第94話_帰るために
『誰も、罰しているわけじゃない。水が高い所から低い所へ流れるのと、同じだ。深く潜るほど、強く引っ張られる。引っ張られた者は、ばらばらになって、世界の向こう側に、散る。散って、戻らない。……四百十六人は、散った』
散った。三番機の橙が、沈んで消えた。三十の空の機体の、三十人が、消えた。散った、という言葉で、全部に説明が付いた。付いてしまった。
「親父は、散らなかった」
『散らなかった。……散らない者が、いるんだ。引っ張られても、ばらばらにならない者が』
「何が違う」
『自分が、何者で、何をしたいかを、持っているかどうかだ』
声は、はっきり言った。
『持っている者は、引っ張られても、ほどけない。形が、残る。体は向こうへ行っても、自分は、残る。……俺は、あの日、お前のところへ帰りたかった。三つのお前が、家で待っていた。帰りたい、が、俺の形だった。形が残ったから、俺は、ここにいる』
三つの俺。
写真を、思い出した。院長から渡された、顔の読めない一枚。三つの時、俺はまだ、あの写真を持っていなかった。持っていなかった頃の俺を、この人は、帰りたい場所として、十三年、形にしていた。
『だが、帰れなかった。形は残ったが、体は向こうへ行った。……ここに、同じような者たちが、他にもいる。昔から、少しずつ。散らなかった者たちだ。みんなで、釣り合いを支えている。世界がこれ以上崩れないように、崩れた分を、ここから押し返している。押し返すのをやめたら、次の大きな消失が来る。百五十年前の、あの街の日のような』
「だから、離れられない」
『そうだ。……お前が危ない時も、行けなかった。何度も、行きたかった。行けたのは、声だけだ。声だけは、お前に届く。血が同じだからだ』
墓場の夜の声。機体の中で、何度か聞いた気がした声。あれは、この人が、支えることをやめずに送ってきた、声だった。
「……四百十六人も、全員、散ったのか」
『全員じゃない。散らなかった者も、いる。少ないがな。……散った者を、ここで、何人も見送った。見送ることしか、できなかった』
見送った。この人も、見送る側だった。谷の出口で、ガルムが見送ったように。空の機体の横で、俺が見送ったように。
「親父。……外は、今、悪い」
『知っている。ここから、感じる。三つの軍が、兵を深く潜らせている。一人ずつ、散っている。散るたびに、釣り合いが崩れて、こっちの押し返す力が、足りなくなってきている』
「次の大きな消失が来るか」
『このままなら、来る。……俺たちだけでは、もう、支えきれない』
温度が、少しだけ、俺の方へ寄った。
『お前を、待っていた理由は、それだ。俺たちは、ここから押し返すことしかできない。外で、潜る者たちを止めることは、できない。外にいて、ここにも来られて、両方で動ける者が、要る。……お前が、それだった』
「俺が」
『お前が、最後の一人だ』
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最後の一人。
言われて、重さが来なかった。来ないことが、不思議だった。世界の釣り合いを、と言われているのに、体のどこも、重くならない。重くならない理由を、探した。
探して、思い出した。
火星の空で、藍の隊長が言った。すり減ると知っていて、潜り続ける理由は。俺は、まだ言葉になっていない、と答えた。彼女は言った。言葉になったら、持って来い。答えは待つ。取り下げる気はない。
あの問いは、ずっと、俺の中にあった。答えられないまま、二年、潜り続けた。すり減って、名前が一瞬出てこなくなって、カレーの味がしなくなって、他人の怒りを二分間、自分の怒りとして怒った。すり減る理由を、俺は、答えないまま払い続けていた。
今、言葉になった。
「消えないために潜ってるんじゃない」と俺は言った。声は、自分の輪郭の内側で鳴った。「帰るために、潜ってる。……帰る場所に、全員いる。ガルムも、シドも、カレンも、ステラも。λも。まだ食べてない約束のカレーも。俺は、あそこへ帰るために、潜る。帰れないところまでは、行かない。行っても、帰る」
言い終わった時、線が、変わった。
握っていた線が、握らなくても、そこにあった。俺の輪郭が、俺の手を借りずに、形を保っていた。名前の列が、周りで揺れても、俺は、揺れなかった。何をしたいかを、言葉にした瞬間に、俺は、ほどけない形になった。
親父の温度が、笑った。
『同じだな』と声は言った。『俺も、帰りたかった。……同じ答えだ。だが、お前は、俺と違って、帰れる』
「なんで分かる」
『お前には、繋がっているものが、ある。俺には、あの日、それが無かった。λとは繋がっていたが、λは、まだ、何も言えなかった。言えない錨は、引っ張られた時に、引き戻す言葉を持っていない。……今のλは、違う』
俺は、隣を見た。見る、という言い方は正しくなかった。隣にいるλの方へ、意識を向けた。
λは、黙っていた。
黙って、ここまで、一言も口を挟まなかった。父の話を、聞いていた。
「λ」
「はい」
「何か、言うことがあるか」
三秒。
答えの出ない三秒を、λは、いつもより長く使った。長く使って、それから、言った。
「あります」と、λは言った。「……ここでは、言いません。外で、言います。外で言うべきことだと、判断しています」
外で。
『それでいい』と親父の声が言った。『λ。……十三年、よく待った』
「待つのは、命令でした」とλは言った。「次の共鳴者を、待て、と。……命令でしたが、途中から、命令ではなくなりました。待ちたくて、待ちました」
親父の温度が、長い間、黙っていた。
『……帰れ、燈』と声は言った。『それを持って。帰る場所の話を、持って。外で、お前を呼んでる奴らがいる。俺には、聞こえる』
「親父は」
『ここにいる。支えている。……お前が外で動けば、こっちが少し楽になる。楽になったら、また声を送る。それで、足りる』
足りる、と親父は言った。足りない、と俺は思った。思ったまま、言わなかった。言えば、この人の十三年を、足りなかったと言うことになる。
「また、来る」
『来なくていい。……来る時は、全部終わった時にしろ』
温度が、少しずつ、遠くなった。遠くなりながら、最後にもう一度、声がした。
『——燈』
墓場の夜と、同じ呼び方だった。同じ呼び方で、違う意味だった。あの夜は、見つけた、という意味だった。今夜は、行ってこい、という意味だった。
「λ。帰り道は」
「分かりません」とλは言った。「来た道は、ありません。……でも、帰る場所の方向は、分かります。あなたが、さっき、言いました。全員いる、と。全員の方へ、行きます」
外で、何かが起きていた。遠い、上の方で。列の向こう、名前の向こう、四の底の、さらに上。誰かが、撃っていた。誰かが、撃たれていた。聞こえるはずのない音が、線の外側から、微かに、届いていた。
帰る場所で、戦いが始まっていた。




