第33話_クレーテ渓谷
――Ichnos
「外部ユニットの回収に、半日ください。座標は火星の地表、北半球の外れです」
ガルムに端末の地図を見せた。防衛線の任務の合間、次の攻勢までの空白を縫うしかなかった。ガルムは地図を一瞥して、宙域名の表示を読んだ。
「旧クレーテ渓谷戦線……」
手が、半秒、止まった。
煙草を取り出しかけた手が、箱の上で止まって、それから何事もなかったように動いた。
「知ってるんですか」
「古い戦場だ。俺が正規軍にいた頃の」とガルムは言った。火をつけて、一口吸って、それだけだった。「立入制限区域だが、記念区域の指定だ。武装しての進入は届けがいる。連邦に話は通しておく」
「ありがとうございます」
「……気をつけて行け」
いつもの「死ぬな」ではなかった。気をつけて行け。行き先が戦場ではない時の、言い方だった。
格納庫で準備をしていると、カレンが通りかかった。
「半日、抜けるんですって? 攻勢前に」
「……悪いとは思ってる」
「思わなくていいわよ」とカレンはあっさり言った。「攻勢はまだ先だし、偵察の報告じゃ再編に最低三日かかる。それに、あなたの機体が強くなるなら、それは丘のためでもあるでしょ」
理屈の通し方が、あいつらしかった。行ってこい、を理屈で包んで渡す。俺は受け取って、降下艇に乗った。
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降下艇の窓から、火星の地表が近づいてきた。
北半球の縁は、テラフォーミングの緑と、素の赤との境界線だった。緑は人の側で、赤は星の側。境界は思ったより曖昧で、緑が力尽きるように薄れて、赤に飲まれていく。目的地は、その赤の側にあった。
クレーテ渓谷は、赤い岩の谷だった。
テラフォーミングの緑が届かない、火星の素の色の場所だった。谷の底に、十数年前の戦争が、そのまま残っていた。
墓場とは、違った。
墓場の残骸は、漁られる。使える部品は抜かれ、フレームは売られ、残ったものだけが漂う。ここの残骸は、誰にも触られていなかった。撃たれた姿勢のまま岩に伏せた機体。折れた砲身。焼けた装甲。全部が、倒れた日の形のまま、赤い砂を薄く被って残されていた。
谷の入り口で、連邦の許可コードを打った。無人の管理塔が進入を認めて、それきり何の音もしなかった。管理する者はいて、訪れる者は、ほとんどいない場所だった。
谷の奥に、向かい合ったまま停止している二機があった。互いの銃口を互いに向けて、双方とも撃ち抜かれて、その形のまま十数年、止まっていた。最後の一瞬の形が、そのまま冷えて固まっていた。どちらが先に撃ったのかは、もう誰にもわからない。
回収されなかったのではない。残されたのだ。記念区域という制限の意味が、降りてみてわかった。ここは谷ごと、墓標だった。
谷の中央に、慰霊標があった。
人の背丈の倍ほどの金属板に、部隊名が刻まれていた。王権側の部隊と、連邦側の部隊と、傭兵団の名が、同じ板に並んでいた。敵味方の区別なく、この谷で死んだ全員の所属と、人数。名前は多すぎて刻めなかったのか、数字だけが並んでいた。
数字の列を、上から読んだ。三桁の部隊もあれば、一桁の部隊もあった。傭兵団の欄の数字は、どこも小さかった。小さな数字の分だけ、小さな団が丸ごと、この谷で終わったということだった。
板の脚に、色の褪せた布が結んであった。元の色はもう分からない。結び目は固く、几帳面で、ほどけないように二重に留めてあった。誰かが、いつか、弔いに来た印だった。結んだ手の几帳面さだけが、布の色より長持ちしていた。
「λ。この布の劣化からも、時期は出るか」
「すいてい——じゅうさんねん、から、じゅうごねん、まえ、です」
コンテナと、同じ頃だった。置いた者と、結んだ者が、同じ手かどうかは、わからない。わからないまま、俺はその二重の結び目を、しばらく見ていた。
「λ、反応は」
「ちかい、です。……ほうこう——いれいひょうの、うら、です」
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慰霊標の裏に回った。
板の基部と岩の間に、人がひとつ屈んで入れるほどの窪みがあった。その奥に、防水包装のコンテナが、砂を被って収まっていた。
引き出して、包装を解いた。中身は背部ユニットだった。細長い二枚の構造体と、接続基部。表面のあちこちに、λの記号。
「がいぶユニット、です。けいしき——りゅうしよく。はいぶ、そうちゃくがた、です」
コンテナの内側を確かめた。文字は、どこにもなかった。型番も、注意書きも、宛名も。書けば手がかりになる。手がかりは、残さない。それでいて、λの記号だけは消していない——見つけるべき者には見つかるように。
徹底した、矛盾した、置き方だった。差出人の書かれていない荷物を、俺は受け取った。
粒子翼。
コンテナを抱えたまま、俺はしばらく、置かれていた窪みを見ていた。
偶然の隠し場所ではなかった。墓場なら漁られる。基地なら接収される。市場なら売られる。だがここは——記念区域は、誰も漁らない。何十年でも、そのまま残る。残ることを知っている者が、残したい何かを置く場所として、ここを選んだ。
そして、弔いの場所だった。
置いた誰かは、この谷に、弔うものがあったのかもしれない。
「λ。このユニットが、ここに置かれた時期はわかるか」
「ほうそうの、れっかから、すいてい——じゅうさんねん、から、じゅうごねん、まえ、です」
十数年前。この谷が戦場だった頃と、重なっていた。
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帰投の準備中に、λが警告を出した。
「けいかい。おうけんの、しょうかいへんたい、よんき。けいろ、この、けいこくの、じょうくうを、つうか、します」
哨戒。戦線の裏を洗う定期の編隊だろう。俺は機体を残骸の間に伏せた。装甲の色を岩に合わせて、出力を落とす。撃ち合えば勝てる相手だった。だが——
ここで撃ち合う気には、なれなかった。
倒れた日の形のまま残っている機体たちの間で、新しい残骸を作る気には、どうしても、なれなかった。
伏せて待つ間、コックピットは静かだった。
「こわい、ですか」とλが小声のような出力で聞いた。
「いや。……妙だな。敵の上を、黙って見送るのは初めてだ」
「きろく、しておきます。——はじめての、みおくり」
「そういう記録、増えたな」
「はい。せんとうの、きろくより、ふえるのが、はやい、です」λは少し間を置いて、続けた。「わたしは、それを、よいことだと、しょりして、います」
戦闘の記録より、それ以外の記録の方が速く増える。悪くない帳尻だと、俺も思った。
四機の編隊が、谷の上空に入った。速度は変わらない。定型の哨戒軌道。そのまま通過する——と思った時、四機の編隊灯が、一度だけ、揃って明滅した。
慰霊標の、真上だった。
「λ。今のは」
「ぐんれい、と、すいてい、します。きゅうせんじょう、つうか、じの、りゃくしき、です。おうけんぐんの、かんしゅう、です」
敵にも、墓は墓だった。
四機は速度を変えず、谷の向こうに消えた。俺は岩陰から機体を起こして、少しの間、編隊の消えた方角を見ていた。今日撃ち合わずに済んだことを、多分、俺は長く覚えている。
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