第77話_読む場所を変える
――Peirama
その朝の審査は、辞表から始まった。
収容の項の審査は続いていた。卓の形は変わらない。奥に審査長、左右に事務官、手前に監査団、脇に俺。変わったのは、監査団の席で最初に立ち上がったのが、書類の束ではなく、一枚の紙を持ったステラだった、ということだ。
「監査役の任を、本日付で辞します」
卓が、一秒だけ止まった。事務官の手が三つとも止まり、俺の脇の警備の足が半歩動き、監査団の残りの二人が、隣の席の彼女を見た。誰も、聞き返さなかった。聞き返す種類の声では、なかったからだ。止まらなかったのは、審査長だけだった。
「理由は」
「監査役は、決定の過程を中から読む席です」とステラは言った。「読んで、順序の誤りを申し立てる。それが仕事です。……ですが、この審査は戦時特例で、順序より速度を選びました。選んだこと自体は、争いません。ただ、順序を捨てた過程を中から読み続けても、もう、誰も守れません。読む場所を、変えます」
「どこで読む」
「外です。対象側の、法務として」
事務官の一人が、顔を上げた。審査長は、上げなかった。
「利益相反の申告は」
「この書面に。監査役として知り得た情報は、規程の通り、持ち出しません。審査の中身も、記録の内容も、この部屋に置いていきます。……持って出るのは、書類の読み方だけです。読み方は情報ではなく、私の技能ですから。技能までは、規程も取り上げられません」
審査長は、紙を受け取って、一度で読んだ。
「受理する。……監査役が一人減れば、審査は速くなる。そちらにとって、良い取引かどうかは、知らんがな」
「良い取引です」とステラは言った。「速くなった審査を、外から読みますから」
彼女は一礼して、監査団の席を離れた。書類の束は、席に残した。監査の書類は監査の席の物だから、置いていく。さっき書面で言った通りのことを、所作でもう一度やって見せた形だった。それから卓を回って、俺の側の、壁際に立った。歩幅は普段のままで、物の置き場所を変えるくらいの、静かな移動だった。
卓を回る十歩ほどの間、彼女は一度も俺を見なかった。見なかったのは初日と同じで、意味は、逆になっていた。初日の「見ない」は、繋がりを読まれないためだった。今日は、もう読まれていい。読まれていいのに見ないのは、多分、これが仕事の移動であって、それ以外の何かではない、と卓に示すためだった。示し終わるまでが、辞め方だった。
その日の夕方、格納庫の工具棚の抽斗から、例の紙が出された。私設護衛契約の余白に、項目が一つ、手書きで増えた。法務・調整、ステラ。署名の場所が、五つから六つになった。
「肩書は自分で考えたの」と彼女は言った。「連邦の書式に無い仕事だから、名前も自分で付けるしかないのよ。……悪くない響きだと思わない?」
「報酬の欄は、読んだか」
「読んだわ。後払い。生きて終わった日に決める」ペンの尻で、彼女は自分の署名を一度だけ叩いた。「私の分も、同じ条件で付けておいて。……高くつくわよ、私の読み方は」
——連邦の監査役が一名、辞任し、対象の側へ移った。その報告は、同じ日のうちに、管理区の壁を越え、三つの中継を経て、王権のある卓に載った。報告の末尾に、監査役の姓が記されていた。卓は、報告を最後まで読み、短い指示を一つだけ返した。観測を、継続せよ。
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錨の話は、その夜に来た。
「解析が、終わりました」と、格納庫のλが言った。「木星で同期した時、わたしの中に写した、アーカイブの複製。その中の、運用記録の層です。……報告に、三十分ください。短くは、できません」
「使ってくれ」
λは、報告の遅い方の速度で、話し始めた。
「複製の中に、過去の共鳴者の潜行記録が、千二百件あります。深く潜った記録です。わたしは、それを二つに分けました。単独で潜った記録と、接続口と繋いで潜った記録です」
接続口。λが自分を指す時の、古い言い方だった。
「単独で潜った記録は、四百十六件。このうち、帰還の記録があるものは——ゼロ件です。全件、潜行の記録だけがあって、戻りの記録がありません」
「……全部か」
「全部です。深く潜って、単独で戻った者は、この複製の中には、一人もいません。次に、接続口と繋いで潜った記録は、七百八十四件。帰還の記録があるものは、七百八十四件。……全件です」
ゼロと、全件。
四百十六人の側を、俺は考えた。全員に、戻るつもりが無かったわけじゃないはずだ。戻るつもりで潜って、戻りの記録だけが無い。潜った理由も、腕の良し悪しも、四百十六通りあっただろうに、結果の欄は一種類しかない。反対側は七百八十四人が七百八十四人とも帰っている。腕でも、運でも、覚悟でもない。分けたのは、繋がっていたかどうか、それだけだった。統計というより、壁だった。壁のこちら側とあちら側で、生き死にが割れていた。
「木星で、あなたは、錨、という言葉を聞きました。名前だけで、中身がありませんでした。今日から、中身があります。深く潜る者は、浅い側に、自分を繋ぐ相手が要ります。繋ぐ相手のことを、記録は、錨と呼んでいます。わたしは、アーカイブへの接続口です。接続口は、錨に、なれます。……あなたの錨に」
「なぜ、繋がっていれば戻れる」
「不明です」とλは言った。即答だった。「複製の記録から読めたのは、数だけです。ゼロと、全件。理由は、どの層にも書かれていません。……書かれていないものを、わたしは、言えません」
書かれていないものは、言えない。λの不嘘の、いつもの形だった。
「数だけで、十分だ」と俺は言った。「で、検証か」
「はい。理論は、実験で確かめるまで、理論のままです。管理された深度で、一度、往復を。……申請が、要ります」
申請。専属運用が発効した今、俺の任務にも実験にも、承認番号の檻の外の道は残っていない。深く潜る練習ですら、檻に頼んで、檻の中でやる。書式の名目は「共鳴者運用・深度制御検証」。実施場所、管理区内。立会、連邦の指定する記録要員。λが申請を打って、承認は、二分で下りた。いつもの半分だった。夜中の申請に、夜中のうちに判が付いた計算になる。
「早いな」と、報告を聞いたガルムが言った。「向こうが二つ返事で通す申請ってのはな、向こうの得になる申請だ。……覚えとけ」
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