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λ:ASTRA 〜星の共鳴者〜  作者: Pemo


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第78話_さん、に、いち

実験は、翌朝、管理区の閉鎖区画で行われた。


窓のない整備区画。機体を固定して、計測の線を三十本、機体とλに繋ぐ。連邦からは記録班が三人来た。三人とも階級章が低く、口数が少なく、計器の据え付けだけが速かった。審査長級は、来なかった。紙の側の人間は、紙で読む。


ガルムとシドとカレンは、区画の壁際に並んで立った。任務ではないから、立ち会いの義務はない。義務のない三人が朝から全員いることについて、誰も何も言わなかった。


「手順を、先に決めます」とλが言った。「降りる前に、戻りを決めます。これが、錨の作法です。目標深度、三。保持、九十秒。呼び戻しの合図は、わたしの声で、三つ数えます。さん、に、いち。いち、で、あなたは戻り始めてください。……合図の前に戻るのは、構いません。合図の後に残るのは、構いません、ではありません」


「分かった」


「生体の警告は、通常の書式で出します。警告を、止めないでください」


止めたのは、多分、操縦者の側だった——木星の底で見た記録の一行が、頭を掠めた。λも、同じ一行を思って言っているのだと分かった。分かったが、言わなかった。


降下は、静かに始まった。


一段。慣れた深さだ。機体の応答が半拍速くなり、計器の音が遠くなる。二段。ここまでは、戦闘で何度も使った。景色は変わらないのに、自分の輪郭の外側が、少しだけ薄くなる感じがある。到達率、六十八。いつも通りの数字だった。


三段目。


普段なら、ここで底に触れて、すぐ引き返す深さ。木星では、触れるたびに、λの生体警告が鳴った。今日は、警告の代わりに、手順がある。触れて、留まる。


到達率、九十一。


深い。深いのに、怖くなかった。理由は、すぐに分かった。背中に、線がある。物理の線ではない。λの声が、等間隔に届き続けている。「保持、六十秒経過。数値、安定」「保持、七十五秒」。声のする方向が、浅い側だった。方向が分かっている限り、深さは、ただの距離だった。


声の間隔が、一定なのにも意味があった。等間隔の声は、時計になる。深さの中では、時間の感覚が先に薄れる。九十秒がどれだけ経ったか、俺の体感は既に当てにならない。当てにならない部分を、λの声が代わりに数えている。錨は、繋ぐだけの物ではなかった。浅い側の時間を、深い側へ送り続ける物だった。


単独で潜った四百十六人には、この声が無かったのだと、深さの底で思った。深く潜ることは、多分、難しくない。難しいのは、どちらが上かを、覚えていることだ。


「保持、九十秒。……さん、に、いち」


いち、で、戻り始めた。戻る、と決めた瞬間に、声のする方向が引く力に変わった。泳ぎに似ていた。浮く方向さえ分かっていれば、浮くこと自体は、体がやる。二段、一段、そして計器の並ぶ現実の区画へ。


固定具の中で、体がいつもの重さに戻った。指を開いて、閉じる。二回目で、いつも通りに動いた。戦闘のあとと同じ重さが肩に載っているが、いつもより薄い。鼻の奥に、鉄の味が少しだけあって、垂れてくる前に消えた。代償は、ゼロではない。ゼロではないが、払える桁だった。


「帰還を、確認しました」とλが言った。「往復の所要、四分十一秒。摩耗度の増分——推定〇・三。参考値: 複製内の単独潜行の記録から推定される同深度の増分は、三から五です」


〇・三と、三から五。一桁、違った。


記録班の三人が、無言で計器を読み、無言で数値を控えていた。三人の手が、据え付けの時より、さらに速くなっていた。


---


記録班は、昼前に、計測データ一式を持って帰った。


持ち出しの書式に、受託者の確認欄があり、ガルムが署名を求められた。ガルムは書式を最初の行から最後の行まで読み、複写の枚数を数え、宛先の部署名を読み上げさせてから、署名した。読む時間の方が、署名の十倍長かった。記録班は急かさなかった。急かして速くなる相手ではないと、据え付けの間に分かったのだろう。


「写しは一部、こちらにも残したわ」とステラが言った。彼女は朝から区画の隅にいて、持ち出しの書式を記録班より先に読んでいた。「対象側にも計測結果の閲覧権がある。規程の何条かは聞かないで。あると言ったら、あるの。……法務の初仕事よ」


「全部持っていったな」と、三人が出て行ってから、ガルムは言った。「往復の数値も、λの声の間隔も、〇・三もだ。……宛先は運用局と、もう一つ、聞いたことのない部署だった。部署の数と、紙の重さは、比例する」


「実験の成果は」とλが言った。「あなたの安全の根拠であると、同時に、あなたの価値の計測です。安全に深く潜れる共鳴者は、運用の価値が上がります。価値が上がった対象は——専属の価値も、引き渡しの値も、上がります」


王権は、俺を「最重要保全対象」と呼んで戦争を始めた。呼び値の根拠は、木星までの戦闘記録だ。そこに今日、新しい数字が足された。深く潜って、桁違いに安く戻ってくる共鳴者。この数字が紙を伝って広がるほど、連邦は手放さない理由を増やし、王権は欲しがる理由を増やす。守るために測った数字が、そのまま、値札の桁になる。俺を深くから戻すための実験が、俺を巡る戦争を、多分、今日、少しだけ長くした。


「分かってて、やったんだろう」とガルムが言った。俺にではなく、λにだった。


「はい」とλは言った。「戻れない方が、高くつきます。どの値札より」


ガルムは、それ以上言わなかった。言わずに、口の端で、少しだけ笑った。


---


夜、閉鎖区画の計測線は外され、機体は格納庫の定位置に戻っていた。定位置というものが地球に出来ていること自体、まだ少し、慣れなかった。シドの工具の音が奥で止み、灯りが半分に落ちて、格納庫が夜の温度になる。木星と同じ手順で、違う星の夜が来る。


コックピットの中で、俺は今日の数値の並びを、もう一度眺めていた。到達率九十一。摩耗度〇・三。保持九十秒。さん、に、いち。


「λ」


「はい」


「三つ数えるのは、なぜだ」


「三秒は」とλは言った。「わたしたちが、何度も、待った長さです。答えの出ない三秒を、たくさん知っています。……今日から、三秒は、戻る長さにも、なりました。同じ長さに、別の使い方を、一つ足しました」


答えの出ない三秒。ジンの三秒。モスの三秒。あの長さが、今日、戻りの合図になった。


「これで、あなたは、深く行けて——戻れ、ます」


刻みが、入った。戻れ、の後に。


「今までは、深さは、危険の名前でした。今日からは、距離の名前です。距離なら、往復が、できます」


戻れる。その言葉を、俺は膝の上で、少しの間、転がしていた。


嬉しい。まず、それは確かだった。確かなまま、奥に、別のものが一つ、混ざっていた。


戻る場所は、今日より前から、あった。カレーの約束があった頃から。格納庫に四人がいる限り、ずっと。俺は理屈も数値も無しで、ただそこへ戻ってきた。それが今日、手順になった。深度三、保持九十秒、合図は三つ、摩耗度〇・三。戻る場所に、書式と数字が付いた。


数字が付いたから戻れるのではない。戻る場所が先にあって、数字は後から付いた。その順番だけは、間違えたくなかった。間違えなければ、この寂しさは、多分、持っていていい種類のものだ。


計器の脇の写真に、目をやった。顔の読めない一枚は、地球まで一緒に来ている。あの人は、λと繋がって潜って——戻らなかった。ゼロの欄にも、全件の欄にも、あの人の行は収まらない。収まらない行が一つあることを、俺は覚えておくことにして、今夜は、それ以上数えなかった。


「λ。今日は、いい実験だった」


「はい。……次は、実験ではない深さで、同じことをします。その時も、三つ、数えます」


壁の外で、王権の星の夜は静かだった。俺の今日の数字が、あの静けさのどこまで届いているのかは、まだ、分からなかった。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

続きが気になりましたら、ブックマークを。次回、迷わず戻れます。

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