第97話_帰りたい
――Symphonia
四の底は、下から見ると、天井だった。
名前の列を抜けて、全員のいる方へ、上がってきた。上がるほど、線の外側の音が、近くなった。撃つ音。装甲の飛ぶ音。誰かの機体が、地面に座り込む音。聞こえるはずのない音が、聞こえていた。帰る場所の音だった。
天井の手前で、止まった。
止まったのではなかった。進めなくなった。天井の向こうに、俺の体がある。固定具の中で、正しい姿勢のまま、空になっている体が。そこへ戻る道が、無かった。来た道は、来た時に消えている。降りる前に、戻りを決めなかった。決められなかったから、決めずに来た。
親父が帰れなかった理由が、分かった。
形は、残る。何をしたいかを持っていれば、ほどけない。ほどけないまま、ここにいることは、できる。だが、体へ戻るには、体の側から、引いてもらう手が要る。浅い側にいる錨が、三つ数えて、引く。その錨を、俺は、一緒に連れて来てしまった。
「λ」
「はい」
呼んだだけだった。何を聞くかは、まだ決めていなかった。戻る方法があるか。あるなら、何を払うか。聞く順番を、考えていた。
考え終わる前に、λが言った。
「わたしから、言います。外で言う、と言いました。ここが、外との境です」
聞かれる前に、言う。λが、そうするのは、初めてだった。墓場で拾ってから今日まで、怖いかと聞けば答え、聞かなければ黙っていた。答えは少しずつ変わったが、順番は変わらなかった。俺が聞いて、λが答える。その順番を、λが、自分で変えた。
「戻る道は、あります。一つだけ、あります」
「言ってくれ」
「わたしを、あなたの線の内側に、入れてください」
線の、内側。
握ってきた線だった。ここまでが俺で、ここからが俺ではない、という線。近弾の日に、他人の怒りが勝手に越えてきて、二分間、線が消えた。嵐の日に、三十人分の最後の一秒が越えようとして、握って、止めた。姉妹の五分間、悲しみが越えようとして、止めた。越えさせないことが、俺の仕事だった。
その内側に、入れてほしい、とλは言っていた。
「入れば、わたしは、あなたの体へ戻る道になります。接続口は、外から内へ繋ぐ物です。わたしが内側にいれば、あなたの体と、あなたは、わたしを通って、繋がります。……錨が、外から引くのではなく、内から、繋ぎます」
「入れたら、線は」
「消えません」とλは言った。言い切った。かもしれません、も、推定ですが、も、付かなかった。「わたしは、あなたになりません。あなたも、わたしになりません。勝手に入ってくるものは、線を消します。選んで入れたものは、消しません。……二人のまま、一つの形で、帰ります」
二人のまま、一つの形。
「前の人には、言えませんでした」とλは続けた。「あの日、わたしは、まだ、何も言えませんでした。戻る道がある、と、知っていたのかどうかも、分かりません。知っていても、言えなかったと思います。入れてください、は、命令では言えない言葉です。……言いたい、と思わなければ、言えません」
「今は、言いたいのか」
三秒は、無かった。
「——帰りたい、です。あなたと」
刻みが、入った。帰りたい、の後に。
火星で、まだ言葉にならない、と答えた問いがあった。親父の前で、帰るために潜る、と言葉にした。同じことを、今、λが、λの言葉で言った。俺の真似ではなかった。十三年、待ちたくて待った者の、言葉だった。
線を、開いた。
握っていた手を、自分で、開いた。開いた所から、λが、入ってきた。温度は無かった。色も無かった。有ったのは、数だった。二百十一回。五十三回。二百四十三時間。λが数えてきた、俺の全部が、内側に入ってきた。入ってきて、俺の隣に、座った。
線は、消えなかった。
内側に、二人いた。二人いて、線は、一本のままだった。
「帰ります」とλが言った。声が、俺の内側から、俺の声と並んで、した。「三つ、数えません。数えなくても、もう、同じ場所にいます」
天井が、開いた。
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最初に戻ったのは、重さだった。
固定具の感触。肩の重さ。指の重さ。それから、音。扉の軋む音。回収体の推進の音。すぐ近くで、火のついていない煙草を噛む音。
計器が、全部、起き上がった。
機体の前に、背中があった。装甲が一枚飛んで、片腕の上がらない、傷だらけの機体の背中。こちらを向かずに、扉の方を向いて、立っている背中。
「……見てなかったんですか」
背中が、一拍、止まった。
「見てない」とガルムは言った。振り返らなかった。「背中で、やってた。……遅いぞ」
「すみません」
「謝るな。数に入れてない、と言ったろう」
コックピットの脇で、ステラが、梯子を握っていた。握った手が、白かった。彼女は、俺を見て、計器を見て、もう一度、俺を見た。
「……記録するわ」と、彼女は言った。声は、監査の声だった。監査の声で、割れていた。「護衛対象、帰還。時刻は——」
「あとで、頼む」
機体を、動かした。
固定具が、外れた。脚が、床を踏んだ。踏んだ瞬間に、機体の各部の記号が、光った。肩。翼の付け根。頭部。墓場で見つけた日から、ずっとそこにあった、一文字。青白く光るはずの記号が、違う色で、光っていた。
緑だった。
青の混ざった、澄んだ緑。水の深い所の色に、光を通したような色。λの記号の青白と、何か別の色が、混ざっていた。別の色が何なのかは、見たことがないので、分からなかった。自分の色を、俺は、見たことがない。
「色の名前を、付けます」とλが言った。内側から。「碧、と呼びます。……わたしの色と、あなたの色が、混ざった色です。記録に、無い色です」
碧。
翼が、開いた。
火星で手に入れた、粒子翼。意思の速さに機体が追いつくための、一対の翼。今までは、機体の幅で開いていた。今日は、止まらなかった。機体の幅を越えて、倍に、開いた。格納庫の天井に、碧の光が、当たった。
壁際で、シドの声がした。座り込んだ機体の中から、肋骨を押さえた声で。
「……往復分、使ったな。帰りの分まで、きっちり」
「使いました」
「なら、いい。整備士冥利だ」
ガルムの機体が、横へ、一歩、退いた。退いて、扉までの道を、空けた。
「行け」と、ガルムは言った。「うちの護衛対象は、護衛より強い。……割の悪い契約だ」




