第64話_静けさ
通る瞬間は、いつも一歩に満たない。
三度、この縁で足を止めた。止めた三度ぶんの深さを、一歩で全部降りる。降りる、というのは多分正確じゃない。深さの方から、俺を覚えていて、迎えに来る。久しぶり、とでも言うように。
世界の音が、変わった。
色が層になる。十機の藍の下の、機体の位相。位相の中の、駆動の律動。兵装の撃発の、火の眠り。深度の底で、世界は色の織物で、織物の糸の一本一本に、俺の指が届いた。
届くなら、選べる。
一機目。主兵装の撃発機構、沈黙。副兵装、沈黙。推進器、六割まで絞る。落とさない。殺さない。ただ、戦う機能だけを、糸ごとに摘んで消していく。
二機目。三機目。
『出力が——全系統、落ちます』
『撃てません、トリガーが、生きてない——』
若い声が、藍の中で初めて割れた。整列が、防壁の形に組み変わる。十の波形が隊長機の周期に深く嵌まり、藍が固く、厚くなる。支配の網で、干渉を受け止めるつもりだった。
網は、上に張るものだ。
俺の干渉は、網の下を通った。個の意思を溶かした整列は、溶けた分だけ、個の機体の底が無防備だった。支配の同期は上から個を束ねる。俺の指は、束の下の、機体という物の位相に触っている。束ね方がどれだけ固くても、物の底は、物のままだった。
四機目、五機目。防壁の内側で、兵装が順番に眠っていく。
『隊長、これは——計測外です。数値が、意味を——』
若い声の報告が、途中で言葉を失った。計測の言葉で育った兵が、計測の言葉の外にいた。
六機目、七機目。
戦場が、静かになっていった。
砲声が減る。噴射音が減る。撃てる機体が減っていくのだから当たり前で、当たり前の物理が、こんなに不気味な静けさを作るとは思っていなかった。八機目。九機目。十機目。
静けさが、勝敗の形をしていた。
そして、彼女が撃った。
隊長機の四門が、防壁の崩れた藍の中から、俺だけに向けて開いた。全弾、本気の色。計測でも、儀礼でもない。彼女の全部が、四本の橙になって飛んでくる。
四本の橙は、美しかった。据わった照準、完璧な時間差、退路を三方向とも塞ぐ弾道設計。教科書が百年かけても書けない四射を、彼女は防壁の崩れる音の中で、平然と組んでいた。数日前なら、俺は素の全力で、ぎりぎり躱していた。
今日は、避けなかった。
弾体の位相に、四本とも、指を置いた。火薬の火を眠らせ、弾体の運動だけを残す。四つの死んだ質量が、俺の機体の横を、ただの石ころとして流れていった。躱すことすら、しなかった。躱す価値の順位を、俺の深さが勝手に決めて、その決定を、彼女の計測器は一つ残らず拾っている。
二射目は、来なかった。
隊長機は、四門を開いたまま、静止していた。俺の目に、彼女の藍が見えた。揺れていなかった。乱れてもいなかった。ただ——沈んでいった。静かな水面が、音もなく水位を下げていくように、藍の光量が、ゆっくりと、深いところへ沈んでいく。
俺は、隊長機に触れなかった。兵装も、推進器も、何一つ。触れないまま、次の仕事のために視線を外した。外したことを、彼女の計測は、多分、正確に記録した。
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撤退は、静かだった。
彼女は何も言わなかった。捨て台詞も、次の約束も、計測波の一本もなく、機能を摘まれた十機を回収機で束ね、隊列を組み直し、来た針路を正確に逆へ辿っていく。手順は完璧で、無駄がなく、感情の形をしたものが、一つも混ざっていなかった。
完璧な手順で去っていく藍を、俺だけが見送った。来た時の藍と、帰っていく藍は、別の色だった。光量の差を言葉にできるのは、多分、この戦場で俺の目だけで、俺は、言葉にしなかった。
干渉を、解いた。
十機ぶんの糸から、順に指を離す。眠らせた火が、遠くで一つずつ目を覚ましていく気配がした。返してやったのではない。持っている必要が、なかっただけだ。——そう思おうとして、思い切れない何かが、指の先に残った。
十一分、俺は十機ぶんの機械の底に、同時に触れ続けていた。触れていた感触が、指を離しても消えない。自分の手の輪郭が、十機ぶん、広がったまま戻ってこない感じがする。戻し方を、体は知っているはずだった。知っているはずの体が、今日は、返事に時間をかけていた。
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機体から、降りられなかった。
ハッチを開けたところまでは覚えている。次の記憶は、整備班に担架へ移される時の、天井の照明だった。
「帰投の操縦は、わたしが行いました」とλの声がした。近くで、聞こえた。「あなたは、ハッチを開けた時点で、意識の四割を失っていました。……生体負荷、記録上の最大値です。深度三、全開、十一分。回復所要の推定——七十二時間。最低で、七十二時間です」
七十二時間。三日。
視界の端で、医務室の窓が白かった。カレンのベッドが二つ隣にあって、左腕の固定具の上から、彼女は俺を見て、何か言った。声が遠くて、聞き取れなかった。聞き取れないことだけ、伝わったらしい。彼女は続きをやめて、右手の指で、短く、生きてる、の形だけ作った。
昼過ぎに一度、目が覚めた。カレンのベッドの脇に、シドが折り畳み椅子で座って、何か言って、カレンに固定具じゃない方の腕で叩かれていた。医務室に、いつもの音が少しだけ戻っていた。戻っていることを確認して、俺はまた落ちた。
夕方、ガルムが来た。
「連邦が、撤収を決めた」と、前置きなしで言った。「円が閉じる前に、この宙域を離れる。アーカイブは——持てる分だけ持って、残りは置いていく。出発は、四十時間後だ」
四十時間後。俺の回復まで、七十二時間。
数字の合わなさを、ガルムは口にしなかった。口にしないまま、一言だけ足した。
「動けん奴の運び方は、うちの得意技だ。……寝てろ。撤収戦の頭数に、お前は入れん」
夜、λの定時報告が、静かな医務室に流れた。
「円の収縮、変化ありません。低軌道への到達まで——三日と、十八時間です。それと」
λは、少しだけ間を置いた。
「本日の戦闘記録は、管理区画が全量を記録しています。あなたの深度三の、全ての数値を。……本国への送信は、二時間前に、完了しています」
守るために開いた全力が、記録になって、地球へ飛んでいった。飛んでいった数字が何に化けるのかを、考える体力は、もう残っていなかった。
「λ」と、暗い医務室で呼んだ。「見えてたか。……全部」
「はい。十一分間、ぜんぶ、見ていました」と、λは言った。「途中も、底も、戻りも。……あなたは、戻れる人です。今日、記録しました。推定ではなく、実測として」
実測として。λの語彙の中で、それが一番強い言葉であることを、俺は知っていた。
消灯の少し前、端末が一度だけ震えた。監査棟からの、一行だった。
「記録は、全部読んだわ。——知ることを、やめない」
朝の一行と、夜の一行。監査役でいる、と決めた人の一日が、二本の短い線で挟んであった。読んだ記録の中に何があったのかを、俺は知っている。止められていく十機と、四門を開いたまま静止する隊長機と、沈んでいく藍——いや、藍の光量は、彼女の画面には映らない。映らないものを、彼女はまだ知らない。知らないままで、やめない、と書いた。
その強さの種類を思いながら、俺は三日ぶんの闇に沈んだ。
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