第67話_六日目の昼
――Ageusia
帰路の五日目には、日課が戻っていた。
朝の整備、午前の訓練枠、午後の報告書。カレンは医務室でリハビリの数字を伸ばし、シドは補充された弾薬の帳合いに満足げで、ガルムは連邦との精算交渉を書類の上で続けている。戦闘のない一日が終わり、また始まる。船団の速度は一定で、警報は鳴らず、俺の生体数値は、λの読み上げによれば「全て、正常域です」。
一つだけ、正常の外にあるものが残っていた。
回復は、数字の上では完了していた。深度三の全開から十日。生体負荷は基準線に戻り、訓練枠の機体は素直に動き、夜は夢も見ずに眠れた。体は、何も訴えてこない。訴えてこない体を、俺は以前より疑うようになっていた。
「例の数値は」と、朝の点検で聞くのが習慣になった。
「継続しています」とλは答える。「変動なし。危険域でもなし。……説明も、つかないままです」
円を離れてから、三つの勢力は静かだった。教団の九隻は閉じた円の上に留まり、王権の艦隊は観測位置を動かず、追ってくる艦影はない。戦争が終わったわけではないことを全員が知っていて、知っているまま、船団は平和の形の毎日を回している。平和の形、というのは正確な言い方だ。形だけは、完全に平和だった。
カレンのリハビリは予定より速く進んでいた。「守られる側は、もう飽きたの」というのが本人の弁で、医務班は苦笑いをしながら数字を認めた。シドは補充弾薬の検品に一日かけ、検品の丁寧さで機嫌の良さが分かった。日常は、こういう細部でできている。
説明のつかない数値は、痛まない。痛まないから、日課の中に紛れて、五日、そこにあり続けた。
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六日目の昼、食堂の献立がカレーだった。
配膳の列で、鍋の湯気が匂った。匂いは、ちゃんと届いた。皿を受け取り、《灰狼》の卓につく。ガルムとシドが精算の話を続けていて、カレンがリハビリ明けの腕で器用にスプーンを使い始める。いつもの卓だった。いつもの音の中で、俺は一口目を食べた。
違和感は、香りと味の継ぎ目で起きた。
匂いから味へ、いつもなら地続きで渡る橋が、途中で切れていた。渡ったはずの先に、床がない。舌は仕事をしている。熱い、辛い、飯が甘い。全部の報告が揃っているのに、報告の束ねる先の——カレーという味の本体だけが、
——何も、なかった。
熱は、ある。舌の上の辛さの刺激も、飯の甘さも、ある。カレーの味だけが、なかった。辛さの熱の向こうに、あるはずの味の本体が、すっぽりと、無い。
二口目。同じだった。三口目、スプーンを置いて、水を飲んで、四口目。
無い。
「あなた、さっきから塩ばっかり」とカレンが言った。「配給の味、そんなに薄い?」
「……寝起きの舌なんだ」
「昼よ、今」
「昼寝起きだ」
カレンは呆れ顔で自分の皿に戻った。戻ってくれた。卓の会話は続き、シドが精算の何かで笑い、湯気は皿の上で立ち続けている。全部が、いつも通りだった。俺の舌の上だけが、いつも通りじゃなかった。
誰も、モスの話をしなかった。カレーの日にモスの話をしないのは、この隊の、いつからかの作法だった。話さないことと、忘れていないことは、卓の全員の中で両立している。両立しているはずだった。俺の舌の上以外では。
食べる速度を、周りに合わせた。スプーンの角度も、皿の減り方も、いつも通りに作った。作れてしまうことが、嫌だった。味のない皿を、味のある顔で食べる技術なんて、覚えたくなかった。
皿は、空にした。空にする間、俺はずっと、熱と刺激だけを食べていた。
食堂を出て、通路を歩いた。すれ違う人の会話、配管の音、遠い機関の唸り。世界は何も変わっていなかった。変わったのは、俺の内側の、皿一枚ぶんの領域だけだった。皿一枚。そう思おうとして、思えなかった。あの皿一枚に、どれだけのものが載っていたかを、俺は知っている。
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夜、自室でλと確かめた。
「手順を、提案します」とλは言った。「一つずつ、切り分けます。感覚の問題か、対象の問題か、記憶の問題か」
「順番に行きます。まず、基礎の味覚です」
乾パンを齧った。味がした。保存果実。した。茶。した。配給の甘味棒。した。塩を一粒。した。どれも、正しい場所に、正しい味があった。
「基礎味覚、全て正常です。次に——対象を、変えます」
食堂から持ち帰った、カレーの小皿。
しなかった。
「……対象が、限定されています」とλが言った。「味覚の全般的な減衰では、ありません。カレー、だけです」
カレーだけ。切り分けの結果は、安心の形をしていなかった。逆だった。全部薄いなら、舌の故障で済む。一つだけ消えているのは、故障じゃない。選ばれている。俺の中の何かが、消す対象を、選んでいる。
「次を、確かめますか」とλが言った。声が、少しだけ慎重になった。「……記憶の側です」
端末に、写真を出した。
あの店の五皿。モスが笑っていて、空の椅子の前に五皿目が湯気を立てている一枚。写真は、いつも通りに見えた。モスの顔も、店の壁の色も、覚えている。
「写真の中の情報から、辿ります」とλが言った。「視覚の記憶と、味の記憶は、別の場所にあります。写真を見て、思い出せる順に、言葉にしてください」
「店の壁は、煮込みの色に焼けてた。オーナーは無口で、皿を置く時だけ丁寧だった。モスは……喋ってた。ずっと。スプーンを振るなって、カレンに二回言われてた」
「はい。全て、わたしの記録と一致します。……では、次です。味を」
味を、辿った。
あの日の一口目。約束の皿。モスがうるさいくらい喋っていた卓の、スプーンの上の——
——辿れなかった。
思い出の中の皿から、味だけが抜けていた。湯気の匂いの記憶は、ある。熱かったことも、覚えている。うまい、と思ったことは、事実として覚えている。うまい、の中身が、無い。事実の骨だけが残って、味という肉が、記憶の中から、いつの間にか、削がれていた。
皿からも、記憶からも、同じ場所が欠けている。
「λ」
声が、少し掠れた。
「俺は、いつから、これを失ってた」
「分かりません」と、λは言った。「味の記憶は、使う瞬間まで、外から観測できません。……ただ、一つ、言えることがあります。撤退戦の後から観測している、説明のつかない数値——あの数値の変動と、本日の欠落は、同じ系統です。照合が、今、終わりました」
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