第51話_帰還者
――Lysis
朝の定例で、盤面が二つ動いていた、と報告があった。一つ、王権の艦隊の配置。観測距離が、一晩で目に見えて詰まっている。途中に何があったのかは、まだ入っていない。分かっているのは、八十万キロあった距離が、もうその数字ではないことだけだった。二つ、教団の円。夜の間に組み直され、半径を縮めて——近づいた王権の艦隊ごと、内側に入れる形になっていた。
「囲いの客が増えただけだ」とガルムは言った。「うちの用事を、先に済ませる」
ガルムは、その日の降下から記録員を外した。名目は、機体制御系の較正。傭兵は整備の手の内を雇い主にも見せない、という理屈は、古くて、通りがよかった。連邦の記録員は渋い顔で承認欄に判を押し、ステラが監査役の署名で、理屈の裏を打った。彼女は中身を聞かなかった。書類を返すときに、一言だけ添えた。
「較正が、うまくいくといいわね」
較正、の言い方が、書類の上の意味ではなかった。聞かないことと、分かっていることは、彼女の中で両立する。
降下したのは、《灰狼》の四人と、俺の背中のλだけだった。
昇降機が、記号の列の中を降りていく。壁のλの記号が、携行灯の輪に浮かんでは、上の暗がりへ流れて消えた。深さは、数えなかった。今日は、深さより先に、確かめることがある。
降りる箱の中で、カレンが一度だけ聞いた。
「緊張してる?」
「してる」
正直に答えた。カレンは頷いて、それきり何も聞かなかった。聞かない優しさの形が、この隊には何種類もある。シドは手すりにもたれて、目を閉じていた。目を閉じている時のシドは、寝ていないことの方が多い。
底の空間は、昨日と同じ淡さで待っていた。天井の見えない暗がりと、そこに届かない光と。シドとカレンは入口の側に残った。ガルムは端末の見える位置まで来て、そこで止まった。
「お前とあれの話だ。終わるまで、誰も近づけん」
それだけ言って、ガルムは入口の方へ戻っていった。距離の取り方が、護衛の距離ではなかった。立ち会う者の距離だった。
背負い枠からユニットを降ろし、端末の前に置いた。柱状の端末は、λと同じ青白のまま、静かだった。待っていたものが話し始めるのを、俺は一度見ている。今日は、聞くために来た。
「λ。昨日の頼みの、続きだ。——同期を、許可する」
「はい。……かいし、します」
λの光と、端末の光が、同じ周期に揃った。二つの青白が呼吸を合わせるように明滅して、空間の照明が、一段、明るくなった。この場所の照明が「点く」ところを、俺は初めて見た。
合成音声が、降ってきた。
『——帰還者を、検出。』
百五十年前の管制と同じ、抑揚のない声だった。帰還者。この機械が待っていた二つの言葉のうち、まだ満ちていなかった方が、λに向けられていた。閲覧者は、先に来ていた。帰る者は、俺の背中で運ばれてきた。
『照合、完了。接続知性七号の帰還を、確認。……保護プロトコルを、解除します』
λの光が、一度、大きく膨らんだ。
膨らんで——止まった。明滅が、消えた。
「λ?」
答えは、なかった。
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沈黙を、数えた。
三秒。言えない時の長さを、超えた。五秒。八秒。十秒で、入口の側のカレンが半歩、こちらへ動くのが視界の端に見えた。手を上げて、止めた。声は出さなかった。出せば、何かが途切れる気がした。
十三秒目に、光が戻った。
いつもの周期ではなかった。ゆっくりと、深い、まばたきに似た明滅だった。眠りから覚める時の目の動きに、それは似ていた。
「——聞こえて、いますか」
λの声だった。λの声で、知らない声だった。音節を刻む、あの息継ぎが、ほとんど消えていた。
「聞こえてる」
「話せます」と、λは言った。「ずっと、言えなかったことを——ぜんぶ、話せます」
俺は、端末の前の床に、腰を下ろした。長くなる。それだけは、分かった。冷たい床の温度が、装備越しに、ゆっくり上がってきた。
λの最初の一言は、俺の質問を待たなかった。
「わたしは、最初から、知っていました。あなたが、誰の息子か」
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「最初、というのは、いつからだ」
「墓場の朝です。あなたが、わたしを見つけた日。……いいえ。正確には、その前の夜からです」
拾った日より、前。
「『共鳴反応を検出しました。あなたから、です』——最初の夜に、わたしは、そう言いました。あれは、観測の報告ではありません。照合の、結果でした」
「照合」
「わたしの中には、待つように命じられた波形の条件が、登録されています。先代の——あなたのお父さんの波と、同じ系統の、次の波。あの夜、瓦礫の間を歩いてくるあなたの共鳴は、その登録と一致しました」
瓦礫の間を歩いてくる。あの朝の俺は、部品を漁りに行っただけだった。値の付く残骸と、付かない残骸を分けながら、死んだ戦場を歩いていた。その足音を、待っていた機械が、聞いていた。
「つまり、あの夜には、もう」
「知っていました。あなたが誰の息子で、わたしが、誰を待っていたのか。……言えたのは、あの言葉だけでした。『あなたから、です』。あれが、プロトコルの許す、ぎりぎりの端です。あなたが意味に気づかないことまで、含めての許可でした」
「誰の判断だ、それは」
「プロトコルの、です。わたしの、ではありません」λの光が、わずかに揺れた。「……その区別を、今日から、言えます」
一つ、息を吐いた。怒りに似た形のものが胸の中で持ち上がりかけて、行き先を探して、見つからずに降りた。目の前の機械は、黙らされていた側だった。怒りの手順が見つからない相手が、これで二人目だった。
「お前は、何なんだ。改めて、聞かせてくれ」
「登録名、接続知性七号。この施設の——アーカイブの、外部接続端末です」λの光が、天井の高い暗がりを、一度、撫でるように動いた。「この街が生きていた頃、わたしは、ここと外を繋ぐ口の一つでした。街の最後の日、わたしは外に出ていて。……それから、ずっと、外にいました」
「親父と一緒に、か」
「先代と、です。その前にも、わたしを運んだ手は、あります。その記録は、いつでも開示できます。今日は、あなたの分だけを、話させてください」
先代。λが親父をそう呼ぶのを、初めて聞いた。呼び方の中に、親父の席があった。
「『λ、頼んだ』——最後の通信の、中身を聞いていいか」
λの光が、ゆっくり、一度またたいた。
「命令は、一文です。『次の共鳴者を、待て』」
次の共鳴者を、待て。
「それだけか」
「それだけです。誰とも、どこでとも、いつまでとも、言いませんでした。ただ——『待て』と、それだけです」
期限のない命令を抱えて、λは墓場に落ちていた。拾ったのが俺でなかったら。拾われなかったら。考えかけて、やめた。起きなかったことを数えても、目盛りがない。
「なぜ待つのかは。親父は、何のために、次を待たせた」
「その層は、わたしにも、開示されていません。命令の理由は、わたしの権限の外にあります」λは、そこで一拍、置いた。「嘘ではありません。今日からは、言えないことは、言えないと、言います」
言えないことは、言えないと言う。沈黙の代わりに、言葉で。それだけのことが、λには今日まで、できなかった。
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