第29話_四十八
――Bathos
「じゅんびが、かんりょう、しました」
朝の点検中に、λが言った。
「準備。この前の、あれか」
「はい。えんざんの、わりあてを、みなおしました。せんとうちゅう、わたしの、しょりの、はちじゅっパーセントを、きたいせいぎょと、しゅうへんけいかいに、まわせます。——あなたが、ふかく、もぐるとき、わたしが、そとがわを、もてる、ように」
外側を、持つ。
λの言い方は相変わらず独特だったが、意味はわかった。俺が深く潜っている間、機体と周囲はλが見ている。俺は潜ることだけに、全部を使える。
「その八十パーセントは、どこから持ってくる」
「じこしゅうふくを、いちじ、ていし、します」
手が止まった。λの自己修復は、まだ終わっていない。回路の焼けは残っていて、進捗は七割を超えたところだ。それを、止める。
「お前の回復を削って、俺の外側を持つのか」
「はい。しゅうふくは、あとで、さいかいできます。あなたの、そとがわは、そのしゅんかんに、しか、もてません」
「潜る前提で組んだのか」
「はい。……つかいたく、ない、じゅんびです。でも、ひつような、じゅんびです」
使いたくない準備。矛盾した言い方を、λは正確な顔でした。俺も同じ気持ちだったから、訂正しなかった。
その準備が要る日は、三日後に来た。
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警報は深夜に鳴った。
寝台から機体まで、四十秒。走りながら、廊下の窓の外に、迎撃態勢に入る基地の灯りが流れた。深夜の基地が目を覚ましていく速度で、事態の大きさがわかった。
「ちょうきょり、はんのう、たすう。……ミサイルぐん、です。よんじゅうはっぱつ。しんろ、ぼうえいせん、および、こうほうの、しせつぐん」
四十八発。
跳ね起きて機体に走りながら、λの解析を聞いた。王権の攻勢第二波は、機体の突撃ではなく、飽和攻撃で来た。長距離ミサイルを防衛線の迎撃能力の上限を超える数だけ撃ち込み、防衛網ごと消す。数の暴力だった。
「迎撃の計算は」
「ぜんげいげいきりょくで、げいげきした、ばあい——とうたつを、ゆるす、だんすうは、にじゅういち。……ぼうえいせんは、もちません」
全力で撃ち落として、二十一発が届く。防衛線の後方には補給施設と、避難民の中継所がある。
中継所には、第三居住区から運んだ人々がいた。俺たちが二日かけて空を保った、あの列の人々だ。カレンの父と弟が、輸送の順番待ちで、まだあそこにいる。あの列の、全員が。
二十一発あれば、全部に足りる。
出撃した。連邦の迎撃部隊が上がり、シドとカレンも上がった。空域は迎撃の光で埋まり始めていた。
『三番から六番、右舷集中!』『再装填急げ、間に合わん——』『二発抜けた、後衛回せ!』
管制の声が忙しくなっていく。俺も撃った。一発ずつ、確実に落とす。落ちる。落ちる。シドの射撃は正確で、カレンの装填は速かった。全員が、訓練の全部を出していた。
それでも、数字は変わらなかった。どれだけ順調に落としても、二十一発が届く計算のまま、ミサイル群は近づいてくる。
俺の目には、四十八の赤い光が見えていた。
いや——もう、三十九。三十九の弾頭の魔力波と、その芯で瞬く誘導波の、細い糸。
見えるなら、触れないのか。
あの日と、同じ問いだった。
「λ」
「はい」
「あの日のやり方を、やる」
一拍の間。λは聞き返さなかった。あの日、で全部通じた。
「——はい。わたしが、そとがわを、もちます」
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機体の制御が、λに移った。
視界の隅で警戒表示が流れ、機体が自動で退避軌道を取り始める。俺の手は操縦桿から離れた。離れていい。外側は、λが持っている。
俺は、潜った。
いつもの深さを、通り過ぎた。音が消える。時間の目盛りが、細かくなりすぎて、止まって見える。三十九発の誘導波が、暗い水の底で光る三十九本の糸になった。
あの日は、三本だった。三本に向かって、ありったけを放射して、〇・〇三パーセントしか届かなかった。
今日は、三十九本。
だが、あの日と違うものが二つあった。一つ、俺は潜ることだけに全部を使える。外側をλが持っているから。二つ——狙うのは弾頭じゃない。誘導の糸だ。弾を止めるんじゃない。弾の目を、眩ませる。
「ゆうどうを、うしなった、ばあいの、よそくだんどう、さんしゅつずみ——ぜんだん、ぼうえいせん、てまえの、がんかいぐんに、しょうとつします」と、λが先に置いた。外れた弾の行き先まで、計算は済んでいた。
水の底は、静かだった。
λの声だけが、上から差し込む光みたいに届いていた。距離。残弾数。俺の心拍。λが読み上げる数字の一つ一つが、俺がどこまで潜ったかを教える目印になった。目印がある限り、戻り道はある。
乱れろ。
三十九本の糸に向かって、意思を放射した。
糸が、揺れた。
あの日と同じ揺れだった。そして今日は、揺れが、止まらなかった。一本、また一本、糸の光が濁っていく。誘導波の位相が崩れて、灰色に淀んでいく。墓場で見てきた、死んだ部品の色に。
「かんしょう、とうたつりつ——いってんに、パーセント」
λの声が、水の底まで届いた。
「ゆうどうけいの、かくらんに、ひつような、すいじゅんを——こえて、います」
一・二パーセント。
あの日の、四十倍。それでも、たったの一・二。発射を止めるには十五が要る。目を眩ませるだけなら——一で足りる。
一本、二本、五本。濁りは連鎖した。糸は互いを見て編隊を保っている。一本の濁りが、隣の糸へ、その隣へ、静かに伝染していった。俺がやったのは最初の数本で、あとは糸たちが、勝手に互いの目を潰し合った。
「じゅうきゅう……にじゅうご……さんじゅう」λの数える声が、水の上から降ってくる。「ぜんゆうどう——そうしつ、です」
三十九発のミサイルは、目を失ったまま直進し、防衛線の手前の岩塊群に、順番に吸い込まれていった。爆発の光が、誰もいない岩の間で、連なって咲いた。
浮上は、潜るより時間がかかった。λの読み上げる俺の心拍数を目印に、一段ずつ、浅い方へ戻る。最後の一発が散った時、水面に顔が出た。コックピットの計器の音が、急に世界に戻ってきた。
防衛線、無傷。着弾、ゼロ。死者、ゼロ。
あの日届かなかったやり方が、今日は、届いた。
嬉しさは、来なかった。代わりに来たのは、静かな、置き場のない何かだった。届くようになった。あの日から今日までの間に、俺は届くようになった。その間に、と考えて、やめた。考えの先に、カレーの写真があるのがわかっていたからだ。
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帰投した。
機体をλに任せたまま格納庫に降り、ハシゴを掴んだ。体は重かった。いつもの重さの、さらに底が抜けたような重さだった。それでも立てた。立てるうちは、大丈夫だと思っていた。
シドとカレンの機体が、少し遅れて降りてきた。二人とも弾倉は空で、装甲は無事だった。カレンが降りしなに親指を立てて、シドが疲れた手を挙げた。四十八発、着弾ゼロ。今夜の格納庫には、良い夜の空気が流れていた。
その空気の中で、俺だけが、底の抜けた重さの中にいた。
「燈、飲みに——」と言いかけたシドが、俺の顔を見て、言い方を変えた。「……いや。今日は寝ろ。顔が、留守だ」
顔が留守。シドの言葉の選び方は、時々λより正確だった。
管制からの帰投確認が、通信に入った。
『帰投を確認。記録のため、パイロット名と登録番号をどうぞ』
定型の確認だった。何百回もやってきた、ただの手続きだった。
「……」
名前が、出てこなかった。
登録番号は言えた。数字は、そこにあった。だが名前が——自分の名前が、口の形にならなかった。
二秒。
「とう。パイロットめい、とう、です」とλが、先に答えた。
『確認しました。お疲れ様でした』
通信が切れた。燈。そうだ。俺の名前だ。灯りの、燈。二秒遅れて、名前は戻ってきた。何事もなかったように、そこにあった。
管制は気づかなかった。シドもカレンも、まだ降りていない。誰も、気づいていない。
「λ」
「……はい」
「今のは」
「きろく、しました」とλは言った。それ以上は、その場では言わなかった。言わない、という判断ごと、記録されている気がした。
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