閑話五 その夜
――Nyx
麻酔が切れるのを、シドは医務室の寝台で待っていた。
右腕は肘から先を固定されている。骨は無事で、腱をやられた。腕ごと持っていかれたのは機体の方で、こちらは腱で済んだ。処置をした衛生担当は「二週間は撃つな」と言い、シドは「利き腕じゃない方で撃つ流派だ」と返した。冗談は流された。流されるのは慣れている。衛生担当は固定具の締めを確かめながら、「痛んだら言え」とだけ付け足した。痛みの話をしに来る傭兵がいないことは、互いに知っている。知っていることを言うのが、この部屋の礼儀だった。
天井を見ながら、耳の奥で、まだあの三十分が鳴っていた。
腕をやられたのは、拠点直衛の撃ち合いの中だった。三十を超える敵の、こちらへ回された圧力は薄くなかった。爆裂弾の破片が右腕部を持っていき、腱に響いた。それでも直衛の持ち場は離れられない。左手の操作系に切り替えて、撃てない右腕をぶら下げたまま、シドは持ち場の岩陰にいた。だから、あの三十分が始まった時も、そこにいた。
通信は、開いていた。
拠点直衛の位置から、シドは全部聞いていた。人工知性の静かな声が、位置と距離だけを等間隔で読み上げる。応答はない。問いかけもない。読み上げと読み上げの間に、戦闘の音は届かない。宇宙の撃ち合いは無音で、無音の戦場の交信は、数字だけでできていた。
等間隔、というのが、いちばん堪えた。人間の報告は乱れる。息が上がり、間が詰まり、声が硬くなる。乱れは戦況の計器で、シドは正規軍と傭兵の年月の全部を、乱れで戦場を読んで生きてきた。あの三十分の読み上げには、乱れがなかった。数字を刻む側も、数字を作っている側も、一定だった。一定のまま、進んでいった。
数字が一つ進むたび、王権の機体が一機、点呼から消えているのが分かった。
シドの親指は、三十分、送信キーの上にあった。
言葉も、決めてあった。短いのがいい。燈、十分だ。それだけでいい。長い言葉は戦闘中の耳を素通りする。短く、名前を先に。教範ではなく、十二年の傭兵暮らしで覚えた呼びかけの作法だった。
押さなかった。
一度だけ、押しかけた。読み上げの数字が二桁に乗った時だ。親指に力が入って、キーが半分沈んで、そこで止めた。止めた理由を、シドは処置室の天井に向かって、初めて言葉にしてみた。あの時、無線の向こうに飛ばせる言葉を、自分は一つも持っていなかった。持っていない言葉は、キーを押しても出ていかない。出ていくのは呼吸の音だけで、呼吸の音を聞かせるくらいなら、閉じている方がましだった。
十二年前の夜のことは、昨日、当の燈に話したばかりだった。間に合わなかった夜。爆発の破片が顔を掠めた夜。あの夜の自分の頭の中には、足りない、の三文字しかなかった。周りは何か言ってくれた。仕方がない、と言われた。お前は飛び込んだだけ偉い、とも言われた。誰のせいでもない、と隊長は言い、運だ、と同期は言った。どの言葉も、覚えてはいる。全部覚えているのに、届いた記憶が一つもない。足りない、で埋まっている頭には、外からの言葉の入る隙間がない。
十分だ、という言葉は、あの頭には一番遠い。
だから親指は、キーの上で三十分、動かなかった。読み上げの数字を数えながら、シドは自分の十二年前の頭を思い出し、今の燈の頭を想像し、想像がほぼ当たっているだろうことに、ため息も出なかった。
言葉は、使われないまま、残った。
処置室の灯りの下で、シドはその残った言葉をもう一度点検した。十分だ。——今なら、届くのか。戦闘は終わった。数字は止まった。それでも、違う気がした。十分だったかどうかを決める権利は、腕を吊った直衛にはない。
別の言葉がいる。
寝台を降りて、固定具の具合を確かめた。左手で上着を肩にかける。片腕の着方は、十二年前に一度覚えて、忘れていた。体は思ったより早く思い出した。思い出したことを喜ぶ場面ではなかった。
---
医務室を出ると、艦内は夜のシフトの静けさだった。
格納庫の灯りだけが、通路の先に点いている。シドは歩きながら、言葉の候補を並べた。歩測と思考を合わせるのは古い癖だ。歩く速さでしか、考えがまとまらない。
一つ目。よくやった。——捨てた。戦果の話ではない。拠点は無事で、作業員は全員生きていて、任務の帳面は満点だ。満点の帳面と、あの三十分は、別の棚にある。今夜のあれを戦果の棚に置いたら、あいつは棚ごと燃やす。
二つ目。間に合わなかったのは、お前だけじゃない。——捨てるのに、少しかかった。これは本当のことで、本当のことで、自分の話だ。十二年前の話は昨日した。話した時のあいつの顔も覚えている。二晩続けて年寄りの傷を見せるのは、慰めではなく、順番の横取りだ。今夜は、あいつの夜だ。
三つ目が残った。
お前のせいじゃない。
使い古された言葉だ。十二年前、シド自身が聞かされた側の言葉でもある。届かなかった言葉の筆頭でもある。それでも、と格納庫の入口でシドは思った。届かないと知っていて言う言葉には、届かせる以外の仕事がある。お前のせいじゃないと考えている人間が、少なくとも一人、同じ格納庫にいる。その事実を置いてくることだけは、届かなくても、できる。
置いてくるなら、もう一つ。あれが届いていたのかどうかを、聞こう。位相が揺れた、と人工知性は言っていた。届いて、足りなかった。届いていたのなら、それは足掻いたということだ。足掻けなかった人間が言うのだから、確かだ。
格納庫に入ると、整備区画が一つ、空いたままになっていた。歩調が半歩乱れて、戻った。
燈の背中が見えた。機体の下に、一人で座っている。
シドは左手を確かめて、歩き出した。
---
カレンの夜は、書類で終わろうとしていた。
避難誘導の完了報告。搬送記録。作業員二十名、負傷なし。退避壕への収容時刻、シャトルへの移乗時刻、点呼の結果。数字は全部揃っていて、全部合っていた。合っている数字を三度確かめるのは、カレンの流儀ではない。今夜は三度確かめた。手が勝手にそうした。
あの三十分、カレンは仕事をしていた。
誘導はモスと二人で始めた仕事だった。区画ごとに割って、モスが東、カレンが西。作業員は訓練通りに動かない。装備を取りに戻ろうとする者がいて、家族へ通信を入れたがる者がいて、退避壕の位置を三ヶ月働いていて知らない者がいた。訓練通りに動かない人間を退避壕まで歩かせるのは、撃ち合いより口数の要る仕事で、口数ならモスの領分だった。実際、東区画の収容の方が早かった。無線越しに、歩きながら作業員を笑わせている声が聞こえていた。怖がる人間は足が止まる。笑っている人間は歩く。あれはあれで、技術だった。
モスが戻りに入った、と無線で言った。それが最後だった。
閃光のあと、カレンは自分の持ち場を続けた。点呼が二人足りなかった。一人は資材庫で見つかった。持ち出し記録を几帳面に付けていて、几帳面さで死ぬところだった。もう一人は最初から壕の中にいて、点呼の声が聞こえない位置で座り込んでいた。それから退避壕の扉が一枚、レールを噛んで閉まらなくなった。カレンは工具を借りて、レールの石を掻き出した。手袋の指先が破れた。破れた指先を見て、なぜか少しだけ、呼吸が楽になった。目の前に、直せるものがあるのは、いい。
搬送のシャトルが遅れていた。やることが並んでいて、カレンは並んでいる順に片付けた。最後の作業員は年配の男で、乗り込む段になって、拠点はどうなるのかと聞いた。守られています、とカレンは答えた。短い答えだったが、嘘ではなかった。男は頷いて、それから、あんたらも早く逃げなさいと言った。逃げる側の人間に言われる筋の言葉ではなかったが、カレンは、はい、とだけ返した。訂正する場面ではなかった。
通信の向こうで始まったものを、聞かない、と決めた。決めたのは自分で、決めた通りにできたわけではなかった。人工知性の読み上げは、扉をこじ開けている間も、耳の底に等間隔で落ちてきた。数字が進むたび、手を強く動かした。手の音で、耳を塞ぐことはできない。できないことを、三十分、やり続けた。
最後の作業員をシャトルに乗せて、収容完了、と報告した。
復唱が、なかった。
いつもなら、ある。完了、確認です、と歌うような調子で返ってくる。新人の頃に報告を一つ聞き逃して、それからは全部復唱すると決めたのだと、いつだったか本人が言っていた。決めた、というより、決めたことを毎回楽しんでいる調子だった。報告というのは宛先に届いて終わる仕事で、モスの復唱は、届いた音だった。あの夜のカレンの報告は、開いた通信の中へ出ていって、数字の読み上げの間に、置かれたままになった。
書類の最後の欄に署名して、カレンは端末を閉じた。眠れる気はしなかった。歩くことにした。
---
格納庫は、非常灯だけになっていた。
燈の機体の前を通った。整備端末が点けっぱなしで、待機画面の光が装甲の灰色を照らしている。カレンは足を止めて、画面を呼び出した。理由は自分でもはっきりしない。強いて言えば、数字を見る夜だった。数字なら、今夜はもう二十人ぶん数えた。
使用弾数の欄を開いた。
十八。
撃墜、十八。
しばらく、そのまま見ていた。
数字の意味は、整備記録を読み慣れた者には一目で分かる。いつもの燈の欄は、こうならない。砲口を潰し、推進器を抜き、殺さずに落とすのがあいつの撃ち方で、殺さない射撃は手数が要る。撃墜数より弾数が多いのが、燈の機体のいつもの帳尻だった。補正の二射、急所を外すための狙い直しの一射。相手が暴れれば、その分も増える。無力化は、贅沢な撃ち方なのだ。整備記録の上では、優しさは、弾数の余りとして残る。
画面を遡った。先週の欄。先月の欄。どの戦闘の行も、弾数の側が膨らんでいる。膨らみの分だけ、向こう側の誰かが生きて帰った。数字はそういう読み方のできる帳面で、カレンはその読み方を、この機体の欄で覚えた。
今夜の行に、余りがなかった。
十八と、十八。
補正がない。外れがない。二射目がない。一機に、一発。三十分の欄に並んでいるのは、それだけだった。感情の消えた射撃が、感情の消えた数字になって、整備記録に残っていた。
カレンは欄を指でなぞって、途中でやめた。なぞっても、数字は変わらない。画面の明るさを一段落として、元の待機画面に戻した。点けっぱなしの端末を消さなかったのは、消すと、機体の灰色が夜に沈むからだった。理屈ではない。消さなかった、というだけのことだ。
言えることが、数字の外になかった。カレンの今夜の欄は、使用弾数ゼロ、被弾ゼロ、無傷。数字の上でいちばん綺麗なのは自分の行で、いちばん綺麗な行の人間の言葉が、いちばん軽い夜だということも、カレンは知っていた。だから店の話をした。あの店が気に入っていた、というのは、数字ではない、確かなことだった。確かなことを一つ置いて、あとは黙るのが、今夜の自分の持ち分だった。
---
事務室の前を通ると、扉が開いていた。
ガルムが机に向かっていた。画面に報告書。手が、止まっている。カレンの位置から項目までは読めない。読めたのは、止まっている、ということだけだった。煙草が指の間で長くなって、灰が落ちる前に、ガルムは灰皿に置いた。置いて、また同じ画面を見た。灰皿には、同じ長さで置かれた吸殻が、もう何本か並んでいた。吸うためではなく、火を点けるために点けている煙草の並びだった。
通りかかってから離れるまでの間に、画面は一度も切り替わらなかった。報告書は、書く手より速くは進まない。当たり前のことが、開いた扉の奥で、当たり前のまま止まっていた。
ジンの時は、取り分は故郷の恋人に送られた。それがうちのルールだと、カレンは後から聞いた。モスの宛先を、ガルムが知っているのかどうか、カレンは知らない。聞く夜でもなかった。
カレンは声をかけずに通り過ぎた。ガルムも、顔を上げなかった。気づいていないのではない、と思った。あの人が艦内の足音を聞き分けないことはない。気づいて、上げなかった。それも返事の一種だった。
---
居住区の通路は、夜間の減光に落ちていた。
こんな夜は、艦の音がよく聞こえる。空調の低い唸り。船体のどこかが温度で軋む音。人の寝静まった艦の音だが、今夜は扉の向こうのいくつかが、寝ていない静けさをしていた。眠っている静けさと、眠れない静けさは、通路を歩けば区別がつく。今夜の艦は、後者の扉が多かった。
その通路で、シドと行き合った。
「寝てないのか」
「シドさんもでしょう」
「腕が疼く。年寄りは疼きと寝る」
「寝てください。明日も疼きます」
シドは短く笑って、すれ違っていった。吊った右腕が、通路の非常灯に一瞬照らされた。数歩先で、足音が半拍だけ緩んで、また元の速さに戻った。何か言い足すか迷って、やめた歩き方だった。カレンは振り返らなかった。言い足さない、が正解の夜だということで、二人の採点は合っていた。
掴んだのは左手だったな、とカレンは思い出した。それから、自分がさっき、確かなことを一つしか言えなかったことも。二人とも、持ち物は少なかった。少ない持ち物を、それぞれの場所に置いてきた夜だった。
自室の扉を閉めて、灯りの前で一度だけ手を止めた。
明日の誘導完了報告は、ガルムに直接出そう、と決めた。端末経由ではなく、顔を見て。復唱がなくても、届いたかどうかは、顔なら分かる。届く先のある報告を、しばらくは選んで出すことにする。それが、数字を三度確かめる手を止める、たぶん一番の近道だった。
完了、確認です。
歌うような調子を、頭の中で一度だけ再生して、カレンは灯りを消した。
*── 閑話・了 ──*
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークを。次回、迷わず戻れます。




