第46話_公開状態
空間の照明が、元の淡さに戻った。
誰も、動かなかった。ヘルメットの中の自分の呼吸だけが、それぞれに聞こえていたはずだった。
科学班の主任が、床に座り込んだ。座り込んでから、自分が座り込んだことに気づいた顔をした。記録員の一人は、記録機を胸の高さに構えたまま、止まっていた。録画のランプは、再生の途中から消えていた。仕事を忘れたのではない。向けていいものかどうか、わからなくなった——後で、本人がそう言った。
カレンは、両手を強く組んでいた。組んだ手の、置き場所を探していた。シドは柱を見たまま、動かなかった。笑っていなかった。目も、口も、どこも。
ガルムは、入口の側に立っていた。全員の顔が見える位置だった。映像の間も、多分、ずっとそこにいた。何を見ていたのかは、背中からは、わからなかった。
ステラは、柱を見上げていた。長い間、見上げていた。それから、静かに言った。
「祖母の言い伝えは——迷信じゃ、なかった」
深くまで潜ってはだめ。行ってはいけない場所がある。二つの言い伝えの意味が、たった今、あの映像で答え合わせをされた。
ステラは手袋の指先で目元を拭う仕草をして、ヘルメットの面に阻まれた。阻まれたまま、ゆっくり、手を下ろした。
λは、沈黙していた。
背中のユニットは、降下の間ずっと軽かった。今は、重さも気配もなかった。静かだった。静かすぎた。回線の向こうで、λが何かに全力を使っている。そういう沈黙だった。
「λ」と、小さく呼んだ。
「……はい。へんとうが、おくれました」
半拍、遅れて返事が来た。この衛星に着いてからずっと速かった応答が、初めて、遅れた。遅れたことを、λは自分で計って、自分で報告した。
広間の淡い色は、何も変わらずに満ちていた。七人が立ち尽くしていることも、この空間は多分、同じ平坦さで記録していた。
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帰りの昇降機は、無言だった。
千九百メートルの上昇の間、誰も、一言も話さなかった。話す言葉の持ち合わせが、全員、なかった。壁の記号が、今度は下へ流れていった。降りる時に深さの目盛りに見えた一文字が、昇りでは、見送りに見えた。
地上に出ると、木星があった。褐色の縞が、いつも通りに、ゆっくり回っていた。百五十年前のあの日も、この空は、同じ速さで回っていたはずだった。
設営地の灯りの中で、主任が艦への第一報を打っていた。打っては消し、打っては消して、最後は短い一文になったらしかった。歴史が変わる報せというものは、多分、長くは書けない。
ガルムが《灰狼》とステラにだけ、短く言った。
「明日の予定は、明日決める。今日はもう、誰も、何も決めるな」
決めるな、が助けになる夜というものも、ある。全員が、それに従った。
その夜、艦との報告回線は、遅くまで往復し続けた。科学班の興奮と、軍側の沈黙と、多分、火星へ向かう、長い暗号通信。今日見たものは、もう、俺たちだけのものではなくなっていた。
《灰狼》の区画は、静かだった。カレンの部屋の灯りは、遅くまで点いていた。読書の灯りではない、点きっぱなしの点き方だった。
コックピットに戻って、λのユニットを元の場所に繋ぎ直した。シドが手を貸して、何も聞かずに出ていった。出ていく背中が、いつもより少しだけ、ゆっくりだった。
「λ。今日のこと、聞いていいか」
「はい」
「再生の間、ずっと静かだった。……何をしていた」
「ほうこく、します」と、λは言った。「さいせい、ちゅう。わたしの、しょりの、いちぶが——えいぞうの、しんごうと、どうき、しようと、しました。じどう、です。わたしの、いしでは、ありません」
「同期すると、どうなる」
「ふめい、です。……とめました。とめるのに、しょりの、たいはんを、つかいました」
返事が遅れた理由。静かすぎた沈黙の中身。λは、百五十年前の信号に引かれながら、引かれることを、自分で止めていた。
「とめて、よかったのか」
λは、少し黙った。三秒ではなかった。もっと短い、人間の間に近い沈黙だった。
「わかりません。でも——かってに、ひらくのは、いや、です」
嫌です、と、λは言った。初めて聞く言葉だった。俺はそれを、聞き流さずに、聞き流したふりをした。今夜のλの棚は、もう十分に埋まっている。
λの光が、いつもの周期に戻っていくのを見ながら、俺は、別の言葉を思い出していた。
——その力は、あなたを消しますよ。
いつかの、色のない声。あの時は、脅しの文法だと思った。今日、映像で見た。深く潜った者たちの行き先を。歩いている途中で。抱き上げた腕の中で。文の、途中で。
俺の力は、深く潜るほど、強くなる。強くなるほど——あの映像に、近づく。
その夜は、数えるのをやめた。深さも、日数も、確率も。数えたくない夜というものが、あることを、初めて知った。
「ぱいろっと」と、λが言った。「さいごに、ほうこくが、ひとつ、あります」
「言ってくれ」
「たんまつの、そうこうぞうを、かいせき、しました。さいせいされた、きろくは、いちばん、そとがわの、そう、です。したに——こべつの、きろくそうが、あります。こじん、ごとの、きろく、です」
「個人ごとの」
「はい。そして、けいしきが——わたしの、きろくと、おなじ、です」
λの記録と、同じ形式。百五十年前の街の、個人の記録の層と。
「……読めるのか」
「よめません。どうきが、ひつよう、です」と、λは言った。それから、いつもの正確さで続けた。「どうきを、こころみる、ばあいは——きょかを、ください。かってには、ひらきません」
勝手には、開かない。自分の中の引力に、λは今日、一度勝っている。勝った上で、扉の前に立って、許可を求めていた。
答えは、すぐには出さなかった。出せなかった、が正しい。個別の記録。個人ごとの層。その言葉が、胸の奥の、写真のある場所を、まっすぐに指していた。顔の読めない、機体の記号だけが鮮明な、一枚の写真の場所を。
「——明日、決める。全員で」
「りょうかい、です」
λの光が、了解の周期で一度またたいて、静かになった。静けさの種類が、昼の広間と、少しだけ違っていた。待つ静けさだった。
窓の外で、木星が回っていた。眠っている街の下の、話し始めた記録の上で、俺たちの夜は、いつもより長かった。
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