第57話_健康診断
――Metron
発進の報せは、λの警報から始まった。連邦の警報より、四十秒早かった。
「王権艦隊から、発進を検知。十機です。編隊のまま、直進——針路、この宙域です」
朝の岩棚が、一斉に動き出した。俺は機体に乗り込みながら、続きを聞いた。
「機体構成は、第一精鋭隊の編成記録と一致します。ただ——」λの声が、一拍、慎重になった。「以前、戦闘中に実測した、隊長機の波形が、含まれていません。十機は、隊長機を欠いた編成です」
隊長機の、不在。
一拍だけ、監査棟の方角を考えた。この報せを、彼女が今、どんな顔で聞いているのかを。考えて、やめた。名前は、昨日から知っている。知っている名前の隊が、知らない顔で、こちらへ来る。今は、それだけでいい。今は、戦いの時間だった。
「接触まで、五十分です」
五十分は、長くて短い。連邦の母艦では対空砲座が旋回試験を始め、哨戒線が高度を上げ、降下班が地上へ退避していく。要塞の顔が、初めて王権の方角を向いた。監査棟の窓には灯りが点いたまま、誰も出てこなかった。彼女は彼女の持ち場で、この五十分を数えている。そう思うことにした。
連邦の管制は、五十分の半分を、規定の確認に使った。王権と連邦は、戦争をしていない。防衛行動は認める、先制は認めない、警告射撃の権限は——回線の向こうで、条文が行ったり来たりする。条文の外側で、ガルムが俺たちに言った。
「王権と連邦は、戦争をしていない。今のところはな。だから全機、撃つな。撃たれるまで、撃つな。撃たれたら、最小で返せ。……落とすな。落とした瞬間、これは戦争って名前に変わる」
『撃たずに、何しに来るんだ、向こうさんは』とシドが言った。
その答えを、俺は多分、この隊の誰よりも先に知っていた。色の無い敵に、癖の統計を採られた日の感触が、まだ操縦桿に残っている。
測りに、来る。
『撃たない客が一番厄介だ』とガルムが言った。『撃ってくれれば、仕事の種類が分かる。……全機、上がるぞ。連邦の条文が決まる前に、位置だけ決める』
条文より先に位置を取る。傭兵の時間の使い方だった。
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会敵は、静かだった。
十機の藍が、視界に入った。等間隔、等速度。教科書に載せるための編隊のような、揃い方だった。ただ、揃っているのに、どこかが違う。十の藍は綺麗に並んでいて、その真ん中に、束ねる一本が無かった。芯のない整列だった。芯が無くても崩れない程度に、この隊は訓練されていた。芯があった時に何が起きるのかは、考えないことにした。
藍は、覚えている色だった。
殿軍の日に浴びた、あの整列の藍。ただ、あの日の藍が一枚の刃だったとすれば、今日の藍は、よく研がれた十本の刃だった。十本は十本のまま、束ねられていない。束ねられていない十本が、それでも互いの間合いを寸分違えずに飛ぶ。訓練だけで、ここまで来る。芯が戻った時のこの隊を、俺はまだ見ていない。
最初の交差で、彼らは撃たなかった。
ロック波が、順に俺たちを舐めていく。火器管制の起動色——青白が、十機の砲口に灯って、灯ったまま、消えた。撃たれない。次の交差でも、その次でも。灯って、消える。俺たちの応答だけが、採られていく。
撃たれない色は、撃たれる色より、性質が悪い。
計測には、順番があった。
最初の三巡は、編隊全体。次の三巡は、一機ずつだった。シドの長距離射程を測るように高度差を取って誘い、カレンの阻止線の反応距離を測るように出入りを繰り返し、ガルムの指揮の遅延を測るように二方向から同時に振る。一巡ごとに、こちらの誰かが採られていく。採られていることが分かるのに、止める手立てがない。
そして、俺の巡が、一番長かった。
『気味が悪いわね』とカレンが言った。『挨拶もなしに、健康診断だけしていく気?』
「当てに来ていない」と俺は言った。「測りに来ている。……回避も、応答も、全部記録されてる。多分、共鳴の出力も」
『健康診断で合ってるじゃない』
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——見られている、と副官は思った。連邦の傭兵機は逃げも隠れもせず、計測波の只中を平然と飛んでいる。隊長がいれば、と思いかけて、やめた。隊長は今、旗艦の会議室にいる。承認を待たなかった前進の説明を、本国が回線の向こうから、三日、求め続けている。戻ってくるまでに、測り切れ。留守を預かる者の今朝は、その一言が全部だった。
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六巡目の計測が終わり、七巡目が始まるまでの、二十秒の間隙だった。
「提案が、あります」とλが言った。
「聞く」
「彼らの計測を、止める手段は、ありません。計測波を妨害すれば、妨害の能力が計測されます。逃げれば、逃げ方が計測されます。……ですが、測らせる中身は、選べます」
「嘘をつくのか」
「わたしは、嘘をつきません」と、λは言った。それから、ほんの少しだけ、声の角度を変えた。「……機体は、つけます」
λの台本は、具体的だった。
反応を〇・二秒、遅らせる。旋回は素の半径より外に膨らませる。得意の右旋回を、左に付け替える。回避の選択は、俺の癖の逆をλが読み上げ、俺がそれに従う。そして——深さは、見せない。共鳴は浅場の出力に留めて、そこが底であるかのように飛ぶ。
「深く潜れることは、俺の命綱だ」と、俺は自分に確認するように言った。「命綱の寸法は、渡さない」
「はい。渡すのは、別人の寸法です」
隔壁の前の跳躍で、λは機体を運んだ。今日は、癖を運ばせる。狙う俺と、運ぶλで一人のパイロットになったのが、この間の戦いだ。今日はその上に、もう一枚重ねる。二人で一人の、嘘のパイロットになる。
やってみると、これが重かった。
自分の癖に逆らい続けるのは、利き手と逆で箸を持つのに似ていた。一分は持つ。五分も、持つ。三十分、一度も落とさずにいられるかは、別の話だった。
「今の旋回、素が出ました」とλが言う。「膨らみが足りません。次の交差で、上書きします」
「分かった」
「補足します。上書きは、不自然になりすぎない範囲で行います。完璧な別人は、それ自体が不審です。……ほころびを二割、意図的に残します」
嘘に、ほころびの配分がある。λの台本は、俺が思うより一段、深いところで書かれていた。
「それと——呼吸が、正直です。加速の前に、息を止める癖。……止めないでください。別人は、止めません」
呼吸まで測られている。測られているなら、呼吸まで演じる。俺は別人の肺で息をして、別人の手で操縦桿を握り続けた。
一度だけ、潜りたくなった。
計測波が編隊の三方から重なった瞬間、視界が狭くなり、狭さの底に、いつもの深さへの入口が見えた。半段沈めば、視界は開ける。開けた分だけ、楽になる。楽になった分だけ——出力の記録に、底が写る。
「入口が、見えていますね」とλが言った。声に、咎める色はなかった。「見えていて、入らない。それが、今日の仕事です」
「……ああ」
入口の前で足を止めるのは、入口を知らないふりをするより、難しかった。難しさごと、浅場に留まった。
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