第43話_開いていた扉
――Katabasis
到着の日、木星はもう、天体ではなく風景だった。
縞模様が肉眼で分かれて見えた。褐色と、白と、その境目で渦を巻く嵐。船団の千二百人は数日かけてその画に慣れ、慣れた頃に、目的地が視界に入った。
目標座標の衛星には、名前がなかった。岩と氷の小衛星。直径およそ三十キロ。航法図の上では、無数にある小衛星の一つとして、番号だけを与えられていた。
その地表に、都市が埋まっていた。
近接観測の無人機が最初の映像を送ってきた時、ブリーフィングルームは静かになった。岩の丘陵の間に、幾何学の線が走っていた。円弧と、直線。地表に出ているのは外殻の一部で、構造の本体は地下へ続いている。推定で、深さ二キロ。
「構造材の劣化は表層のみ。内部は——ほぼ無傷です」と観測士官が言った。「建造年代は、推定で百五十年以上前」
百五十年。地球圏の古い戦争と枯渇の時代——教科書が数行で流す時代の、さらに向こう側の数字だった。科学班の何人かが顔を上げ、それから、全員が同じ映像に戻った。
質問の手が、軍の側から挙がった。
「防衛設備の有無は」
「兵装に類する構造は、確認できません」と観測士官は答えた。「砲座も、装甲区画も、迎撃系の反応も。……この規模の入植地としては、異例です」
守りのない都市。作った者たちは、何も警戒していなかったか、警戒する相手が、兵器では防げないものだったか。会議室の誰も、その二択を口にしなかった。
王権の観測船隊は、八十万キロの距離を保ったまま、同じ衛星に観測窓を向けていた。教団の九隻は、動かない。全員が着いて、全員が、まだ最初の一手を打っていなかった。
第一次降下班は、その日のうちに決まった。科学班が六名、連邦の記録員が二名、護衛として《灰狼》の四人。機体は進入口の外までで、中は徒歩になる。名簿の最後に、監査団の名代が一人、加わっていた。ステラは理屈を監査と書き、理屈でないものは、書かなかった。
降下の前夜、カレンが星図の更新を見せに来た。教団の九隻の円は、変わらずそこにあった。俺たちの船団は、円の内側に、もう入っていた。
「囲まれてから着いたのね、私たち」
「囲んでる連中は、まだ動かん」とガルムが言った。「動かんうちに、仕事を済ませる」
その夜、早く寝ようとして、寝そびれた。λは何も言わなかった。言わないまま、青白い光がいつもより短い周期で明滅している——ように見えて、計ると、周期は正確にいつも通りだった。速くなっていたのは、俺の方だった。
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降下艇が母艦を離れたのは、朝の交代直後だった。
護衛の四機が艇を囲む。眼下に衛星の灰色の地表、頭上に木星。降りるにつれて、空の半分が木星になった。褐色の縞が、天井のように頭の上を流れていく。重力の向きと目の感覚が喧嘩をして、回線でシドが言った。
「酔うな、これは。……何年飛んでても、初めての空ってのはあるもんだ」
進入口は、外殻の南側にあった。無人機が見つけた開口部で、幅は輸送機がひとつ通る程度。降下艇と機体は外の岩棚に降ろし、装備を背負って、そこから先は歩きだった。
重力は火星の三分の一もない。歩幅を間違えると跳ぶ。全員が最初の百メートルで一度ずつ跳んで、二百メートル目から、正しい歩き方を思い出した。設営班が岩棚に中継アンテナを立て、閉鎖回線の距離試験をした。λの応答は、地表でも、艦内と変わらなかった。
開口部の奥に、扉があった。
正確には、開いたままの扉が。厚さ二メートルはある隔壁が、レールの上で全開の位置に止まっていた。こじ開けた傷はない。爆破の痕もない。開けて、そのまま、誰も閉めなかった。それだけの状態が、百五十年、続いていた。
科学班が扉の駆動系に計器を当てて、短く声を上げた。動力が、来ていた。閉めようと思えば、今でも閉まる扉だった。閉まる扉を、誰も閉めないまま、街は開いていた。
「戦争で落ちた都市ならな」とシドが隔壁を見上げた。「扉ってのは、閉まってるか、壊れてるかの、どっちかだ」
開いたままの扉は、そのどちらでもなかった。誰も、その先を言わなかった。
進入路の最初の分岐で、先頭の科学班が足を止めた。無人機の測量は表層までで、ここから先の地図は、誰も持っていない。右か、左か。班が携行灯を向けて議論を始めた時、俺の耳元の閉鎖回線で、λが言った。
「みぎの、つうろを、すいしょう、します」
「……根拠は」
「こんきょは——ありません。でも、みぎ、です」
根拠なしの推奨。λの様式に、ない言葉だった。λは嘘をつかない。データがなければ、ないと言う。ないと言った上で、右だと言った。
俺はそれを飲み込んで、先頭には伝えなかった。伝える言葉を、持っていなかった。班は左を選び、三十分後に行き止まりで引き返して、右の通路で先へ進んだ。
引き返す列の中で、俺は一度だけ、ヘルメットの中で機体の方角を振り返った。岩棚の上の、俺の機体。その中の、青白い光。回線の向こうで、λは何も言わなかった。
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通路を抜けた先で、照明が点いた。
俺たちが入ったから、点いた。天井の光帯が、足音を追いかけるように、順番に目を覚ましていった。百五十年、誰も歩かなかった通路の照明が、来訪者ひとつで動く。
「大気があります」と科学班の一人が計器を読んだ。「組成、呼吸可。気温十六度。……循環系が、現役です」
ヘルメットは、誰も外さなかった。外せる、と、外す、の間には、距離があった。
通路の先は、都市だった。
吹き抜けの大空洞に、階層状の街区が積まれていた。回廊の手すり、等間隔に並ぶ住居の扉、広場の乾いた植栽槽。光帯が区画ごとに順に点いて、街が、目を覚ましていく。目を覚ました街には、誰もいなかった。
最初の住居の扉は、開いていた。
食卓に、食器が出ていた。四人分。椅子の一つは引かれたまま、別の一つの背もたれには、上着が掛かっていた。皿の上には、乾いて黒くなった何かが、皿の形に薄く残っていた。食事の途中でも、片付けの後でもない。配膳の直後に、見えた。
「持ち出した跡が、ないんです」と科学班の主任が言った。主任はさっきから、同じ言葉を何度も繰り返していた。「避難なら、持ち出します。貴重品、食料、記録媒体。……全部、残ってる。戦闘なら、壊れます。何も、壊れてない」
寝室の寝具には、人の形の窪みが残っていた。上掛けはめくられてもいなかった。窪みの中に、あるべきものだけが、なかった。
二つ目の街区には、市場らしい区画があった。量り売りの器が台に並んだまま、乾いた中身を残していた。台の奥の表示板に、数字が灯っていた。日付か、値段か、読めない書式の数字が、同じ表示のまま、ずっと点いていた。止まった数字を、科学班が三方向から撮影した。誰も、器には触れなかった。触れるなと、誰かが言ったわけでもないのに。
「片付いた家って、あるでしょう」と、カレンが歩きながら言った。「ここ、全部それ。……片付けた人が、いないだけ」
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