「λ」
「はい」
「中心に入れば、深度三で足りるか」
「足りません」とλは言った。即答だった。「中心では、同期率が、九割を超えます。九割の中で、個の反応を保つには、深度三では、足りません。……四が、要ります。四は、上限の外です」
四。深層接続。アーカイブ直結。単独で潜れば、戻れない深さ。
「錨があれば」
「錨があっても、四からの帰還の記録は、複製の中に、ありません。四百十六件は、全て、単独です。七百八十四件は、全て、三までです。……四で、錨と繋いだ記録は、ゼロ件です。ゼロと、全件の、どちらの欄にも、ありません」
どちらの欄にも無い。一人だけ、いた。あの人は、λと繋がって、四へ行って、戻らなかった。
「あの人の欄は」
「……あの人の欄は、あります。一件です。帰還、なし」
一件。ゼロと全件の間に、一件だけ。その一件の隣に、二件目を書くかどうかを、俺は、二十キロの坂の途中で、決めることになっていた。
ステラの声が、回線に入った。ガルムの後席から、短く。
「届くわ。私が行けば。……理屈は、言えない。でも、あの真ん中にいるのは、私の姉で、私は、姉の名前を知ってる。誰も呼んでいない名前を。呼べば、届く。届かなければ、私の間違い。間違いなら、私が引き受ける」
彼女は、知ってから動く人だ。今日は、知らないまま、動くと言った。言った声は、震えていなかった。
「行けば、間に合わせられるか、です」と、二日前の夜、λは言った。今、行けば、の先まで来ている。先に、四がある。四の先に、戻れるかどうかの欄が、空欄のまま、ある。
俺は、写真を見た。計器の脇の、顔の読めない一枚。地球まで、嵐の縁まで、一緒に来た。
「λ」
「はい」
「お前は、怖いとか思うか」
定点の、質問だった。初めて聞いたのは、墓場で拾って、間もない頃だ。あの時、λは答えを持っていなかった。持っていない、と、刻んだ声で言った。それから何度も、聞いた。答えは、少しずつ、変わった。分からない、から。処理できない、から。ずっと怖かった、言えないことが、まで。
三秒。
答えの出ない三秒を、λは、今日も、丁寧に使った。使い終えて、言った。
「怖い、です。……あなたを、失うことが」
刻みが、入った。怖い、の後に。
「今まで、怖い、の中身を、言えませんでした。言えないことが、怖い、と言いました。今日は、言えます。中身は、あなたです。あなたを、失うことが、怖いです。……四へ行けば、失うかもしれません。行かなければ、ステラが、届きません。届かなければ、嵐は、広がります。広がった嵐は、あなたを、いずれ、呑みます。どちらも、失う道です。どちらの道でも、わたしは、あなたの錨です。錨は、選びません。繋がっている側が、選びます」
錨は、選ばない。繋がっている側が、選ぶ。
「……行く」と俺は言った。「四へ。錨付きで。二件目を書きに行く。書いて、帰還、の欄を埋める。埋めた記録は、お前が持て」
「はい。持ちます。……降りる前に、戻りを決めます。目標深度、四。保持、不明。呼び戻しの合図は、わたしの声で、三つ数えます。いち、で、戻り始めてください。合図の前に戻るのは、構いません。合図の後に残るのは——」
「構いません、ではない」
「はい」
さん、に、いち。あの長さを、俺たちは、戻る長さにした。今日、その長さが、初めて、四の底まで届くかどうかを試す。
「ガルムさん。道を開けます。ステラを、中心まで」
「聞いた」とガルムの声が言った。「開けた道は、俺が保つ。お前は前だけ見ろ。……後ろは、割の悪い仕事の専門家が、四人いる」
四人。カレンの機体が、俺の斜め後ろに付いた。シドの機体が、その後ろ。ガルムの機体が、後席にステラを乗せて、一番後ろ。五人で、一列になった。
深度を、下げた。
三の底に触れて、触れたまま、留まらずに——四へ。
全部の色が、俺の輪郭の外側から、内側へ、流れ込み始めた。




