第55話_血の列
――Onoma
襲撃から二日、岩棚の拠点は機付きの警戒が続いていた。円の白い船は動かず、丘陵に転がっていた十二機の跡には、回収班の牽引痕だけが残っている。静かだった。静かさの種類が、襲撃の前とは変わっていた。
「静かな時ほど、よく寝ておくの」とカレンが交代の申し送りで言った。「次があるって、全員分かってる顔なんだから」
ステラが母艦から戻ったのは、その二日目の朝だった。
三日ぶりに見る監査役は、書類の束と一緒に降りてきた。束の一番上に、降下許可の判が押してあった。申請者、監査団名代。同行、監査対象機体一。目的、共鳴者運用監査の完遂——運用環境の実地確認を含む、という条文を、彼女はあの書類の壁のどこかから見つけ出してきたらしかった。
「キャリブレーションの時は、ガルムが枠を作ったわ」と彼女は言った。「今度は、私が作る番。……それだけよ」
それだけ、ではない目的があることを、条文は言わない。言わない書類の作り方を、彼女はこの契約の間に覚えていた。ガルムは判を一目見て、何も聞かなかった。
「外は俺たちが持つ。日没までに上がれ」
「ええ」
短い返事の、静かで古い色が、いつもより硬かった。硬い色のまま、彼女は降下の支度を始めた。何を確かめに行くのかを、彼女は誰にも言わなかった。言わないことと、分かっていることは、俺の中でも両立した。多分、俺と、同じものを確かめに行く。
---
昇降機が、記号の列の中を降りていく。
三度目の底は、三度とも違う用事で俺を迎えた。一度目は親父の日で、二度目はλの日だった。三度目の今日が誰の日なのかを、俺はまだ、口に出していなかった。
「案内します」と、λが言った。「名前の列の層とは、別の層です。……こちらです」
柱の脇の光が、床の一筋を照らした。淡い線をたどって、空洞の奥へ歩く。ステラの足音は、監査の歩幅のまま、一度も乱れなかった。乱れない歩幅で歩く人の色が、歩幅より先に、揺れ始めていた。
歩きながら、一度だけ考えた。この層に血の列があるのなら、俺の枝も、どこかの壁にあるのだろう。親父の波形から、俺へ続く線が。
探さなかった。λにも、頼まなかった。今日は、俺の日じゃない。俺の日は、もう貰った。
奥の壁の前で、線が終わった。
λが同期の光を送ると、壁一面に、光の枝が立ち上がった。
名前の列とは、違う画だった。何千の名前が縦に並ぶのではなく、細い光の線が、枝分かれしながら横へ横へと伸びていく。線の一本一本が、波形だった。人の共鳴の波形が、親から子へ、枝を分けて受け継がれていく。血の列だった。
「家系記録層です」とλが言った。「この街の、血統の記録です。……覚醒者の系統は、こちらの枝です」
覚醒者の枝は、細かった。
太い幹から分かれた無数の枝の中で、その一筋だけが、途切れそうに細いまま、しかし途切れずに、続いていた。太い枝は、街の終わりの高さで、ほとんどが止まっている。細い一筋だけが、終わりの高さを越えて、外の暗がりへ伸びていた。百年に一人、という言葉の形が、そのまま光になっていた。
「この枝の細さは」とステラが言った。「血が薄いから、かしら」
「いいえ」とλが答えた。「枝の太さは、記録の密度です。細いのは……生き延びた記録が、少ないからです」
細さの理由を、λは飾らずに言った。ステラは頷いて、それ以上聞かなかった。
---
「祖母の代は、どこかしら」
ステラの声は、監査の声だった。監査の声で聞くことに、決めてきた声だった。
「街の時代の記録には、名前があります」とλが答えた。「街が終わってからの記録には——名前が、ありません。波形だけが、続いています」
街が終わった後も、枝は続いていた。細く、薄く、時々途切れながら。系は、外に出た血統の波形を、遠くから観測し続けていた。どうやって、とは、λも言わなかった。言えないのではなく、系のその力に、説明がまだ付かないのだと、λの間の取り方で分かった。
「名前がないなら、どうやって探すの」
「波形の、終わりで探せます」とλは言った。それから、少しだけ声を落とした。「……この枝の、ここ。この波形は、十年前に、途絶えています」
ステラが、枝の一点を見た。
細い光の線が、十年前の位置で、静かに終わっていた。病名も、場所も、看取った人の名も、記録は何も言わない。ただ、波が止まった日付だけが、そこにあった。
「……命日だわ」と、ステラは言った。「合ってる。その日で、合ってるわ」
看取りの記憶と、光の線の終わりが、彼女の中で重なる音が、聞こえた気がした。祖母は最後まで木星の話をしなかった。しなかった人の波形は、故郷の壁で、ずっと観測され続けていた。帰らなかった人の帰る場所が、記録の形で、ここにあった。
言い伝えの家の三代目は、光の枝の前に立ったまま、長い間、波形の終わりを見ていた。祖母の声も、顔も、この記録は持っていない。持っていないものの前で、彼女は一度だけ、浅く息を吸った。監査の呼吸に、戻すための息だった。
「続きを、見せて」
---
祖母の波形から、枝は先へ伸びていた。
細い線が一本。その先で、もう一本。そして、その先端で——
線が、割れていた。
一つの波形が、同じ日付で、二つに分かれて生まれていた。枝分かれではなかった。枝分かれは、親から子が分かれる形をしている。これは、一つの点から、二本の線が同時に始まる形だった。
双子の、生まれ方だった。
そして、その二項にだけ、名前があった。
街が終わってから百五十年あまり、名前を失っていた枝の、一番新しい二つの項に、古い書式の文字が、正式な形で刻まれていた。
「λ。読めるか」
「読めます」と、λは言った。「古い言語です。……右の項——ポスポリア。明けの、明星。左の項——ヘスペリア。宵の、明星」
明けの明星と、宵の明星。
「ふたつの名前で、ひとつの星です」とλは続けた。「明けに見える時と、宵に見える時で、古い人々は、別の名前で呼びました。……同じ、ひとつの星を」
「それと、記録の細部を、ひとつ」λの声が、少しだけ慎重になった。「二つの波形の開始時刻には、数秒の差があります。……右が、数秒だけ、先です」
数秒だけ先に生まれた、明けの明星。数秒あとの、宵の明星。名付けた誰かは、その数秒まで、名前に写し取っていた。
ステラは、動かなかった。
「登録の書式は、街の時代の、正式なものです」とλが言った。「終わりの後の枝で、正式な登録は、この二項だけです。誰かが、手続きを知っている誰かが、登録しています」
「……祖母だわ」
ステラの声は、まだ監査の声の形をしていた。形だけが、残っていた。
「手続きを知っているのは、祖母しかいない。『私は帰らないけれど、いつか、帰る者が出るかもしれない』——」彼女は、言い伝えの続きを、初めて自分の解釈で言った。「言い伝えだけじゃ、なかったのね。名前も、渡してあったんだわ。帰る者が、見つけられる場所に」
俺は黙っていた。ここから先は、俺の日ではなかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークを。次回、迷わず戻れます。




