第83話_留守
――Methorion
承認番号、〇七八。
王権の攻勢は、四日続いていた。四日とも、朝に来て、昼に引く。引くたびに、指定深度の上がった橙が、翌朝、もう一段深くなって戻ってくる。深くなる分だけ狙いが硬くなり、硬くなる分だけ、こちらの手順も一段ずつ深くなる。深さの競り合いに、どちらの卓も、まだ天井を書いていなかった。天井を書かない卓の下で、消失の報告は、λの数える限り、先週の十一件から、今週は既に九件になっている。九件のうち、俺の照準の中で起きたものは無い。無いことを、毎朝、確かめてから出る。確かめる手順が、承認番号の次に、俺の朝の二番目になった。
その日、俺はカレンと組んでいた。
二機連携。地球の書式に、彼女の名前と俺の番号が並んでいる組み方だ。前に彼女、後ろに俺。彼女が引き、俺が止める。木星から数えて、もう何度目か分からない配置で、分からない程度には、体が覚えていた。
「深度、三です」とλが言った。「錨、繋いでいます。戻りの合図は、いつも通り」
さん、に、いち。降りる前に、戻りを決めてある。決めてあるから、降りられる。
彼女の引き方は、木星から変わっていない。逃げる形で、逃げない。追わせる速さを、追う側が気づかない程度に、少しずつ落とす。落とした分だけ、四機の間隔が詰まり、詰まった四機は、岩の影を回った先で、一本の線に並ぶ。並ぶ場所を、俺は先に知っている。知っている場所に、照準を置いて待つ。
橙の四機が、彼女を追った。彼女は追わせた。追わせて、岩の影を回り、回った先で、俺の射線に四機を並べる。並べ方は、いつも通り正確で、正確さの分だけ、俺は楽に撃てた。一機目、推進部。二機目、砲口。三機目——
近弾。
橙の一射が、彼女の機体の左脚を掠めた。掠めただけで、装甲の削れる音が回線に乗り、機体が半回転して、姿勢を戻した。戻したのは、彼女の腕だ。腕は無事で、機体も飛べる。飛べるが、掠めた。
掠めたこと自体に、彼女は怒らない。撃たれるのは仕事の内で、仕事の内のことで怒る人ではない。怒ったのは、撃たれ方だった。あの一射は、四機目からで、距離は八百、彼女の計算の外だった。追わせる速さは、相手の射程と、撃つまでの間合いで決めてある。その前提より二百遠く、半拍早く、当ててきた。指定深度で硬くなった狙いは、間合いを壊す。壊された間合いの中で、彼女の引き方は、一射分、正しくなかった。
『——ふざけないで。あんな距離から』
回線に、短く、それだけが乗った。怒りの声だった。計算の外から撃ってきた深さへの、怒りだった。カレンの怒りは、いつも短い。短くて、正直で、次の瞬間には次の行動に変わっている。変わる前の、一秒。その一秒の声が、回線を通って、俺の耳に入った。
三機目の砲口を、俺は撃った。四機目の推進部も、撃った。四機とも、止まった。止めるまでに、九秒。いつもより二秒、速かった。
「終わりです」とλが言った。「戻ります。さん、に、いち」
戻った。いつも通りに。いつも通りの一日の、はずだった。
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格納庫に降りて、固定具を外して、地面に立った。
肩の重さは、いつも通りだった。肩の重さを確かめる手順は、この二十日で、癖になっている。癖になった手順の中で、いつもと違うものが、一つ、残っていた。
怒っていた。
あの射手に。計算の外から、彼女の左脚を掠めた、橙の一射に。間合いを壊した深さに。ふざけないで、あんな距離から、と、頭の中で、誰かが言っていた。誰かではない。俺の声だった。俺の頭の中の声が、俺の語彙ではない言葉で、あの射手を怒っていた。
俺は、掠められていない。
機体は無傷で、体はどこも痛くない。掠められたのは彼女で、怒ったのも彼女で、その怒りは回線の向こうで一秒で終わっている。終わったものが、俺の中では、終わっていなかった。格納庫の床を歩く三十歩の間、怒りは俺の胸の真ん中にあって、その怒りの形は、俺の怒りの形ではなかった。俺の怒りは、もっと遅く、もっと静かで、岩の影にいる相手を数えるものだ。今、胸にあるのは、短くて、正直で、次の瞬間に行動に変わりたがっている——彼女の形をしていた。
形の違いは、分かった。分かったのに、怒りは引かなかった。引かないまま、俺はそれを、自分の怒りとして怒り続けていた。他人の怒りが自分の中にある、と分かることと、それを自分の怒りとして感じることは、両立した。両立していることが、おかしいと気づくのに、さらに歩数が要った。
工具棚の前で、俺は足を止めた。
止めて、数えた。着地から、ここまで。二分と少し。二分と少しの間、俺は、俺の怒りではない怒りを、俺の怒りとして、怒っていた。
怒りが、引いた。
引いた後に、何が残ったかを確かめようとして——確かめる場所が、一瞬、見つからなかった。いつもなら、他人の感情は、他人の側にある。回線の向こうの声は、声として聞こえ、聞こえた声について、俺は俺の側から思う。声と、思う俺の間に、線がある。線があることを、普段は意識しない。意識しないでいられるのは、線が、いつも同じ場所にあるからだ。
ここまでが彼女の怒りで、ここからが俺だ、という線を、引こうとした。引けなかった。線があった場所を、覚えていなかった。二分間、線が消えていたのではなく、線の消えていたことに、二分間、気づいていなかった。気づかない間、俺は、俺と彼女の区別が無い状態を、何も不自然に思わずに、歩いていた。
気づいたのは、線が戻ってからだった。戻った線の内側に、いつもの俺がいた。いつもの俺は、いつも通り、静かだった。静かなことが、今日は、少し怖かった。
顔は、出来ていた。
木星の食堂で、味のない皿を、味のある顔で食べた。あの日は、顔を作った。作れてしまうことが嫌だった。今日は、作っていない。作らなくても、いつもの顔が、いつもの場所に、出来ていた。出来ていた顔が、自分の顔かどうかを、俺はその時、確かめる方法を持っていなかった。
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夕方、格納庫に全員が揃った。
四機の整備が終わり、シドが工具を片付け、カレンが自分の機体の左脚の削れた跡を、指でなぞっていた。削れた跡は、浅かった。浅い跡を、彼女は三度なぞって、三度目で手を離した。離した時の顔は、もう怒っていなかった。彼女の怒りは、あの一秒で、本当に終わっていた。終わった怒りを、俺だけが、二分、持ち越していた。
ガルムが、整備台から俺を見た。
見て、一拍、置いた。置いた一拍が、この人にしては長かった。
「……顔が、留守だ」
格納庫が、少し静かになった。
「俺の台詞だぞ、それは」とシドが言った。工具を片付ける手を止めずに、言った。「木星の、あの夜のだ。飲みに誘って、やめた夜の」
木星の、あの夜。名前が一瞬出てこなかった日の夜だ。シドは、その日の俺の顔を、留守、と言った。言い方の正確さに、俺は感心した。感心する余裕が、あの日はあった。
「借りた」とガルムは言った。「返す気はない。……燈。今日の連携は、いつもより二秒速かった。速かった分の顔が、どこにも無い。留守だ」
二秒速かった。速かったのは、俺の怒りではない怒りが、俺の照準を、彼女の速さで動かしていたからだ。言えなかった。言えることは、一つしか持っていなかった。
「寝てない」
「寝てない顔じゃない」とガルムは言った。言って、それ以上、押さなかった。押さない代わりに、煙草を回す指が、いつもより一回、多く回った。
カレンが、俺を見た。左脚の削れた跡から、こちらへ。近弾の当人で、あの一秒の怒りの持ち主で、その怒りが俺の中に二分いたことを、知らない目だった。知らない目が、少しだけ、細くなった。細くなって、何も言わずに、機体の方へ戻った。
壁際の端末で、ステラが目を上げた。上げて、俺を見て、二秒。それから、また端末に戻った。書きつける手が、動かなかった。彼女は、読んだものを書く人だ。書かないということは、読んだものを、まだ、書く形にしていない、ということだ。読んで、書かない。彼女の読み方が、今日は、俺に向いていた。向いた読み方が、いつ書く形になるかは、彼女の側の時間だった。
隊は、引いた。引いてくれた。引き方が、木星の食堂の日より、遅かった。あの日は、カレンの一言で、卓の会話は次へ行った。今日は、ガルムが一拍置き、シドが台詞の出所を言い、カレンが目を細め、ステラが二秒見た。四人分の一拍が、格納庫の中に、まだ残っていた。残っている一拍を、俺は、隠せていない、と数えた。
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