人間の耳に聞こえない世界
「それじゃあ、今日は大学の研究室を使いましょうか」
徹からそう提案されたのは、異世界の存在について話し合った翌日のことだった。
「研究室?」
「ああ。俺の家には実験に使える機材なんてないからな」
俺が答えると、徹が頷いた。
「大学なら、音の測定に使える機材があります。もちろん、勝手に使うわけにはいきませんから、担当の先生に許可をいただいておきますね」
「助かるよ。やっぱり専門の設備があるのは心強いな」
「いえ。僕も皆さんと一緒に研究できるのは楽しみですから」
こうして俺たちは、徹の案内で大学の研究室へ向かうことになった。
◇◇◇
「ここが僕の使っている研究室です」
徹に案内された部屋には、見慣れない測定機器や電子部品が並んでいた。
机の上にはパソコンが置かれ、その横には大きな画面を備えた測定器がある。
俺は思わず、その測定器に近づいた。
「おおっ! これがオシロスコープか!」
画面には何も表示されていないが、たくさんのボタンやつまみが並んでいる。
仕事で使ったことがあるので、懐かしさもあって、つい手を伸ばした。
「知也、ちょっと待ってください」
「ん?」
「それ、高性能で二百万超えるから、壊したらよろしくね」
「えっ!?」
俺は慌てて手を引っ込めた。
「ちょっと、知也! 勝手に触っちゃ駄目でしょ!」
京子が呆れた顔で言う。
「知也さん、気をつけてくださいね」
佳苗も心配そうに声をかけてきた。
「相変わらずでござるな」
健三まで笑っている。
「いや、まだ触ってないだろ!」
「ふふっ。大丈夫ですよ。まだ一度も壊れていませんから」
徹が微笑みながら言った。
「それなら最初から脅かすなよ!」
俺たちのやり取りを見て、徹は楽しそうに笑っていた。
「さて、今日は音について実験してみましょう」
徹がパソコンの前に座り、準備を始めた。
「音?」
「はい。人間の耳には聞こえる音と、聞こえない音があります。今日は、それを実際に確かめてみたいんです」
「なるほど。耳で聞こえないものでも、測定器なら確認できるということか」
「そういうことです」
徹は準備を進めながら説明した。
「まずは、普段耳にしている音から始めましょう」
「では、ラジオの音声を使ってみます」
徹がラジオの電源を入れると、ニュース番組のアナウンサーの声が流れ始めた。
「この音声をパソコンに取り込みます。音声出力を専用の機器につないで、解析ソフトで表示させるんです」
しばらくすると、パソコンの画面にグラフが現れた。
横方向には周波数、縦方向には音の成分の強さが表示されている。
「おおっ! これが音の周波数か?」
「正確には、音声に含まれている周波数成分を表示したものです」
徹が画面を指さした。
「人間の声は、ひとつの周波数だけでできているわけではありません。いくつもの周波数成分が重なり合っています。それらの組み合わせによって、声の高さや音色が変わるんです」
「同じ言葉でも、人によって声が違うのはそのためか?」
「それも理由のひとつですね。声帯の振動や声道の形など、いろいろな要素が関係しています」
京子が画面を覗き込んだ。
「じゃあ、この山みたいになっている部分が、それぞれ違う音の成分なの?」
「そうです。声の高さに関係する成分や、その音色を特徴づける成分などがあります」
「なるほど。音を耳で聞くだけじゃなくて、こうして目で見ることもできるんだね」
佳苗が感心したように言った。
「そうですね。ただし、今見ているのは周波数ごとの強さです。時間とともに音がどう変化しているかを見るには、別の表示方法を使います」
徹はそう言って、オシロスコープの画面を表示させた。
そこには、細かく上下する波形が映し出されていた。
「こちらは時間と電圧の関係を表した波形です。音声信号を電気信号に変換して、その変化を見ています」
「さっきのグラフとは違うんだな」
「はい。オシロスコープでは、基本的に時間に対する電圧の変化を観測します。周波数成分を詳しく調べる場合は、FFTなどの解析機能や専用のソフトを使います」
「同じ音でも、見る方法によって違う情報が得られるわけか」
「その通りです」
俺は二つの画面を見比べた。
耳で聞いていたアナウンサーの声が、目の前では波形やグラフになっている。
普段は意識することもない音の中に、これほど多くの情報が含まれていたのか。
「面白いな……」
思わず声が漏れた。
「耳で聞くだけではなく、声も人によって出せる音域が違うもんな」
俺がそう言うと、京子がニヤリと笑った。
「知也、ちょっと歌ってみなさいよ!」
「なんでだよ!」
「ふふふ。知也さん、音痴だもんね」
佳苗まで笑いながら言った。
「音痴ではない! ちょっと個性的なだけだ」
「はいはい、下らないことを言ってないで、ちゃんと説明聞きなさい」
京子に一蹴され、俺は渋々パソコンの画面に目を戻した。
「ちなみに、声の高さには基本周波数が関係しています。人によって出せる声の高さや音域にも違いがあります。ただ、声の高さと声の音色は別の要素です」
徹が補足してくれた。
「つまり、俺の歌声が個性的なのも、科学的に説明できるということだな」
「そういう話ではありません」
徹が苦笑する。
「知也、都合よく解釈しないの!」
京子の声が研究室に響いた。
「それでは、次の実験に移りましょう」
徹が別の機材を準備し始めた。
「今度は、実際に人間の耳で聞こえる音の範囲を調べます」
「健康診断でやる聴力検査みたいなものか?」
「そうです。周波数を変えながら音を流して、聞こえたら合図をしてもらいます」
徹がヘッドホンを用意した。
「ただし、これは医療機関で行う正式な聴力検査ではありません。実験用の機材を使って、聞こえ方の違いを確認するものです」
「なるほど。で、誰がやるんだ?」
徹がみんなを見回した。
俺は胸を張って一歩前に出た。
「それはリーダーである俺がやるしかないだろ」
「はいはい、好きにしたら?」
京子があっさり答える。
「知也さん、頑張って」
佳苗が笑顔で応援してくれた。
「拙者は誰でもいいでござる」
健三は腕を組んで、のんびりとした様子だ。
「……リーダーなんだ……けどな」
思わず小さくつぶやいてしまった。
すると、佳苗がもう一度声をかけてくれた。
「知也リーダー、頑張って」
「おおっ! 俺に任せとけ。わっはっはー」
「ったく、よくやるわ」
京子が呆れたようにため息をつく。
「ぷっ、面白すぎでござる」
健三は笑いをこらえきれない様子だった。
徹は何も言わず、そんな俺たちを見ながら微笑んでいた。
「よし! いつでも来い!」
俺はヘッドホンを装着した。
「では、始めますね」
徹が機材を操作する。
最初は低めの音だった。
「聞こえますか?」
「聞こえるぞ」
俺は手を挙げた。
その後、徹は少しずつ周波数を変えていった。
音の高さが変わるたびに、俺は聞こえたことを合図で伝える。
最初は余裕だった。
しかし、周波数が高くなるにつれて、音は次第に聞き取りにくくなっていった。
「……今のは聞こえたか?」
「どうですか?」
「いや、微妙だな。もう一度頼む」
徹が同じ条件で確認する。
今度は、かすかに音を感じた。
「聞こえた!」
さらに周波数が上がる。
今度は、何も感じなかった。
「……聞こえない」
徹は測定結果を記録した。
「ありがとうございます。では、次の人に交代しましょう」
ヘッドホンを外すと、京子が興味深そうに聞いてきた。
「どうだった?」
「思ったより難しいな。聞こえるか聞こえないか、判断に迷うところもあった」
「人によって聞こえる範囲は違いますからね。年齢や個人差もありますし、音を出す機材や測定環境によっても結果は変わります」
「それじゃあ、私もやってみたい」
京子が手を挙げた。
「私もお願いします」
佳苗も続く。
「拙者も参加するでござる」
健三がヘッドホンを受け取ろうとした、そのときだった。
「ルルリちゃんの愛情が伝わらないのは、他の人に聞こえない周波数かもしれませぬぞ」
「それは気のせいだから!」
京子が即座に突っ込んだ。
「いや、しかし……」
「健三さん、真面目に実験しましょうね」
佳苗が穏やかな笑顔でたしなめる。
「は、はい!」
健三は背筋を伸ばし、素直に返事をした。
「佳苗がリーダーみたいだな」
俺がそう言うと、京子が小さく笑った。
「知也より向いてるかもね」
「おい!」
俺の抗議をよそに、健三はヘッドホンを装着した。
結局、全員が順番に検査を受けることになった。
結果を並べてみると、聞こえ方にはそれぞれ違いがあった。
「同じ音を流しているのに、聞こえる人と聞こえない人がいるんだね」
佳苗が記録を見ながら言った。
「そうですね。人間の耳には、それぞれ聞き取れる範囲があります。一般的には約二十ヘルツから二万ヘルツ程度と言われていますが、誰もがその範囲を聞き取れるわけではありません」
「つまり、人間の耳だけを頼りにしていたら、存在に気づけない音もあるということか」
俺が言うと、徹は頷いた。
「その通りです。では、最後にもうひとつ確認してみましょう」
徹が別の機材を用意した。
「今度は、人間の耳では聞き取れない超音波を扱います。通常のスピーカーやマイクでは対応できないので、専用の超音波用センサーを使います」
「超音波って、コウモリが使っている音でござるか?」
健三が尋ねた。
「そうですね。コウモリは超音波を発して、その反射を利用して周囲の状況を把握しています」
「人間には聞こえない音を使って、周りを調べているということか」
「はい。人間の感覚だけでは捉えられない情報を、別の仕組みで受け取っているんです」
徹が測定器を操作すると、画面に信号が表示された。
「これが超音波の信号です。人間の耳では聞こえませんが、対応した機材を使えば、こうして確認できます」
俺たちは画面を見つめた。
確かに、音は聞こえない。
それでも、測定器にははっきりと信号が現れている。
「すごいな……。聞こえないからといって、そこに何もないとは限らないんだ」
俺の言葉に、徹が静かに頷いた。
「ええ。ただし、今回の実験で異世界の存在が証明されたわけではありません。確認できたのは、人間の感覚には限界があり、適切な機材を使えば、その限界の外にある現象も観測できるということです」
「分かっているよ。でも、これは大きな発見だと思う」
「僕もそう思います」
俺は、もう一度画面を見た。
人間の目や耳に捉えられないものが、この世界には確かに存在している。
それを観測するために、科学は発展してきたのだろう。
ならば、俺たちがまだ知らない世界についても、同じように考えられるのではないだろうか。
「なあ、徹」
「はい?」
「さっきのラジオの音声解析なんだけどさ」
「何でしょう?」
「画面には、いろんな周波数の成分が表示されていたよな?」
「そうですね」
「その中から、本当に必要な信号だけを取り出すことはできないのか?」
徹は少し考えてから答えた。
「できますよ。ただし、必要な信号と不要なノイズを区別する必要があります」
「ノイズ……か」
「ええ。信号の中には、目的とは関係のない成分が混ざることがあります。それをどう見分けるかが重要なんです」
俺は画面を見つめた。
人間の耳には聞こえない音を測定できることは分かった。
だが、測定器に現れたものが、すべて意味のある信号とは限らない。
本当に必要な情報を見つけ出すには、まだ調べなければならないことがある。
「よし。次は、そのノイズについて調べてみよう」
俺の言葉に、徹が笑顔で頷いた。
「いいですね。次は信号とノイズの関係を調べてみましょう」
俺たちの研究は、またひとつ新しい段階へ進もうとしていた。
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