第19話_鐘の者
——Kenosis
食堂の音が、減った。
モスがいた頃、この狭い食堂には常に誰かの声があった。大抵はモスの声だった。宇宙食のカレーは本物じゃない。地球に行ってみたい。カレン先輩。シドさんの奢り。沈黙を嫌う奴が一人いるだけで、食堂は賑やかだった。
今は、食器の音だけがする。
端の席が、二つになった。ジンの席と、モスの席。誰も座らない席が二つある食堂で、俺たちは黙って飯を食った。
シドは右腕を三角巾で吊ったまま、左手だけで二人分食べた。「食える時に食っておくのが俺のルールだ」と言ったが、誰も本当の理由を聞かなかった。食べることが、シドの弔い方だった。
カレンは、泣かなかった。
一度だけ、皿を洗いながら、背中を向けたまま言った。
「泣くとね。いなくなったことを、認める気がするの」
それだけだった。俺は皿を拭きながら、何も言わなかった。言わないことが、返事だった。
---
問題は、モスの取り分だった。
「送り先がない」とガルムが言った。事務室の机に、モスの契約書類が広げてあった。「コロニー生まれ、施設育ち。身寄りの記録なし。緊急連絡先の欄は——うちの食堂の内線番号が書いてある」
「うちの、ですか」
「入団の時に書かせた書類だ。書くものがなかったんだろ」ガルムは煙草に火をつけて、短く笑った。笑いは、すぐ消えた。
ジンの時は、故郷の恋人に送った。それが《灰狼》のルールだった。だが、ルールは送り先があって初めて機能する。
「遺品の端末は見たか」とガルムが言った。
「これから見ます」
モスの端末には、大したものは入っていなかった。機体の操作メモ。カレンに教わった射撃訓練の記録。カレーの店の候補リスト——三つの店に、丸と三角と丸がついていた。
そして、貯金のメモがあった。
《地球行き》とだけ題のついた口座に、毎月、決まった額。積み立ての目標額の横に、現在額。
あと三割で、届く額だった。
俺はその画面を、しばらく見ていた。戦争が落ち着いたら、民間船で地球に行く。本物のカレーを食う。あいつは冗談みたいに言いながら、毎月、本気で積んでいた。
ガルムに見せた。ガルムは長い間、画面を見ていた。煙草が灰になるまで。
「……取り分は、この口座に足しておく」
「送り先は」
「保留だ」とガルムは言った。「使い道は、いつか決める。今じゃない」
---
モスの荷物の整理を終えて、宙港の通路を歩いていた時だった。
人混みだった。作業員、商人、傭兵、乗員。行き交う人間の色が、いつも通り視界を流れていく。疲労の鈍い色。急ぎの橙。退屈の灰。人の色は機体より薄いが、消えることはない。生きている限り、人には色がある。
隣に、色のない人間が立っていた。
足が、止まった。
人の形をしている。中肉中背、フードのついた旅装、年齢のわからない男の顔。見えている。輪郭も、服の皺も、呼吸で肩が動くのも見えている。なのに、色が、ない。
G-2の外縁で見た、あの気配と同じだった。
「λ」と俺は口の中で言った。「隣の男を照合しろ」
「……だれ、も、けん、ち、でき、ま、せ、ん。ぱ、いろっと、の、しゅう、い、さん、めーとる、に、せい、たい、はん、のう、は、あり、ま、せ、ん」
三メートル以内に、誰もいない。λのセンサーは、そう言った。男は俺の一メートル横に、立っていた。
「お疲れのようですね」と男は言った。
静かな、丁寧な声だった。
「……誰だ」
「名乗るほどの者ではありません。ただの、鐘を撞く者です」男は人混みに視線を置いたまま、俺を見なかった。「G-2区画は、大変でしたね。三十機。お仲間がお一人。そして——十八機」
血の温度が、一度だけ下がった。
「どこまで知っている」
「あなたが、弾薬の位相に触れたことまでは」と男は言った。「揺らしましたね。外から、意思だけで。〇・〇三パーセント。……深く、潜りましたね」
数字まで知っていた。λと俺しか知らない数字だった。
問い詰める言葉が、いくつも浮かんで、どれも口から出なかった。モスの荷物を整理した帰りだった。俺の中には、怒りの置き場になるはずの場所に、ただ空白があった。
「用件は」とだけ、言った。
男は初めて、俺の方を向いた。色のない顔が、静かに俺を見た。
「忠告を、ひとつ」
「……聞こう」
「その力は、あなたを消しますよ」
消す。
殺す、ではなかった。壊す、でもなかった。消す、と男は言った。ランプの灯りを消すのと同じ言い方で。
「どういう意味だ」
「言葉の通りです」と男は言った。「深く潜る者は、消えます。昔から、そうです。これからも、そうです」
「……あんたたちは、何なんだ」
「鐘を撞く者です」と男は繰り返した。それから、思い出したように付け加えた。「ああ、それと。G-2の事前情報は、十機だったそうですね」
「……それが」
「情報とは、どこかで、誰かが作るものです」と男は言った。「お気をつけて。——また参ります」
男は人混みに歩き出した。三歩目で、雑踏の色の奔流に紛れて、色のない輪郭は、どこにも見分けられなくなった。
追わなかった。追えなかった。空白のままの体で、俺はしばらく、人混みの色だけを見ていた。
---
ガルムは、男の描写を聞いている間、一度も口を挟まなかった。
聞き終えて、煙草に火をつけて、その火が半分になるまで黙っていた。
「……色がない、っていうのは、お前の『見える』の話だな」
「はい。センサーにも映りませんでした。λにも」
「フードの旅装。丁寧な喋り。名乗らず、鐘、とだけ」ガルムは煙を吐いた。「正規軍にいた頃、報告書の隅で何度か見た名前がある。λ教団の実働部隊——《黙鐘》。噂だけの、公式にはいないはずの連中だ」
「教団が、なぜ俺に」
「わからん」とガルムは言った。「教団は表向き、戦災孤児の保護なんかをやってる宗教団体だ。だが昔から、妙な噂が絶えない。力の強い共鳴者の周りに、あいつらが現れると——」
ガルムは、そこで止まった。
「現れると、なんですか」
「……いや」
煙草の火を、灰皿に押しつけた。
「今は、いい。確かなことがわかるまで、俺の口からは言わん。ただ、次にあいつらが現れたら、必ず俺に言え。一人で会うな」
「消える、という言葉に、心当たりがあるんですか」
ガルムの手が、半秒、止まった。
「……ないと言えば、嘘になる」とガルムは言った。「あると言うには、俺は何も知らん。この話は終わりだ」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
続きが気になりましたら、ブックマークを。次回、迷わず戻れます。




