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λ:ASTRA 〜星の共鳴者〜  作者: Pemo


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第68話_わたしが、覚えています

「言えることを、全部言います」


λは、そう前置きした。柔らかくする声ではなかった。事実を運ぶ時の、λの一番誠実な声だった。


「アーカイブの記録に、この現象の名前があります。——摩耗、と呼ばれています」


「街の言葉か」


「はい。深達者たちの、経過の記録に、繰り返し現れる言葉です。深く潜った者が、何を、どの順で失っていったか。……百五十年前の人たちは、それを、几帳面に記録していました。几帳面さの理由は、多分、恐怖です。恐怖は、几帳面に記録されるのです」


摩耗。


「深く潜る者の、自己の輪郭が、削れていく現象です。記録によれば、進行の速度は、深さと、頻度に、依存します。……あなたは先日、深度三の全開を、十一分。記録の中の誰よりも、深く、長く」


「削れる順番は、分かるのか」


「分かりません。記録には、傾向だけがあります。……自己と強く結びついた記憶から、削れる、と」


自己と強く結びついた記憶から。


カレーが選ばれた理由が、それだった。約束と、実現と、喪失と。モスと、あの店と、五皿目と。俺という人間の輪郭に、一番深く編み込まれていた味だから、輪郭と一緒に、削れた。


「以前、戦闘の後で、あなたは一度、自分の名前が出てきませんでした」とλは続けた。「一瞬でした。あなたは疲労だと言い、わたしも、その時は、判別できませんでした。……あれが、最初だったと、今は、推定します」


名前が、一番目。味が、二番目。


「止める方法は」


「わたしの持つ記録の中には——見つかっていません」


λは、無い、とは言わなかった。見つかっていない、と言った。言葉の選び方の正確さが、λの精一杯の、嘘のない希望だった。


「進行を遅くする方法なら、あります。深く潜らないこと。潜る時間を短くすること。……ただ、それは」


「戦うな、と同じ意味だ」


「はい」


次に削れるものを、数えかけて、やめた。カレンの声。シドの軽口。ガルムの短い言葉。写真の中の親父の顔。λの——。数える先に並ぶものが、全部、数えたくないものだった。数えることが得意な俺が、生まれて初めて、数えることを怖いと思った。


沈黙が、少しの間、部屋にあった。警報は鳴っていない。数値は正常域で、体はどこも痛くない。痛まないまま、俺は削れていく。欠落は、痛まない。痛まないことが、この現象の、一番の悪意だった。


---


「λ。頼みがある」


「はい」


「モスの記録を——あの店の日の記録を、読んでくれ」


λは、一拍だけ間を置いた。それから、読み始めた。


「当日の記録です。十八時二十分、入店。五名分の席を、四名で使用。五皿目は、空席の前。……皿の色は、白。縁に、青の線が一本。モスさんの発言、引用します。『いいですか、地球のカレーはこんなもんじゃないんですよ。俺、いつか連れてきますからね、全員』——発言中、モスさんは、スプーンを三回、振っています」


読み上げは、記録の声だった。泣かせに来ない、事実の並びの声。感傷の抑揚を一切足さない声で読まれる事実の並びの中に、あの日が、湯気ごと、そのまま立っていた。


「一口目の後、あなたは何も言いませんでした。二口目の後、モスさんが『どうです』と聞き、あなたは『……うまい』と答えています。モスさんは、その後、同じ話を、二回、繰り返しました。……嬉しい時に、同じ話を繰り返す人でした」


「……ああ」


「会計の記録もあります。モスさんは、四人分を払おうとして、ガルムさんに止められています。『お前の取り分は地球行きの箱だろうが』——ガルムさんの発言です。モスさんは『じゃあ利子だけ』と言って、全員の食後の茶を、払っています」


利子だけ。あの男の金の使い方まで、記録は覚えていた。


「湯気の記録もあります。五皿目の湯気は、撮影の時点まで、立っていました。オーナーの方が、写真の直前に、皿を置き直したからです。冷めないように、と」


知らなかった。五皿目の湯気に、そんな手が入っていたことを、俺は今日まで知らなかった。人間の記憶より、機械の記録の方が、あの日を多く持っていた。


「俺が忘れても、お前が覚えてる」


「はい」と、λは言った。「それが、わたしの、役割です」


それから、λは静かに足した。


「あなたの味は、わたしが覚えています。皿の記録も、記憶の記録も。……わたしが、開いている限り、消えません」


持って行けない街を持っていたλが、今日は、俺の欠けた場所を持っていた。埋まらない。記録は、味を返してはくれない。俺の舌の上に、あの一口目が戻る日は、多分もう来ない。それでも、欠けた場所の形を、寸法まで正確に覚えている者が、隣にいる。埋まらないものの隣に、覚えている者がいる。それが今夜の、全部だった。


「λ。これから、時々、読んでくれ。今日みたいに」


「頻度を、指定しますか」


「お前に任せる。……俺が忘れてそうな顔をしてる日に」


「了解しました。観測基準: あなたの、忘れてそうな顔。……曖昧な基準ですが、受理します。わたしは、あなたの顔の記録を、誰より持っていますので」


「読むの、つらいか」


「……はい」と、λは言った。「それでも、よみ、ます」


刻みが、一語だけ戻って、消えた。


---


翌朝、日課は続いた。


整備と、訓練枠と、報告書。朝の食堂で、カレンが「今日は塩、控えたら」と笑い、俺は「そうする」と返した。返せた。欠けたまま、日常は続く。続けられることが、多分、今の俺にできる唯一の抵抗だった。


訓練枠の後、λが静かに聞いた。「隊の皆さんに、言いますか」


「……言わない。まだ」


「理由を、聞いても」


「言えば、あの人たちは俺を戦わせない方を選ぶ。選ばせたくない。……選ばせたら、多分、別のものが削れる」


「記録します」とλは言った。「賛成の記録では、ありません。……ただの、記録です」


「一つだけ、条件を付けます」と、λは続けた。「次から、潜る深さの上限は、二人で決めます。戦闘の前に、その日の上限を。……あなた一人の判断では、もう、潜らせません」


「戦場で、相談してる暇があるか」


「作ります。〇・五秒あれば、足ります。わたしは、速いので」


交渉の余地のない声だった。俺は頷いた。削れていく男と、削れ方を覚えている錨の、二人の運用が、今日から始まった。


賛成しないまま、黙っていてくれる。λの線の引き方が、今日も正確だった。


夕方、λが二つの報せを持ってきた。


「一つ目です。本国から、封緘指令が届いています。宛先は、艦長と——監査団。件名に、あなたの識別番号が、含まれています。……内容は、わたしには、読めません」


封緘。俺の番号のついた、読めない紙。あの全開の数値が地球へ飛んでから、返事が来るのに、ちょうど往復の日数だった。数値は向こうで会議になり、会議は指令になり、指令は封をされて、俺の頭の上を通り過ぎて、艦長と監査団の机に置かれる。当人だけが読めない紙に、当人の処遇が書いてある。膜の向こうの手続きが、また一枚、厚くなった。


「二つ目です」


λの声が、報せの声から、警報の手前の声に変わった。


「航路の前方、四十万キロに、未識別の艦影——三。針路、こちら。呼びかけに、応答が、ありません。艦級の照合は……継続中です。既知のどの形式とも、まだ、一致しません」


応答のない三隻。読めない紙と、読めない船が、同じ日に届いた。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

続きが気になりましたら、ブックマークを。次回、迷わず戻れます。

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