第59話_引き渡されたい
――Krisis
翻訳は、夜明け前に終わった。
「全文を、報告します」とλが言った。定時の声でも、警報の声でもなかった。読み間違えることが許されない文書を読む時の、事務官の声だった。
「発信者、名乗りあり。——《黙鐘》」
ガルムの目が、細くなった。あの宙港の雑踏で、俺が聞いた名前。噂だけの、いないはずの連中だと、この人が言った名前。噂が、九隻ぶんの声で、名乗った。
「本文を読みます。『我々は百五十年、鐘を鳴らさずにきた。今も、鳴らすことを望まない。——帰還者と、その運び手を、引き渡されたい。期限、これより一日。引き渡しの完了をもって、我々は円を解き、退去する。以上を、全ての陣営に、等しく通告する』……本文、以上です。同一文面が、現在も反復送信されています」
引き渡されたい、という言い方だった。脅し文句も、武力の誇示もない。要求と期限だけが、丁寧な言葉で包んであった。丁寧さの温度を、俺は知っている。宙港で隣に立った、あの男の温度だった。
「帰還者と、運び手」とカレンが言った。「……名指しじゃない」
「名指しです」とλが言った。「帰還者は、わたしです。運び手は——あなたです」
λの声は、それを事実として言った。事実として受け取る以外の受け取り方を、俺も持っていなかった。九隻の円と、その向こうの三つの勢力の真ん中で、要求されているのは、背中のこいつと、俺だった。
放送は、拠点の全員が聞いた。聞いたあとの静けさが、朝まで続いた。降下班の若い技師が、すれ違いざまに俺の背中のλを見て、目を逸らした。名指しされた側と、名指しを聞いた側の間に、薄い膜が一枚、張られた朝だった。
連邦の回答は、三時間後に出た。拒否。文面は「保護対象の移送には応じられない」。保護対象、という言葉を、俺は二度読んだ。断ってくれたことと、断り方の言葉選びは、別々に覚えておくことにした。
監査棟から、ステラの短い通信が来た。「回答文の起草に、監査団も列席したわ。……文面の言葉選びまでは、止められなかった。覚えておいて、それだけ」。彼女も、同じ言葉に、同じ引っかかり方をしていた。
王権は、何も言わなかった。観測位置の九隻は、沈黙のまま、動かなかった。返答しない、という返答だった。三つの勢力が同じ通告を受け取り、一つが拒否し、一つが黙り、一つが——俺たちが、名指しの重さを分け合った。
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期限までの一日は、防衛配置の一日になった。
「渡す渡さないは、雇い主の判の話だ」とガルムは言った。「だがな。うちの機体と、うちのパイロットだ。判がどっちに転んでも、渡す渡さないを最後に決めるのは、うちだ」
連邦は、縦坑の隔壁を閉める決定を出した。
百五十年、開いたままだった扉に、初めて、閉める理由が来た。閉鎖の作業を、λは黙って観測していた。管理者不在のまま、次に来る誰かのために開き続けた扉が、来た者たちの手で閉じられていく。守るための閉鎖だと、頭では分かっていた。分かっていても、λに感想を聞くのは、やめておいた。
シドは長距離弾の残数を数え直し、カレンは阻止線の射界を三度計測し直した。誰も、引き渡しの話をしなかった。しない、という形で、全員の答えは出ていた。
「λ」と、点検の合間に俺は言った。「引き渡されたいそうだ。感想は」
「あります」とλは言った。「……嫌です」
短い感想だった。短さの分だけ、本物だった。少しして、λは自分から続けた。
「彼らの文面で、わたしは、帰還者、と呼ばれています。物の受け渡しの、書式です。……言えるようになって、名前で呼ばれるようになって、それから、物の書式で要求される。順番が、悪いです」
「順番が悪い、は感想として上等だ」
「はい。上等な感想です」
「同じく」と俺は言った。会話はそれで終わりで、それで足りた。
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期限の刻限と、強襲は同時だった。
九隻のうち、四隻。白い船腹が同時に開き、降下体が吐き出される。各艦十二、計四十八。これまでで最大の規模が、最短の線で、縦坑へ向かってきた。
連邦の要塞化は、間に合っていた。対空砲座の青白い射線が幾重にも立ち上がり、二重の哨戒線が降下軌道を裂く。四十八のうち十一が、地表に届く前に落ちた。それでも三十七が降りてくる。三十七の、色のない機影。
「割り当てを言います」とλ。「哨戒線の突破口は、二箇所。東の丘陵と、南の氷溝です。東は連邦の地上部隊と砲座が受けます。南は——手薄です」
「南は、うちだ」とガルムが引き取った。「全機、南へ。前の防衛戦と同じだ。壁になれ」
氷溝の防衛戦が始まった。
溝は狭く、狭さはこちらの味方だった。正面の幅は機体四つ分。四つ分の幅に、カレンとガルムが二枚の壁を立て、シドが溝の肩から長距離で間引く。俺は壁の前に出て、λの穴の計測と俺の目で、輪郭を撃ち続けた。読む作業はλに集め、幾何は壁に任せる。前の防衛戦の勝ち方を、そのまま太くして使う。
十五機が溝に入り、十五機とも、溝の中ほどを越えられなかった。越えられないと分かっても、彼らは来た。来ては落ち、落ちても後続の軌道は変わらない。撃ちながら、これは軍隊ではないのだと、あらためて思った。損耗という言葉が、この連中の辞書では、多分、別の欄に載っている。
東の丘陵では、連邦の砲座群が仕事をしていた。青白い射線の網が降下軌道を刻み、地上部隊が丘の稜線で受け止める。要塞の顔になった探査船団は、要塞の戦い方を覚え始めていた。三十七のうち、東で十三、南で十五。残りは軌道上の哨戒線が抑えている。数の劣勢を、地形と設備と役割分担で塗り替えていく。この宙域に来て初めて、防衛側の戦争らしい戦争をしていた。
王権の九隻は、観測位置から、動かなかった。計測波だけが、遠くから戦場を舐め続けている。見られている戦場で、俺たちは今日も測られながら戦っていた。
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通信が開いたのは、防衛開始から十分後だった。
全体回線ではなかった。閉鎖でもない。俺の機体だけに、外から、鍵を開けるように割り込んできた単独回線だった。
『——また、参りました』
あの敬語だった。
宙港の雑踏から、火星の戦争を挟んで、木星の氷溝まで。約束のように、声は戻ってきた。
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