閑話六 「 」
――Agrapha
朝の勤めは、読むことから始まった。
灯りを半分に落とした室で、読み手は名簿を開く。昨日と同じ頁を、昨日と同じ順で。声は出す。出した声を聞く者はいない。それでも声に出す。目で追うだけの名前は、いつか読み飛ばされる。声に出した名前は、読み飛ばせない。最初の日に、そう教わった。
消えた者たちの、名簿だった。
千と幾つの名前。どの名前にも日付があり、どの日付にも場所がある。名前と日付と場所のほかには、何も書かれていない。消えた人は、物を残さない。体も、声も、残らない。残るのは、その人がいた日と、いた場所だけだ。だから名簿には、それだけが書いてある。それ以上書きたくても、書くものがない。
読み手は、この席に九年いる。九年、毎朝同じ名簿を読み、九年、読む声の乱れを一度も許されなかった。乱れた声は、名前を読み飛ばす。読み飛ばされた名前は、もう一度消える。一度目は、世界から。二度目は、覚えている者の声から。二度目は、防げる。防ぐのが読み手の持ち場だと、最初の日に教わった。
読み手の仕事は、記録を読むことだ。船の誰もが、持ち場で同じことをしている。艦を預かる者は航路の記録を読み、機体を整える者は整備の記録を読む。読んで、照らして、外れがないことを確かめる。信じるだけなら、祈れば済む。祈りは、確かめなくていい。この船は、信じているのではない。知っている。いつ、どこで、誰が消えたかを、記録で知っている。知っていることは、信じていることより強い。強いが、手がかかる。知っていることは、放っておくと古くなる。昨日まで正しかった数字が、今日は違っていることがある。だから、知っている者は、毎日確かめる。確かめて、今日も同じだと分かって、それでやっと、今日の分の知っていることになる。そう教わってきたし、その通りだと思う。確かめる声は、大きくなくていい。自分の耳に届けば足りる。だから室はいつも静かで、外の者はこの船を、黙っている船だと言うらしい。黙っているのではない。確かめているだけだ。
この船で、人は名前で呼ばれない。読み手は読み手で、長は長だ。名前が無いのではない。使わないだけだ。名前は、名簿のためにある。名簿に書かれる日まで、仕舞っておく。そういう決まりで、決まりの意味を、読み手は好きだと思っている。
発進の下令は、読誦の終わりと同時に来た。
「十二、降ろします。あの口を、塞いできます」
長の声は、読む声と同じ速さをしていた。この船では、命令の形をした言葉が少ない。やれ、と言う者がいない。これから起こることが、起こる前に、言われる。言われたことが、言われた通りに行われる。行われたことが、行われた通りに書かれる。書かれたものが、明日の朝、読まれる。それで一日が閉じる。閉じ方を、読み手は他に知らない。
読み手は観測席に着いた。十二の降下体が、艦の腹から順に離れていく。見送る者はいない。降下体に名前はない。番号がある。番号は書式の中で使うためのもので、書式を閉じれば、もう要らない。
窓の外に、灰色の衛星。その地表のどこかに、降りる口がある。百五十年前に人が消えた場所へ降りていく、縦の坑道。あれを閉じることが、今日の勤めだった。開いたままの口は、いつか誰かを飲む。降りたくなる者が、必ず出る。降りた者は、深くへ行く。深くへ行った者がどうなるかは、名簿が知っている。飲まれた者の名前は、名簿の続きに書かれる。続きを書かせないために、口を塞ぐ。塞げば、名簿はそこで止まる。止めることが、今日の勤めだった。
読み手は、手元の書式を整えた。整えながら、名簿の重さを思い出していた。頁の重さではない。毎朝、声に出す時間の長さのことだ。名簿は、この九年で、二頁増えた。二頁ぶん、朝が長くなった。朝がこれ以上長くならないために、今日の十二がある。読み手が知っている理屈は、それで全部だ。難しい理屈は、上の者が知っていればいい。名簿を長くしない。それだけで、今日の十二は要る。一つの理由で足りる勤めを、読み手は九年、一つの理由で続けてきた。
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軌道の哨戒線が、先に降下体へ触れた。
連邦の艦載機が、規定の網の形で待っていた。降下体は網を避けなかった。避けない、と朝の更新に書いてある。網の目の数と、こちらの十二と、抜けるまでの秒。三つを並べると、網を通ってもひとつ減るかどうかで、避けて回れば、口に着くのが遅れる。遅れる方が、損だ。損の少ない方を、朝のうちに書いて、送ってある。降下体は、書かれた通りに飛ぶ。書かれていないことは、しない。
十二の降下体は、降下の隊形を組まなかった。隊形も、朝の更新に無い。庇い合う隊形は、庇う心のある者たちが組むものだ。この船の降下体は、それぞれが口までの最短を飛ぶだけで、隣を見ない。十二本の線が、ばらばらに、まっすぐ落ちてくる。それを向こうは見る。見て、怖がる。庇い合わない相手は、人に見えないからだ。怖がった兵は、下手になる。下手になった兵は、読みやすい。そこまで、教わっている。
回線が、向こうの声を拾った。
『——読めない。応答しろ、どうなってる』
読める、と読み手は思った。こちらからは、全部が読める。速度も、旋回の癖も、撃ち始めの躊躇の長さも。読めないと叫んでいる側だけが、自分が読まれていることを知らない。向こうは、こちらの記録を持っていない。持っていない者は、何が来るか分からない。分からない者は、大きな声を出す。声が大きいほど、記録が薄い。そう教わった。今日も、その通りだった。
接触は、百秒で終わった。連邦機、二つ消えた。一つは脱出の信号を上げ、一つは上げなかった。読み手は手元の記録に、消込をふたつ打った。消込は、数の作業だ。数の作業に、気持ちは書かない。書く場所が無いのではなく、書かないと決まっている。気持ちがあれば、夜まで持っていて、名簿を読む声に乗せる。昼は数だけ、夜は声だけ。そう決まっているから、昼のうちは何も考えなくていい。考えなくていいことが、たまに、助かる。今日がその日かどうかは、夜になるまで分からなかった。
地表から、砲が昇ってきた。
据え付けたばかりの対空砲座。射線は若く、癖が素直で、降下体は最小の動きで全てを外した。読むまでもない射手だった。読むまでもない、という判定を打ちながら、読み手は砲座の数を数え直した。昨日より四つ増えている。守る側は、毎日、砲を増やす。こちらは、毎日、円を縮める。向こうが固くなるのと、円が閉じるのと、どちらが先に間に合うか。それは、数で分かる。数で分かることは、怖くない。
降下体は、南の進入口の外周へ降りた。十二本の線が、まっすぐに口を指す。
そこで、一本目が折れた。
地表の一機。傭兵の識別。降下体の推進部を、一射で正確に抜いた射撃だった。
読み手は、識別の符号を照会した。照会するまでもなかった。記録にある機体だった。この星域に来てから、船の書式に何度も載った符号。本隊の記録にも載っている符号。
読める的の、はずだった。
二本目が折れた。同じ射手だった。
読み手は、その一機の数字だけを、別の枠に流し始めた。手順にある措置だ。慌てる項目はない。慌てる声も、この室には無い。よく当てる射手がいたら、その射手を先に読む。先に読めば、先に書ける。書けたものは、読める。手順の通りに、指が動いた。
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読むには、まず集めなくてはならない。集めるには、的が動くのを待たなくてはならない。待つ間、こちらは撃たれる。読むことの弱みは、そこにしかない。そこにしかないが、いつも、そこだった。
的の三分を、読み手は集め続けた。回避の選び方。撃つ前の、機体のわずかな沈み。右と左の、好みの偏り。人の操縦には、必ず偏りがある。右へ逃げる時と左へ逃げる時、どちらかが少しだけ多い。撃つ前に、少しだけ沈む者と沈まない者がいる。一つ一つは小さい。小さいものを集めると、癖になる。癖を数えると、統計になる。統計は——書ける。書けたものは、読める。読めたら、当てられる。教わった順に、そう並んでいる。順を飛ばしたことは、一度もない。飛ばす理由が、一度もなかった。
集めながら、上手い、と読み手は三度思った。上手い操縦は、読みやすい。選び方に理が通っているからだ。読みにくいのは、下手な方だ。下手は、理の無いところで曲がる。この的は上手かった。上手さの分だけ、よく書けた。
書きながら、ひとつだけ、見慣れない数字があった。当てる場所だ。この的は、推進部しか撃たない。折れば足りる場所を、折れる分だけ撃つ。壊せる射線を持っていて、壊さない。壊さない理由は、統計に書けない。書けないものは、読まなくていい。読むのは、選び方だけだ。そう決めて、読み手はその数字を脇へ置いた。脇へ置いたことを、あとで思い出すことになる。
降下体は、その間も減っていた。守る側の射が、順に降下体を折っていく。十二が九に、九が七に。減りは、朝の見立ての内だった。守る側が、見立てより少し上手い。少しなら、数字を直せば済む。直せる差は、怖くない。直せない差は、まだ、どこにも出ていなかった。
これまでの記録に、読めなかった的は載っていない。載っているのは、読む時間が足りなかった的だけだ。最初の日に、そう教わった。九年、その通りだった。
七になった時、時間は足りた。
読み手は、編み上げた統計を更新として送った。七つの降下体が、同じ百十秒の呼吸で、同じ数字を受け取る。次の交差から、七つの機動はあの的の癖の逆を突く。的が選びたがる場所に、射線が先に立つ。
送信の完了を確かめて、読み手は息をひとつ置いた。手順に、息を置く項目はない。置いたことは、書かれない。
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最初の交差で、統計は外れた。
的は、選びたがるはずの場所を選ばなかった。逆を突いたはずの射線が、空を刺した。一度なら、書ける。人は、たまに癖の外のことをする。統計には、そのための余白がある。
二度目も、外れた。
三度目、読み手は照会をやり直した。送信の記録。受信の確認。更新は届いている。七つの降下体は、正しく癖の逆を突いている。突いた先に、的がいない。
四度目の交差で、降下体がひとつ落ちた。
読み手は、的の新しい三分を集め直した。集めた数字を前の三分と重ねて——手が、止まった。
重ならない。
癖が変わったのではない。癖が消えたのでもない。ふたつの癖が、交互に出ている。右を好む選び方と、右を選ばない選び方が、同じ機体の中で、交差ごとに入れ替わる。でたらめではない。でたらめなら、でたらめの散り方をする。これは、散っていない。ふたつとも、それぞれに、人の形をした偏りだった。
ひとつの機体に、偏りがふたつ。
書式に、それを書く場所がなかった。
もう一度更新を送る手は、ある。手はあるが、送る中身がなかった。ふたつの癖のどちらを突けば、的はもう片方で外す。両方を同時に突く射線は、無い。統計は、集め直すほど、同じ答えを返してきた。読めている。ふたつとも、読めている。読めているのに、当たらない。そんなことは、教わっていなかった。教わっていないことに出会ったら、どうすればいいのか。それも、教わっていなかった。
読み手は、読める側で育った。読めれば、怖くない。消えた者たちの名簿を毎朝読むのは、恐れを消すためではない。恐れの形を、覚えるためだ。形を知っている恐れは、怖くない。怖いのは、形の無いものだけだ。最初の日に、そう教わった。九年、その通りだった。
その形が、今、手の中になかった。
観測の数字は流れ続けている。数字は、どれも正しい。正しい数字を集めて、正しく送って、それで当たらない。当たらないということは、向こうがこちらの送ったものを知っている、ということだ。こちらが向こうを読むように、向こうがこちらを読んでいる。読むのは、いつもこちらだった。読まれたことは、なかった。読まれると、こういう感じがするのか、と読み手は思った。感じ、と思ったことに、少し遅れて気づいた。昼に気持ちを持つのは、決まりの外だった。
観測席の音は、変わらなかった。長は次の下令を、読む声の速さで言った。隣の席は隣の数字を、いつもの指で打っていた。変わったのは、読み手の呼吸の数だけだった。数えてみた。いつもより、多い。多いことを、書く場所はなかった。
七が五に、五が三になった。降下体は、更新の数字のまま、正確に、順に折られていった。
三のうちのひとつ——爆装のひとつが、防衛の隙間を抜けた。
抜けた線の先は、開いたままの隔壁だった。届く。数字の上では届いていた。十一が折れても、一つ届けば、口は塞がる。塞がれば、書式の任務の項は、達、で閉じられる。今日の勤めは、それで足りる。足りる、と読み手は思って、残りの秒を数えた。減速、接触。あとは、それで済むはずだった。
的が、跳んだ。
岩の棚を蹴って、低い重力の中をまっすぐに。跳躍の間、機体は姿勢をひとつも揺らさなかった。揺らさないまま、二点を続けて撃ち抜いた。
爆装は、火を吹かないまま、隔壁の手前で止まった。壊さずに、止めた。脇へ置いた数字が、そこにあった。
読み手は、跳躍の始まりから終わりまでの数字を、もう一度流し直した。一・八秒。その間、あの機体の中では、狙うことと飛ぶことが、同時に、別々の精度で行われていた。ひとりの操縦として書くには、精度がふたり分あった。
読めない、のではなかった。
書かれていないのだ。あの機体のしていることは、まだ、どの記録にも。
残りのふたつは、それでも進んだ。進め、としか書かれていなかったからだ。止まることは、書かれていなかった。書かれていないことは、しない。ひとつは進入口の正面の一機に脚を刈られ、もうひとつは長距離の射撃に折られた。
十二、全て停止。
観測席の周りは静かだった。この船はいつも静かだ。今日の静けさが昨日と違うことは、多分、読み手にしか分からなかった。
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回収は、しない。下令は短かった。
降下体は置いていく。置いていくのに、手順は要らない。名前のないものは、置いていける。番号は、書式を閉じれば、それで終わる。船は高度を上げ、円の航跡へ戻っていった。地表に十二の点が残る。点は動かない。動かない点を、読み手は最後まで観測し続けた。手順に、そういう項目はなかった。なかったが、見ていた。
見ながら、考えていた。向こうは今頃、十二の点を調べているだろう。開けようとして、開かないことを知るだろう。開かないものを前に、向こうの兵は何を思うのか。読み手は、向こうの側から今日を読もうとして、途中でやめた。読めるのは、記録だけだ。記録の無い側のことは、読み手には分からない。分からないことが、今日は多すぎた。
帰投の書式を、読み手は開いた。
任務、封鎖——不達。損耗、十二。原因の項に書くべき言葉を、読み手は持っていなかった。統計が外れた、と書けば、それは原因ではなく、起こったことだ。なぜ外れたかが原因で、なぜ、の答えを読み手は持っていない。答えは、あの機体の中にある。あの機体の中は、どの記録にも無い。空白のままにすることは、この船の書式では許されない。空白は、読み飛ばされる。読み飛ばされたものは、消える。それは、教わった通りだ。
長く考えて、読み手は書いた。
——的は、既存の記録で読めない。理由は、観測の不足ではない。的の側に、記録に無いものがある。
書いてから、読み返した。報告の文としては、駄目な文だと思った。何も特定していない。それでも、書いたことに間違いは無かった。この船で書けることの、今日はそれが全部だった。
報告の宛先は、本隊。送信の予定時刻まで、まだ間があった。
読み手は名簿を開いた。夜の読誦には早い時刻だった。決まりの時刻まで、待てなかった。待てなかったことは、九年で初めてだった。早く読んではいけない、とは教わっていない。教わっていないから、読んだ。千と幾つの名前を、いつもの順で、いつもの速さで読む。名前には日付があり、日付には場所がある。読みながら、読み手は今日の的のことを考えていた。
名簿の全員が、同じ型で消えている。深くへ潜った者から、順に。それが、この船が知っていることの、一番の芯だ。深く潜れば、消える。だから深く潜る者を、消える前に摘む。船のすることは、全部そこから出ている。今日の的は——今日の的の共鳴は、計測の限り、終始浅いままだった。浅いまま、こちらの全てを外し続けた。
型に、合致しない。
合致しないものを、どこに書くのか。読み手は知らなかった。教わっていなかった。教わっていないことは、自分で決めるしかない。それも教わっていなかったが、他にやり方がなかった。
読み手は、名簿の最後の頁の余白に、自分のための註をひとつ、小さく書いた。誰にも命じられていない一行だった。
——読めない的、一。消える者の型に合致しない。継続して、読むこと。
書いた一行を、読み手は声に出して読んだ。声に出した名前は、読み飛ばせない。名前のない的の一行も、多分、同じだった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
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