第56話_宵の明星
「λ」と、ステラが言った。「聞くわ。この波形の、どちらかが、私なのね」
「はい」と、λは言った。「以前、検証前の仮説は言わない、と言いました。……検証が、終わりました。左の項、ヘスペリアの波形は、医療ポッドで実測した、あなたの波形と一致します」
「右は」
λは、答える前に、俺の方を——俺の機体の方角を、一拍だけ待った。待ってから、言った。
「右の項、ポスポリアの波形は、戦闘中に実測した波形と、一致します。偶然では、説明の付かない水準です。……王権、第一精鋭隊、隊長機の、搭乗者の波形と」
空洞の静けさが、一段、深くなった。
ステラの静かで古い色が、凍った。ふた月前、星図の前で凍ったのと、同じ凍り方だった。ただ、今日のは、長かった。
長い凍結の間、彼女は光の枝から目を離さなかった。右の項の古い文字を、読めないまま、読み続けていた。読めない文字を読もうとする目の動きを、俺は名前の列の日にも見ている。あの日は、探していることに気づいていない目だった。今日は、見つけてしまった目だった。
俺の位置から、彼女の色と、光の枝の両方が見えた。静かで古い色が、二本に割れた線の前で、灯りを絞るように暗くなり——消えなかった。絞り切った芯の細さで、点り続けた。
「……そう」
それだけ言って、彼女は監査の歩幅で、昇降機へ歩き出した。歩幅は、最後まで乱れなかった。乱れない歩幅の背中に、かける言葉を、俺は持っていなかった。記録の前で言う言葉では、なかった。
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その日の彼女は、日没まで監査役だった。報告の聞き取りを二件こなし、書類に三つ判を押し、誰の目にも、いつもの名代として振る舞った。振る舞いの完璧さが、いちばん雄弁だった。
夜、拠点の外周の岩棚に、彼女は一人で座っていた。
頭上に木星。縞の天井の下で、彼女は膝の上の端末を、開かないまま抱えていた。俺が近づくと、顔を上げずに言った。
「聞きたいことが、あったでしょう」
ふた月前の、器だけの約束だった。
「今、答えるわ。だから——あなたの見たものも、教えて。全部」
俺は隣の岩に腰を下ろして、順番に話した。
殿軍の戦いの日。深く潜った瞬間に、開放回線で叫ばれた言い伝え。深くまで潜るな、という、あの人の家にあるはずのない言葉。揺れた藍の奥に見えた、静かで古い色。あんたと同じ色だと、俺の目が言ったこと。λの測定が、同一系統、偶然ではない水準だと言ったこと。そして、聞き方が分からないまま、ふた月あまり、持ち歩いていたこと。
ステラは、最後まで黙って聞いた。聞き終えて、木星を見上げた。
「姉がいたことは、知っていたの」
静かな声だった。
「物心が付くか付かないかの頃に、離されたわ。姉だと、聞かされていただけで、確かめようもなかったけれど。……今日、数秒の差まで、記録に確かめられてしまった」彼女は少しだけ笑おうとして、笑い損ねた。「家では、いない人だった。写真も、名前も、ない人。祖父は一度だけ言ったわ。『あの子のことは、忘れなさい。それが、あの子を守ることだ』——それきり、うちの箱は、閉まったの」
開けない箱を三代、背負ってきた家の、一番深い箱だった。
「祖父を、責める気には、なれないの」と彼女は続けた。「あの人は、家系が知られた家の子供を二人、同じ場所に置いておくことの意味を、政治の側から知っていた。分けたのは、多分、両方を生かすためだった。……分けられた側は、そんなこと、知らないままだったけれど」
守るための沈黙なら、この隊でも一度聞いた。同じ形が、彼女の家にもあった。
「忘れなさい、と言われて、忘れられるものなのね、子供は。顔も、声も、本当に忘れたわ。覚えていたのは、二人で見た星のことだけ。夕方の空の、低いところの星。あれは私たちの星だと、どちらかが言ったの。どちらが言ったのかも、もう、覚えていない」
宵の空の、低いところの星。
「ポスポリア」
彼女は、その名前を、初めて声に出した。
声は、最後の一音で、割れた。
割れた声のまま、彼女は続けなかった。続けない三十秒の間、監査役の呼吸が、何度も、整えようとして、整わなかった。俺は木星を見ていた。見ていないことが、俺にできる唯一のことだった。
やがて、整った呼吸で、彼女は言った。
「私の今の名前は、祖父がくれたの。ステラ。古い言葉で、星。……あの子の今の名前も、星なんですって。別の言葉の、星」
「知ってたのか」
「今、λに教わったばかりよ。アステリア——あの人の名前の意味くらい、監査役は知っているわ」彼女は膝の端末を、抱え直した。「引き離して、名前を変えて、別々の言葉にして。それでも二人とも、星の名前に戻ってる。……誰が名づけ直しても、私たちは、星に戻るのね」
それは多分、彼女が今夜、一番言いたくなかった種類の、綺麗な言葉だった。言ってしまってから、彼女は静かに首を振った。
「駄目ね。綺麗にまとめようとしてる。まとまる話じゃないのに」
「まとまらないままで、いいんじゃないか」
「そうね」と彼女は言った。「まとまらないまま、置いておくわ。……ひとつだけ、決めたことがあるの」
彼女は初めて、俺の方を向いた。凍っていた色は、もう溶けていた。溶けて、硬い芯だけが残っていた。
「会いに行く、じゃないの。まず、知るの。あの人が何を見て、何を選んで、今の場所に立っているのか。知らないまま駆け寄るのは、多分、一番失礼だわ。……離れていた時間ぶんを、飛ばさない」
知ってから、届く。彼女らしい順番だった。らしさの中に決意を畳む人の色が、木星の下で、静かに燃え直していた。
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翌朝、彼女は監査役の顔で報告書を書いていた。
「祖父には、まだ知らせないわ」と、書きながら言った。「名前は、まだ私の物にしておく。祖父に渡したら、政治の物になるもの」
政治の物。連邦の重鎮の孫娘は、名前の使われ方を、名前の重さより先に計算できてしまう場所で育っていた。計算した上で、渡さない方を選ぶ。それが彼女の、今朝の戦い方だった。
「書き上がったら、キャリブレーションの完遂、って書くのかしら」
「監査の完遂だろ」
「そうだったわね」と彼女は言って、初めて、昨日から今日で、ちゃんと笑った。
夜、λの定時報告が来た。
「円の収縮速度、変化ありません。低軌道への到達まで——九日と、一時間です。それと、もうひとつ」
「言ってくれ」
「王権艦隊に、変化があります。各艦の機関出力が、順に上がっています。……発進準備の初期段階と、一致します」
観測の距離で止まっていた九隻が、動く支度を始めていた。測っていた者たちが、近づいてくる。
「発進の時期は、推定できるか」
「機関の立ち上げ手順から——早ければ、二日以内です。目標は、不明です。ただ、この宙域で目標になり得る場所は……多く、ありません」
多くない目標の、真ん中に、俺たちがいた。
円の時計と、王権の機関と。二つの音が、同じ夜に鳴り始めていた。
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