第31話_帳尻
――Kodon
「監査の随行だ。護衛名目で、お前を名指ししてきた」
ガルムは依頼書を寄越しながら、少し妙な顔をしていた。
「査察団の名代殿の要請だ。断る理由もないが……妙な巡り合わせだな。行き先は連邦の共鳴者運用部隊の後送施設。お前に一番関係のある場所だ」
「偶然じゃありません。彼女が、俺に見せたいものがあるそうです」
「ほう」とガルムは煙を吐いた。「なら、見てこい。……一人で会うな、の方は覚えてるな」
「無色の連中が出たら、すぐ報告します」
「頼む」
出発の朝、ステラは監査役の顔で待っていた。道中、行き先の中身を聞いても、彼女は首を振るだけだった。
「言葉で言えるなら、十五番基地の夜に言ってるわ。見ればわかる。……見て、わからなかったら、その時はもう一度、言葉で言う」
「あの夜の報告書は、どう書いたんですか」
「事実を書いたわ。あなたの言った通りに」とステラは前を見たまま言った。「四十八発、単独無力化、干渉到達率一・二パーセント。……軍から早速、照会が三件来た。再現性はあるか、他の共鳴者に応用できるか、次はいつ使えるか」
「早いですね」
「早いのよ、そういうものだけは」彼女の声に、疲れが一滴だけ混ざった。「だから今日、あなたを連れて行くの。数字の続きがどこへ行くのか、軍の照会は教えてくれないから」
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後送施設は、火星軌道の外れの、静かなステーションだった。
戦場の匂いがしなかった。医療施設の匂いだった。白い通路と、抑えた照明と、静かすぎる空気。ステラは監査の手続きを済ませ、俺を連れて、奥の病棟区画へ入った。
「ここにいるのは、全員、共鳴者よ」とステラは言った。「軍の運用で、深くまで潜らされ続けた人たち」
広い談話室に、十数人がいた。
一見、普通だった。カードで遊んでいる者、窓の外を見ている者、本を読んでいる者。だが、少しずつ、何かがずれていた。
看護士が「レナートさん」と呼んだ。窓際の男は、三秒遅れて振り向いた。呼ばれたのが自分の名前だと、思い出すのに三秒かかる顔だった。
食堂の隅で、若い女が食事をしていた。皿の横に小さな計量器が置いてあって、一口ごとに量を測って食べていた。
談話室の奥の机で、白髪の男が、ノートに何かを書き続けていた。近づくと、それは名前の一覧だった。人の名前が、几帳面な字で、何ページも。ところどころに、横線が引かれていた。
「毎日、覚えている名前を全部書くの」と、通りかかった看護士が小声で教えてくれた。「書けなくなった名前には、ご自分で線を引かれます。……昨日は、三本でした」
白髪の男は俺たちに気づいて、ステラを見て、少し笑った。
「監査の、お嬢さん」
「ええ。また来たわ、ハンスさん」とステラは言った。男のノートの、まだ線の引かれていないページに、彼女の名前があるのが見えた。
「彼女は、味がしなくなったの」とステラは静かに言った。「味がわからないと、食べた気がしなくて、量もわからなくなる。だから測って食べる。……三年、前線で潜らされ続けた人よ」
味の、しない食事。量を測って食べる指。
窓際のレナートと呼ばれた男が、ふと、こちらを見た。俺を、まっすぐに。
「……あんた、まだ浅いな」と男は言った。「目を見りゃわかる。まだ、戻り道の側にいる」
「わかるんですか」
「わかるさ。ここの連中は、みんな同じ道を来たんだ」男は窓の外に目を戻した。「浅いうちに、覚えとけ。深さってのは、下りるときは階段で、戻るときは崖なんだ」
下りるときは階段で、戻るときは崖。
俺は自分の右手を見た。名前が出てこなかった、あの二秒のことを考えた。ここにいる人たちの誰もが、最初は、二秒から始まったのだろう。そして誰もが、階段を下りているつもりで、いたのだろう。
「これが、軍が『運用』と呼ぶものの帳尻よ」とステラは言った。「戦果は報告書に載る。ここは、載らない。……あなたに見せたかったのは、これ。潜り続けた先に何があるかを、数字じゃなくて、顔で見てほしかった」
言葉は、なかった。見ればわかる、とステラが言った意味が、わかりすぎるほどわかった。
その時、警報が鳴った。
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医療警報ではなかった。施設全体の、緊急隔離警報だった。
「隣接の訓練区画です!」と職員が走りながら叫んだ。「共鳴事故——リハビリ訓練中の患者が、戻りません!」
戻らない。
ステラの顔から、色が引いた。俺は考えるより先に走っていた。
訓練区画は、機体シミュレータの並ぶ広い格納庫だった。その中央で、それは起きていた。
若い男が、シミュレータの座席に座ったまま、動かない。目は開いている。呼吸もしている。だが、戻ってこない。
「浅い訓練のはずなんです!」と担当の技官が叫んでいた。「回復訓練の、一番浅い層の——実戦から戻ったばかりで、本人が、もう少し潜れると言って——」
もう少し潜れると、本人が言った。前線で深く潜らされ続けた人間の、深さの感覚は、もう地上の物差しと合っていなかったのだ。階段のつもりで、崖を下りた。
そして、男の周りで、世界が乱れ始めていた。
停止しているはずのシミュレータが、勝手に起動した。照明が明滅し、整備機材のアームが誰も触れないまま動き、区画中のラムディマジナリーが、男を中心に渦を巻き始めた。嵐だった。小さな、けれど確実に育っていく、魔力波の嵐。
医療班が鎮静剤を構えたまま、近づけずにいた。計測機器を向けた技師が首を振る——「数値が、振り切れて読めません!」。マニュアルのどこにも、この事態のページはないらしかった。全員が、手順を失っていた。
渦は、育っていた。最初はシミュレータ一台分だった半径が、机を巻き込み、工具棚を倒し、区画の照明を端から落としていく。
職員は近づけなかった。近づいた一人が、見えない圧に弾かれて転がった。
俺には、渦の中心が見えていた。
男の色が——輪郭が、滲み始めていた。
人の色には、輪郭がある。どこまでがその人か、という境界線。それが、滲んでいた。濡れた紙に書いた文字みたいに、男の色の縁が、周りの渦へ、にじんで、溶け出しかけていた。
「λ」
「みえて、います」λの声は硬かった。「ぱいろっと、ちかづかないで、ください。あの、うずは、きょうめいたいを、ひきこみます。あなたは——いちばん、ひきこまれやすい」
「浅くなら」
「あさく、でも、です」
それでも、手を伸ばした。潜らずに、水面から手だけを伸ばすように、意思の先だけを男の方へ向けた。届けば、引き戻せるかもしれない。あの滲んでいく輪郭を、こちら側へ——
水面から、手だけを。潜らない。潜らずに、意思の先端だけを、あの滲んでいく輪郭へ向けて伸ばす。λの警告が正しいのはわかっていた。それでも、目の前で人の輪郭が溶けていくのを、ただ見ていられる訓練を、俺は受けていなかった。
触れた瞬間、わかった。
引けない。向こうの方が、深い。綱引きにすらならない。俺の伸ばした意思の先が、逆に渦の方へ引かれて、λの警告が耳元で鳴って、俺は手を、引っ込めた。
引っ込めた自分を、恥じる暇もなかった。
嵐が、止まったからだ。
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