第76話_私設護衛契約
木星の底で見た、あの記録の外側の景色だった。記録は、親父の機体の目で撮られていた。同じ数分を、隊列の中から見ていた目が、今、隣に座っている。
「渦は、広がりながら追ってきた。こっちの後退より、少しだけ速かった。数字にすれば、谷の出口まで持たない速さだ。四十一の続きに、残りの全員が並ぶはずだった。……そうならなかったのは、単機が渦の真ん中で、何かをやったからだ。渦が静まって、追いつかれる前に、全員が谷を出た」
ガルムは、そこで初めて俺を見た。
「死んだ四十一人の名前は、標に彫られた。俺は毎年、数字だけ確かめてる。……助かった側の名前は、どこにも彫られない。彫られないのが当たり前だ。助かった話は、記録にならない。だが俺は覚えてる。あの日、谷を出た機体の数。その中に、俺がいたこと。殿を外された駆け出しが、生きて出たことをだ」
助かった側の名簿は、どこにも無い。無いまま、一人の頭の中でだけ、十三年、読まれてきた。
「言えなかった理由は、木星で話した通りだ。確信がなかった。外れてたら、お前の持ってる少ないものを掻き回す。……もう一つあった。これを話すには、俺があの日、助けられた側だったと言わなきゃならん。お前の親父の話をしながら、話の真ん中に、俺の命の勘定が入る。それが、嫌だった。お前の話に、俺の借りを混ぜたくなかった」
「……借り」
「傭兵はな、貰いものが嫌いだ。仕事には値段がつく。値段のついてないものを受け取ると、返すまで、勘定が合わん。あの日、俺は値段のつけようのないものを貰った。返そうにも、相手は消えてる。返し先のない借りを抱えたまま、十三年やった。……十三年目に、墓場で、餓死しかけの子供を拾った」
火のない煙草が、止まった。
「拾った時は、偶然だと思ってた。本当に偶然だった。誰の息子かも知らん。ただの、腕の立ちそうな子供だ。……刻印を見た日から、疑い始めた。疑いながら、考えてた。もしこれが、あの単機の息子なら。返し先のなかった借りに、返し先があったことになる、とな」
「割の悪い仕事が好きなのも、それですか」
「半分はな」とガルムは言った。「あの日、一番割の悪い仕事を、頼まれてもいないのに単機でやった奴がいた。そのおかげで俺は生きてる。……割の悪い仕事から逃げたら、あの日の勘定が、また合わなくなる。だから引き受ける。癖になるまで引き受けて、癖になった。それが半分。残りの半分は、ただの性分だ」
聞き終わって、俺は自分の中を探した。怒りは、今度も出てこなかった。出てきたのは、別のものだった。この人の十三年の中に、親父が最初からいた。俺が写真しか持っていなかった十三年、この人は、谷の出口の数を持っていた。数えた人の隣に、俺は四年いて、四年、何も知らずに飯を食っていた。
知らなかった四年を、悔しいとは思わなかった。この人は、確信がないうちは言わない人で、言わない間も、割の悪い仕事を引き受け続ける人だった。つまり俺は四年、この人の返し方の中で暮らしていた。知らされる前から、借りの返し先は、ちゃんと俺だった。
「なぜ、今、話すんですか」
「三日後に、契約が切れる」とガルムは言った。「切れた後の話をする前に、勘定を全部、卓に載せておきたかった。……次の紙は、借りの混ざってない目で、読んでほしいからだ」
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失効の日は、朝から書式で始まった。
「報告します」とλが言った。「専属運用の項が、発効しました。同時刻をもって、《灰狼》との傭兵契約は、失効です。……あなたの名前の載る文面は、これで、ありません」
無くなった。四年持った署名が、今朝、効力の切れた印刷になった。名前そのものは紙の上に残る。残るが、もう何も頼んでいないし、何も約束していない。それを、無い、と数えるのだと、λの数え方で分かった。
格納庫に降りると、卓に全員が揃っていた。卓の真ん中に、紙が一枚、置いてあった。端末の画面ではなく、紙だった。
「私設護衛契約」とガルムは言った。「連邦の書式じゃない。王権のでも、教団のでもない。俺が今朝、自分で書いた。……読め」
読んだ。短い紙だった。書式の見出しも、政府の印も、承認番号の枠もない。あるのは項目が六つと、署名の場所が五つ。手書きの字は、几帳面で、少しだけ右上がりだった。この人の字を、まともに見るのは初めてだった。
契約主体、燈。護衛対象、契約主体本人。受託者、《灰狼》。期間、契約主体の解約まで。報酬——後払い。金額は、生きて終わった日に、双方で決める。
「主体は、お前だ」とガルムは言った。「政府の紙は、全部、お前を対象って書く。この紙だけは、お前が頼む側だ。俺たちは、頼まれる側。……傭兵は、頼まれて動く。誰に頼まれるかを、今日から、自分で選んだ」
「報酬の欄が、雑です」
「雑じゃない。後払いってのは、一番高くつく払い方だ」ガルムは、口の端だけで笑った。「生きて終わった日に決める。決める日まで、こっちは死ねん。お前も、死なせられん。……報酬の欄ってのはな、そのために書く」
シドが、卓に身を乗り出して、紙の下の方に何かを書いた。覗くと、整備責任の欄に、名前が入っていた。四十日、空欄で通した人の、初めての署名だった。
「連邦の紙には、要らん」とシドは言った。「これには、要る。誰の機体を誰が整備してるか、この紙の中でだけは、名前で書いておく」
カレンが続けて、受託者の連名に署名して、備考の欄に一行、書き足した。二機連携、継続。木星より短い備考だった。「短くていいの。この紙は、通す相手がいないから」
最後に、ガルムが受託者の筆頭に署名して、紙を俺の前へ滑らせた。
ペンは、重くなかった。書いた。四年前と同じ名前を、今度は主体の欄に。
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「拾ったのは、偶然だった」と、ガルムは言った。署名の乾く間の、短い沈黙のあとだった。「偶然を、十三年ぶんの疑いが追いかけて、木星で追いついた。……今日からは、偶然じゃない。選んで、この紙にした。それだけだ」
それだけだ、が、いつもより長い道のりの果てに置かれていた。
「偶然でいいです」と、俺は言った。「墓場で拾われたのも、λを見つけたのも、この四人だったのも、全部、偶然から始まってる。……偶然から始まった全部が、今、ここにいます。始まりが偶然でも、続けたのは、偶然じゃない」
ガルムは、何も言わなかった。言わずに、火のない煙草を、初めて胸の物入れにしまい直した。
「報告します」とλが言った。「本契約の文面を、記録しました。あなたの名前の載る文面が、一枚、戻りました。……前の紙では、あなたの名前は、雇われる側の欄にありました。今日の紙では、頼む側の欄にあります。名前の、場所が、変わりました」
刻みが、入った。場所が、の前で。
「四年前の紙も、今日の紙も、あなたが自分で書きました。……あなたの名前は、あなたが書いた場所にだけ、あります」
「初回は明朝、〇六八だ」とガルムが言った。「仕事は昨日までと変わらん。北の哨戒。同じ空を、同じ機体で飛ぶ。……変わったのは、紙の上だけだ」
紙の上だけ。この七日で覚えたことが一つあるとすれば、紙の上だけ、という言葉の嘘だ。措置も、失効も、戦争の名前も、全部、紙の上から始まって、紙の外の俺たちを動かした。紙の上だけのものなど、多分、一枚も無い。だからこそ、今日の一枚を作った。
明日からの任務は、変わらず承認番号の下にある。天井の閉まった檻の中で、同じ空を飛ぶ。変わったのは、番号の下で飛ぶ俺たちが、誰に頼まれてそこにいるか。
頼んだのは、俺だ。それを書いた紙が、政府の書庫ではなく、格納庫の工具棚の抽斗に、一枚だけ入っている。
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