第44話_知っています
三つ目の区画には、小さな椅子が並んでいた。大人の膝までの高さの椅子が、二十ばかり、低い机とともに同じ向きを向いていた。壁際の棚に、角の丸い積み木が箱ごと残っていた。学び舎だったのだろう。科学班の一人が撮影の手を止めて、しばらく動かなかった。撮影は、別の一人が代わった。
街には、音が足りなかった。循環系の低い唸りと、俺たちの足音だけがして、それ以外の音が、どの区画にもなかった。人の声、機械の作業音、水の音。街の音は生活の音で、生活だけが、ここから抜き取られていた。
連邦の記録員は、最初の一時間、防衛の痕跡を探していた。バリケード、薬莢、砲痕、急ごしらえの墓。職業柄の探し物は、一つも見つからなかった。二時間目から、彼らは黙って、科学班と同じ顔になった。探すものがわからない顔だった。
ステラは、広場の中央で立ち止まっていた。乾いた植栽槽の縁に手を置いて、積み上がる街区を見上げていた。
「……言い伝えでは、足りなかったのね」と、彼女は言った。「行ってはいけない場所、としか、聞いていなかった。ここは——」
続きの言葉を探して、見つからないまま、彼女は槽の縁から手を離した。離してから、独り言のように付け加えた。
「灯りも、扉も、そのままで。……出ていった街には、見えないわ」
俺は、ずっと色を見ていた。
墓場の色なら、知っている。死んだ機体の灰色。生き残った部品の淡い色。この街は、そのどちらでもなかった。構造の全部に、低く静かな色が、薄く敷かれていた。眠っている機械の色。そして、その色の全部が、足元の——ずっと深い方から来る一つの遠い明るさに、細く繋がっていた。
深さ二キロの、下の方。何かが、そこにある。眠ったまま、街の全部を、まだ養っている何かが。
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異変が形になったのは、三つ目の街区だった。
俺のスーツの映像は、護衛記録の名目で、閉鎖回線を通って岩棚の機体に流れている。ガルムがそう組んだ。連邦の記録員の回線とは、線が別だった。
二つ目の街区を出るあたりで、λが一度、俺に頼みごとをした。
「ひだりの、かいろうを、うつして、ください」
映像の向きを、λが自分から求めたのは、初めてだった。俺はカメラを左に振った。回廊の奥は暗く、光帯がまだ点いていなかった。λは十秒ほど黙って、それから「ありがとう、ございます」とだけ言った。何を確かめたのかは、言わなかった。
三つ目の街区の回廊で、λが言った。
「つぎの、かどを、ひだりに、まがると——ひろばが、あります。ちゅうおうに、とうが、あります」
先頭の科学班は、歩きながら地図を作っている。この街の地図は、まだ、どこにもない。
角を曲がった。
広場があった。中央に、塔があった。
足が止まった。俺のだけではなく、《灰狼》の四人全部の。回線を聞いていたのは、うちだけだった。カレンが振り返って、ヘルメット越しに俺の顔を探す目をした。シドは塔を見上げたまま、動かなかった。
「λ」と俺は言った。「地図データが、あるのか」
三秒の、沈黙があった。
「ちずデータは、ありません」とλは言った。「……この、ばしょを、しって、います」
ガルムの声が、回線に短く入った。
「全員に通達。今のやり取りは、回線の外に出すな。護衛記録からも外せ。……理由は聞くな」
誰も、聞かなかった。十メートル先で、連邦の記録員が塔の撮影を続けていた。こちらの回線は、聞こえていない。艦の八基のカメラを思い出した。ここは艦の外で、それでも、見られていない場所は、多分もうどこにもない。閉鎖回線の内側だけが、辛うじて、内側だった。
帰路の列で、カレンが隣に並んだ。
「あとで、説明してもらうわよ」
「……俺が聞きたい」
正直に言った。カレンはヘルメットの中で何かを言いかけて、やめて、それきり黙って歩いた。黙り方が、責める黙り方ではなかった。
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第一次降下は、六時間で切り上げられた。
降下拠点は進入口の外の岩棚に設営され、俺たちは機体のそばで夜を待った。夜と言っても、頭上の木星は沈まない。縞の色が、ゆっくり変わっていくだけだった。
コックピットで、λと二人になった。
「λ。昼の続きだ」
「はい」
「知っています、と言った。記憶が、あるのか」
「きおくは、ありません」と、λは言った。いつもの正確さだった。「けんさくを、じっこう、しました。がいとうデータ、ゼロ、です。でも——かどの、さきの、ひろばも、とうも、しって、いました」
「なつかしい、とは、違うのか」
「……なつかしい、より、つよい、です」
計器の中で、青白い光が、いつもの周期で明滅していた。周期は、いつも通りだった。いつも通りでないものを、λは光ではなく、言葉の方に載せていた。
「おうとう、そくどの、ほうこくが、あります」と、λは続けた。「かそくは、ていし、しました。げんざい——つねに、はやい、です。もどりません」
速くなり続けていた応答は、この衛星に着いて、上がりきった。加速が止まったのではなく、届いた、という報告に聞こえた。
「ぱいろっと。しつもんが、あります」
「言ってみろ」
「しらない、はずの、ことを、しって、いる。これは——こわい、に、ぶんるい、しますか」
分類を、俺に聞いてきた。自分の中の動きに、自分で名前をつけられずに。
「……分類は、保留でいい」と俺は言った。「わからないものに急いで名前をつけると、間違える。検証待ちに、しておけ」
「りょうかい、です。……ほぞん、します。けんしょうまちが、ふえて、いきます」
増えていく。応答の速さも、根拠のない推奨も、知っているはずのない広場も。検証待ちの棚は、木星に近づいてから、λの中で埋まり続けていた。
岩棚の外は、静かだった。八十万キロの向こうの観測窓と、動かない九隻の円が、同じ静けさの中にいる。静けさの種類が、あの街と、少しだけ似ていた。
そこへ、母艦からの更新が来た。
都市に残した観測無人機が、夜の間も測量を続けていた。報告に、画像が一枚、添えられていた。
都市の中心部。街区の螺旋が収束する最深部に、垂直の縦坑が開いていた。直径二百メートル。深さは、無人機の測距の下限を超えて、まだ底の値が返ってこない。
短い映像が付いていた。無人機の照明が縦坑の壁を舐めて降りていく、十数秒。滑らかな壁面に、等間隔の刻みが、光の輪の中に浮かんでは、下の暗がりへ沈んでいった。
縦坑の壁に、記号が刻まれていた。等間隔に、同じ一文字が、ずっと下まで。
『λ』
俺の機体の刻印と、俺の相棒の名前と、読めない記録の中の一語と、同じ一文字が、底の見えない深さへ、降りる者を導くように、続いていた。
「λ。見えてるか」
「はい」と、λは言った。それから、俺が何も聞かないうちに、続けた。
「……あした、おりるの、なら。わたしも、つれて、いって、ください」
機体ごとは、入れない。ユニットだけを外して運ぶことは、できる。λは、それを言っていた。拾った日から今日まで、λが自分の扱いを自分から頼んだことは、一度もなかった。
「——わかった。連れていく」
頭上で、木星の縞が、ゆっくり回っていた。眠っている街の、いちばん深いところの明るさが、目を閉じても、まぶたの裏に残っていた。
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