第66話_錨
突破は、老練の形で来た。
ガルムは、力で割らなかった。単機で前へ出た隊長は、遮断の三隻の火線が交わる一点——ではなく、その手前の、何もない座標で機体を止めた。
『前に出る。シド、二分だけ全部持て』
『二分な。……利子付けて返せよ』
二枚の壁が一枚になる音を、俺は聞いた。シドの数字の申告が止まり、代わりに近接防御の連続音が船体を包む。一枚で持つ、というのはこういう音なのだと、寝台の上で覚えた。
そして、ガルムの声が言った。
「置き土産の時間だ」
岩棚に、残してきたものがあった。拠点の解体で回収しなかった自動砲座、四基。撤収の隙のなさが取り柄の傭兵が、隙のない撤収の中で、わざと置いてきた四基。地表の砲座が時限で目を覚まし、遮断の三隻の背中側から、一斉に火を噴いた。
威力は、大きくない。大きくなくていい。背中を撃たれた船は、背中に艦体を向け直す。三隻の遮断陣形が、数十秒、歪んだ。
『置いてきたんじゃない』と、あとでガルムは言うことになる。『仕込んできたんだ。撤収ってのは、次の戦場の準備のことだ』
数十秒。逃げ切りの戦いで、それは大金だった。
「今だ。船団、面舵。渡した航路の二番へ」
二番の航路は、王権の観測艦隊の測距圏を、掠めて通る線だった。
教団の機動隊が、追撃の針路をそちらへ曲げ——曲げ切る手前で、減速した。測距圏の縁で、無色の機体が、初めて躊躇に似た機動を見せた。数日前、あの藍に殻を剥がされた側は、藍の間合いに入りたがらない。
「……敵の敵の軒先を、借りるわけだ」とシドの声。『家賃は、取られなかったな』
軒先の通過は、十一分かかった。
十一分、船団は王権の九隻の砲の射程内にいた。撃つ気なら、いつでも撃てる距離。医務室の表示板の中で、七つの光点が、九つの光点の脇を、静かに滑っていく。カレンも、俺も、その十一分は口を開かなかった。音のない圧、というものを、音の戦場の後で初めて知った。
王権は、動かなかった。撃ちもせず、遮りもせず、測距波だけを船団に等しく浴びせながら、七隻が軒先を通り抜けるのを、黙って測っていた。測られ続けることが通行料なら、今日の家賃は、安くなかった。
円の弧を、船団が越えた。
越えた瞬間を告げる警報はなかった。ただ、砲声の間隔が開き、開いて、途切れ、船体の軋みが平常の音に戻っていった。カレンが先に言った。
「……抜けたわ。音で、分かる」
二十六機のうち、落としたのは九機だけだった。九機で足りた。逃げ切る戦いの勘定は、撃墜数ではなく、七隻という数字が減らなかったことの方にある。二枚の壁は、二枚とも、帰ってきた。
『帰投した』とガルムの声が医務室の回線に入った。『寝てる連中に伝えとけ。——全員で出て、全員で抜けた。以上だ』
以上だ、の後ろに、疲労の色が薄く滲んでいた。滲みを聞き取れる程度には、俺もこの人の声を長く聞いてきた。カレンが天井に向かって、小さく息を吐いた。安堵は、音になると、ため息と同じ形をしていた。
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三日目の朝、俺は自分の足で医務室の床に立った。
膝は震えたが、崩れなかった。カレンが寝台から拍手の形だけ作り、λが生体数値を読み上げ、回復の残り時間を七時間、と告げた。
昼、ガルムが医務室に来た。戦闘後の報告でも、見舞いでもなく、ただ立ち寄った、という顔で入ってきて、寝台の脇の背負い枠——λのユニットの前で、足を止めた。
立ち寄った、という顔で来る時のガルムは、用事を持っている。用事を用事の顔で持って来ないのが、この人の流儀だった。
「三日間、こいつは何をしてた」と、ガルムは俺に聞いた。
答えは、俺よりカレンの方が詳しかった。「この子の警報、船団のより四十秒早かったわ。全部よ。管制が非常時定数を、この子の数字に合わせて書き換えたくらい」
「俺のバイタルの監視と、船団の警報と、戦場の中継と……多分、俺が知らない仕事も」
「降りたままだったわけだ」とガルムは言った。「嵐の間、ずっと」
それから、背負い枠を見て、短く言った。
「船で言や——錨だな」
錨。
「船が流されんのは、錨が海の底を掴んでるからだ。嵐の日に錨を巻き上げる馬鹿はいない。……いい仕事だった」
λは、少しの間、黙っていた。
三日間、λは眠らなかった。眠れない設計だから、ではない。俺のバイタルの秒単位の監視と、船団警報と、戦場の中継と、俺の知らない仕事とを、一つも落とさずに回し続けた三日は、設計の話ではなく、λがそう決めた話だった。決めた三日の終わりに、外から名前が来た。
それから、λは答えた。
「……いかり」と、λは一度、音で確かめた。「いい、呼ばれ方です。記録します。正式名称ではなく——わたしの、呼ばれ方として」
ガルムは頷いて、来た時と同じ顔で出ていった。命名式は、それで全部だった。それで、足りていた。
その夜、消灯の後で、λが小さく言った。
「錨は、船を止める道具です。……でも、ガルムさんの言い方では、守る道具でした。同じ物の、別の呼び方です。わたしは——守る方の錨として、記録しました」
「どっちでも、海の底は掴んでるんだろ」
「はい。掴んで、います。……ずっと」
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二日後の夜、観測画面の中で、円が閉じた。
九隻が名前のない衛星の低軌道に達し、円は衛星を呑む最後の一絞りを終えた。観測波の返りが濁り、灰色の岩と氷と、閉じた隔壁と、置いてきた街の全部が、九隻の白の内側に沈んで、画面から消えていった。
医務室には、カレンと、俺と、λがいた。誰も何も言わなかった。十日あまり、あの岩と氷の上で寝起きした。街を歩いた。底へ降りた。あの椅子の並ぶ学び舎の前を、何度も通った。通った場所の全部が、白い円の内側で、観測の返らない灰色になっていく。
帰れない場所が、一つ、完成した。
「λ。街は」
「観測できません」と、λは言った。「……ただ、記録は、覚えています。全部。わたしが、開いている限り」
持って行けない街を、λだけが持っていた。
帰路は、長い。来た時と同じだけの日数が、これから始まる。戦闘のない日々の予定表を、船団はもう配り始めていた。訓練と、整備と、報告書と、配給の食事。戦争から遠ざかっていく毎日の形が、久しぶりに戻ってくる。戻ってくるはずだった。
消灯の前に、λが言った。定時報告の続きのような、静かな声だった。
「それと、一つ。あなたの回復データの中に……説明の、つかない数値が、一つあります」
「悪いやつか」
「不明です。危険域では、ありません。ただ——わたしの持っているどの回復曲線とも、形が違います。……観測を、続けます」
説明のつかない数値。三日の闇から戻った体の、どこかに、名前のないものが一つ、混ざっていた。
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