第35話_百十機
――Teichos
前夜の格納庫は、静かに忙しかった。
整備班が最後の点検を回り、弾薬が搬入され、誰もが自分の仕事を少しだけ丁寧にやっていた。明日が大きい日である時の、現場の作法だった。
作戦図はもう頭に入っていた。防衛線は丘陵地帯の手前、東西四十キロ。連邦の正規部隊が線を受け持ち、《灰狼》は要所に分散配置。シドは中央区画の直衛、ガルムは指揮所付き、カレンは——志願して、丘側の観測支援に入った。誰も理由を聞かなかった。
配置会議で、カレンが丘側の観測支援を志願した時、ガルムは一拍だけ間を置いた。
「観測支援は激戦区じゃない。だが、あの丘が見え続ける位置だ。……いいんだな」
「見えない場所にいる方が、仕事になりません」とカレンは言った。「私、観測は正確ですよ。私情があっても」
「私情があるから正確、って奴もいる」とガルムは言って、配置表にカレンの名を入れた。
俺は機動予備だった。持ち場を持たず、破れた場所へ飛ぶ係。粒子翼のついた今の機体に、一番合った使い方だった。
シドが自分の機体の点検を終えて、隣に来た。
「明日は長くなるぞ。王権は今度こそ本気だ」
「はい」
「一つだけ確認だ」とシドは言った。「境界線の約束、まだ生きてるからな。怖くなくなったら、俺が言う。明日みたいな日は、特にだ」
「……お願いします」
「よし」シドは俺の機体の翼を見上げた。「頼りにしてる。無理はするな。両方だ」
矛盾した注文を、シドは真顔で言った。両方やるのが仕事だと、お互いわかっていた。
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眠りは浅かった。浅い眠りの中で、λの声が一度だけした気がした。しんぱく、あんてい、しています。ねむって、ください。夢か現かの境で、返事の代わりに息を吐いた。
攻勢は、夜明けと同時に来た。
「てきせい、はんのう——ひゃくじゅうき、いじょう。ぜんせん、どうじ、せっしょく、です」
百十機。
これまでの戦闘が、局地の小競り合いだったと思い知る数だった。東西四十キロの防衛線が、端から端まで、同時に燃え始めた。通信は各区画の応答と要請で飽和し、管制の声は優先度の割り振りだけで手一杯になった。
『西セクター一、接触!』『中央、砲撃観測——弾着修正入ります』『東三、押されてる、増援を——』
要請の声が重なり、管制が優先度を叫び、防衛線の四十キロが一枚の燃える地図になった。どの声も切迫していて、どの声にも応えたくて、応えられるのは一度に一箇所だけだった。
一箇所の英雄では、足りない戦争の顔だった。
「燈機、東セクター三、破孔発生!」
「向かいます」
粒子翼が展開して、機体が滑り出した。加速に遅れがない。四十キロの戦線が、翼のある今の機体には、飛び回れる庭の広さになっていた。
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午前中は、火消しに徹した。
東セクター三の破孔を塞ぎ、中央の交差火線を捌き、西の突出部を叩いて戻す。翼の機動は敵の照準系の想定を超えていて、俺は撃たれる前の空域から、撃たれない空域へ、泳ぐように移り続けた。
東セクター三の破孔では、崩れかけた小隊の正面に割り込んだ。押し込んでいた四機の充填を色で読み、撃たれる順番の逆から潰していく。四機目の砲口を歪めた時、崩れかけていた小隊の魔力波から、恐怖の白が一段引いた。持ち直す。それを見届けて、次へ飛ぶ。守るというのは、この繰り返しだった。
『速い——なんだ、あの機動は——』
暗号化の甘い敵の声が一度だけ漏れて、すぐ統制の沈黙に戻った。王権の本隊は、C-7の偽装部隊とは練度が違った。動揺しても、崩れない。数を頼みに、確実に押してくる。
昼前、防衛線中央に飽和射撃が来た。ミサイルと砲弾の混成、六十発超。
「λ、外側を頼む」
「もって、います。——どうぞ」
潜った。誘導波の糸の束に向かって、意思を放射する。糸が濁り、混成弾群の三割が目を失って岩に逸れた。残りは迎撃網が食い止めた。
「かんしょう、とうたつりつ——いってん、はち、パーセント。こうしん、です」
一・八。数字は、また上がった。浮上して、次の破孔へ飛んだ。上がる数字の請求書のことは、考えないことにした。考える暇が、そもそもなかった。
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分岐は、午後に来た。
「けいこく。てきの、べつどうたい——じゅうにき。ぼうえいせんを、うかい。しんろ——きゅうりょう、ほくがわの、りんせつくかく、ほうこうです」
同時に、管制の悲鳴に近い声が重なった。
『中央セクター、突破されかけている! 第二波が集中——燈機、中央へ急行願う!』
二正面だった。
中央が破られれば、防衛線は横から巻かれる。丘も、指揮所も、全部が終わる。シドの持ち場だった。一方、別動隊十二機の針路の先は——丘の北側、隣接区画。避難の済んだ、無人の区画。カレンの実家の、隣のブロック。
機動予備は、一機しかいなかった。
「λ。別動隊の針路上に、人は」
「ひなん、かんりょう、くいき、です。じんてき、はんのう——ゼロ、です」
無人の区画と、人のいる防衛線。比べる残酷さに、比べるまでもない答えがついていた。
三秒だけ、考えた。三秒で足りた。人のいる線と、人のいない区画。命と、風景。天秤は最初から傾いていて、傾きの正しさが、これから失われるものを一グラムも軽くしないことも、わかっていた。
カレンの観測位置から、別動隊の針路は見えているはずだった。あいつの声は、通信に上がってこなかった。上げない、という観測員の規律ごと、聞こえた気がした。
「中央へ行く」
翼が唸って、機体が中央セクターへ飛んだ。正しい判断だった。教科書のどこを開いても、同じ答えが書いてある判断だった。
中央の破孔で、シドの機体が三機に押し込まれていた。割って入り、二機の砲口を潰し、一機の推進器を撃った。「助かった」とシドの短い声。「北は」
「……別動隊が入った。無人区画だ」
「聞こえてる」とシドは言った。それだけで、全部通じた。行けない理由も、行かない判断も、その値段も。「中央は俺が締め直す。お前は西の突出部だ。行け」
俺は次の圧点へ回った。中央は、保った。防衛線は、保った。
その間に、北の空で、砲声が続いていた。
十二機の別動隊は、無人の区画に砲撃を加え、防衛線の後背を脅かす姿勢だけ作って、深追いせずに引いた。陽動と、破壊。どちらが主目的だったのかは、敵だけが知っている。
「べつどうたい、りだつ。……りんせつくかくに、ちゃくだん、ふくすう。じんてき、ひがい——ゼロ、です。たてものと、ちけいに、そんしょう」
人的被害、ゼロ。建物と、地形に、損傷。
数字の上では、何も失われていなかった。人的被害ゼロの報告書に、塀の欄はない。通学路の欄も、遠回りした子供の足の欄もない。報告書は正しく、正しい報告書に載らないものが、北の空の下に横たわっていた。
λの報告は、いつも通り正確だった。その正確さが、今日は少しだけ、冷たく聞こえた。
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