第58話_三十秒
均衡が破れたのは、開始から二十分過ぎだった。
一機が、編隊を離れて降下に入った。針路の先は、縦坑の上空——襲撃の後に連邦が引いた、禁制線の内側だった。地表へ向けて、計測波の角度が変わる。測る先が、俺たちから、縦坑に変わろうとしていた。
カレンの機体が、割って入った。
警告射。曳光の赤が、降下する王権機の進路の手前を、正確に横切る。当てない距離を、当てる腕で撃った線だった。
王権機が、反射で応射した。
橙のビームが、カレンの機体の横を抜ける。抜けた瞬間、宙域の色が一段階、変わった。撃たれるまで撃つな、の「まで」が、今、過ぎた。
三十秒だけ、本物の戦闘があった。
最初の十秒で、両編隊は距離を開けた。詰めるのではなく、開けた。開けながら撃つのは、当てるためではなく、当てさせないための射撃で、両方がそれを選んだ時点で、この戦闘の性格は決まっていた。誰も、殺す気の弾を撃っていない。撃っていないのに、一発の掠りが戦争の名前を変え得ることを、全員が知っていた。
シドの一射が応射した機体の推進器を掠め、白い噴射が乱れる。二機目、三機目のロック波が警告から本気の色に変わり、ガルムの牽制がその出鼻を叩く。俺は——嘘の癖のまま、実弾の間を飛んだ。素の速さで避ければ楽になる瞬間が、三度あった。三度とも、λの声が先に来た。
「維持、できます。左です。……わたしを、信じてください」
信じた。別人の癖で避けた弾は、素の癖で避けるより半機身近くを抜けていく。近さの分だけ、嘘は本物になった。
『——応射した機体、離脱しろ。規定外だ』
王権の指揮回線が、初めて動揺の色を見せた。応射した一機が僚機に押し出されるように下がり、射撃が、来た時と同じ速さで止んだ。ガルムの声も同時だった。
「返すな。終わりだ」
三十秒。両方の練度が、戦争を止めた。訓練の浅い部隊なら、今の三十秒は三十分になり、三十分は開戦記念日になっていた。
損傷した王権機が、僚機二機に挟まれて後送されていく。挟み方が、丁寧だった。推進器の乱れた機体の斜め後ろに付いて、噴射の余波から庇う位置取り。敵の後送を見て、丁寧だと思う日が来るとは、思っていなかった。
『警告射に応射した件、こちらの規定違反だ』
王権の指揮回線が、開放帯で短くそれだけ言った。謝罪ではない。事実の確認だった。ガルムが同じ帯で返した。
「受理した。以後、禁制線の内側は撃つ」
交渉とも言えない二往復が、次の偶発を一つ、潰した。損傷、王権機一。死者、双方ゼロ。ゼロのまま終わったことが、この宙域で今日起きた、一番の仕事だった。
『照合、急げ。この機体の応答——事前の記録と、違う』
離脱間際の王権の回線が、もう一度だけ乱れた。俺の機体を指す符丁と一緒に、違う、という言葉が、確かに聞こえた。
嘘は、届いていた。
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反転は、呼吸だった。
十機が翻る瞬間、完全な同時ではなかった。半拍の波が端から端へ走って、藍の編隊は、生き物のうねりで向きを変えた。教団の、あの機械の同時を見た後では、それは奇妙に懐かしい光景だった。色のある敵は、読み合える。読み合えて——覚えて、帰る。
「計測終了、と判断します」とλが言った。「彼らが持ち帰った数値は、反応速度、旋回特性、回避選択、共鳴出力——全て、わたしたちが選んで渡したものです。……渡ったのは、わたしたちが作った、あなたです」
「本人は、渡してない」
「はい。本人は、ここにいます」
測られて、渡さなかった。教団に癖を採られた日から、ずっと喉に刺さっていた小さな棘が、今日、一本抜けた気がした。測る者の世界で、測らせない技術を、俺たちは一つ、手に入れた。
機体を降りて、最初の三歩が、おかしかった。
歩幅が、俺のものではなかった。三十分、別人の癖で飛び続けた体は、地面に降りても、まだ別人の重心で歩こうとする。壁に手をついて、自分の歩幅を思い出すのに、しばらくかかった。
「生体負荷、通常戦闘の一・四倍です」とλが言った。「実弾の量の割に、高い数値です。理由は——三十分間、自分を上書きし続けたからです。癖は、思っているより深い場所に、あります。……今夜は、素のあなたで、眠ってください」
「素の俺の寝相を、覚えてるか」
「二百四十三時間ぶん、記録しています」
それなら安心だ、と思えることが、多分、今日の勝ちの一部だった。
夕方、監査棟の前を通ると、ステラが端末の前に座っていた。画面には、今日の戦闘記録。王権編隊の機動ログが、藍の軌跡で再生されている。彼女は送りもせず、止めもせず、長い間、その藍を眺めていた。静かで古い色が、画面の光を、ゆっくりなぞっていた。
画面の藍が、隊列を組み直す場面で、彼女の指が一度だけ動いた。再生を止めるのかと思った。止めなかった。指は画面の手前で止まり、そのまま、下りた。
声は、かけなかった。
芯のない整列の、芯が誰なのかを知っている者が、この拠点に二人いた。二人とも、今日は口にしなかった。口にしない、が今日の正解であることも、多分、二人とも分かっていた。
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夜、λの定時報告が来た。
「円の収縮速度、変化ありません。低軌道への到達まで——七日と、十二時間です。王権艦隊は観測位置に戻り、機関出力も平常に戻っています。本日の続報は、以上です」
七日。円の時計は、こちらの都合を待たずに減っていく。王権に丸一日を使わされた分だけ、減り方が速く感じられた。感じ方の問題で、速度は変わっていない。変わっていないことを、λの数字が保証してくれる。保証を枕に、寝ようとした。
「——割り込みます」
定時の声より、一段、張った声だった。
「教団の九隻が、電波を、発しました」
俺は寝袋から半身を起こした。
「九隻、同時です。全周波数帯。宛先の指定は——ありません。連邦にも、王権にも、この衛星にも、同じものが届いています。同一内容の、反復送信です」
「読めるのか」
「暗号では、ありません」と、λは言った。「これは……全員に、読ませるための信号です。復号は、始めています。ただ——整い次第、まとめて報告します。半端に伝えるべき内容では、ないと、判断します」
受信波形を、λが共有画面に出した。規則正しい反復。九つの発信源から、寸分違わぬ同じ形が、重なって届いている。十二機を地表に置き去りにした日も、どの照会にも応えなかった日々も、何も言わなかった者たちの声が、その几帳面な波形の中に畳まれていた。
来てから今日まで、一度も声を持たなかった九隻が、初めて、口を開いた。
撃たない者たちの、最初の言葉。それが何を運んでくるのかを——その時は、まだ、誰も知らなかった。
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