黒川の影
「おい、みんな! しっかりしろよ!」
店主の運転するワゴン車の中で、俺は後部座席を振り返った。
全員、疲れ切った様子だった。
神社での一件から、まだそれほど時間は経っていない。
あの地下室で水に飲み込まれそうになり、脱出したと思ったら、今度は松明を持った連中に囲まれた。
思い返すだけでも背筋が寒くなる。
「知也、大丈夫よ。ちょっと疲れただけだから」
京子はそう言ったが、顔色はまだ良くない。
佳苗も黙ったまま、窓の外を眺めていた。
健三はいつものように落ち着いているように見えるが、膝の上に置いた手には力が入っている。
「もう少しで店に着くからな。そこでゆっくり休んでいき」
運転席の店主が、バックミラー越しに俺たちを見た。
「すみません。助かります」
「なあに、困ったときはお互い様や。それに、あんたらの話を聞いたら、放っとけんようになってな」
店主の言葉に、俺は小さく頭を下げた。
◇◇◇
店に着くと、店主は俺たちを奥の休憩スペースへ案内してくれた。
「とりあえず、これ使い。濡れたままやったら風邪ひくで」
タオルを渡され、俺たちは濡れた髪や服を拭いた。
店主は着替えまで用意してくれた。サイズは多少合わなかったが、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
しばらくして、温かいお茶が運ばれてきた。
湯飲みを両手で包むと、ようやく身体の緊張が少しずつ解けていく。
「ふう……。やっと落ち着いたな」
俺が息を吐くと、京子が湯飲みを置いた。
「それにしても、あの人たちは何者なのかしら」
「黒川という老人と関係があるのは間違いなさそうでござるな」
健三が腕を組む。
「俺たちを地下室に閉じ込めたのも、あの黒川って老人なんだろうな」
「でも、どうしてそんなことをしたんでしょうか……」
佳苗が不安そうに俺を見た。
「それは、まだ分からない。俺たちが見つけた資料に、何か知られたくないことでもあったのかもしれない」
地下室で見た古い資料。
あれは、神隠しについて調べるための重要な手掛かりになるはずだった。
それなのに、俺たちは中身を十分に確認することもできず、命からがら逃げ出すことになった。
「店主さん。少しお話ししてもいいですか?」
俺は店主に声をかけた。
「ああ、ええよ。何でも聞いてや」
俺は神社で起きたことを順番に話した。
黒川という老人に案内されて地下室へ入ったこと。
その部屋に閉じ込められ、水が流れ込んできたこと。
そして、脱出した直後に松明を持った集団に囲まれ、追いかけられたこと。
店主は黙って聞いていた。
しかし、黒川の名前を出したところで、その表情がわずかに変わった。
「……黒川?」
「はい。黒川和夫という名前でした」
店主は湯飲みを置き、少し考え込むように目を伏せた。
「そうか……。あんたら、黒川に会うたんか」
「何か知っているんですか?」
京子が尋ねる。
「詳しいことは知らん。ただ、子供の頃に祖父から何度も言われたことがあるんや」
店主は遠くを見るような目をした。
「黒川には関わるな、ってな」
「黒川には関わるな……?」
俺は思わず聞き返した。
「ああ。理由を聞いても、祖父は何も教えてくれへんかった。とにかく関わるな、そればっかりや」
「それで、店主さんも黒川という人物とは接触しなかったんですか?」
佳苗が尋ねた。
「そうや。祖父があれほど念を押すんやから、何かあるんやろうと思ってな。わざわざ近づこうとはせえへんかった」
店主は小さく首を振った。
「せやから、黒川がどんな人物なんか、何をしてるんかは知らん。祖父も亡くなってしもうたし、今となっては聞くこともできへんわ」
「そうですか……」
俺たちは顔を見合わせた。
黒川という名前。
そして、祖父が残したという警告。
偶然にしては、気になる話だった。
「店主さん、ありがとうございます。とても参考になりました」
「いや、何も分からんで悪いな」
「いえ。十分です」
俺はそう答えながら、頭の中で情報を整理していた。
黒川は、少なくとも昔からこの地域で警戒されていた人物なのかもしれない。
だが、店主もその理由を知らない。
これ以上、ここで話を聞いても新しい情報は出てこなさそうだった。
「とにかく、警察に行きましょう」
京子がきっぱりと言った。
「このままにはしておけないわ」
「そうだな。俺たちがされたことは、明らかに犯罪だ」
俺も同意した。
「警察に話せば、何か調べてもらえるかもしれませぬな」
健三も頷いた。
「私も、その方がいいと思います」
佳苗も賛成した。
店主は少し心配そうな顔をした。
「警察に行くんか。ほな、俺が車で送っていったるわ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「気にせんでええ。ここからやったら車ですぐや」
店主はそう言って立ち上がった。
◇◇◇
警察署に到着すると、店主は入口の前で車を止めた。
「俺は店に戻るわ。何かあったら連絡してな」
「本当にありがとうございました」
俺たちは全員で頭を下げた。
店主は軽く手を振ると、そのまま車を走らせていった。
俺たちは警察署の入口を見上げた。
正直、警察に行けばすぐに解決するとは思っていない。
それでも、何もしないわけにはいかなかった。
「行こう」
俺の言葉に、三人が頷いた。
受付で事情を説明すると、担当の刑事が対応してくれることになった。
案内された部屋で待っていると、やがて一人の刑事が入ってきた。
年齢は四十代くらいだろうか。
落ち着いた様子で椅子に座ると、手元の書類を開いた。
「それでは、詳しい話を聞かせてください」
俺たちは神社で起きた出来事を説明した。
黒川和夫という老人に案内されたこと。
地下室に閉じ込められたこと。
水が流れ込んできたこと。
そして、脱出後に複数の人物に囲まれ、追いかけられたこと。
刑事は時折メモを取りながら、俺たちの話を聞いていた。
「なるほど……。それで、その黒川という人物に案内されて地下室へ入ったわけですね」
「はい。黒川和夫と名乗っていました」
「その場所は、どのあたりにある神社ですか?」
俺たちは神社の場所を説明した。
刑事は手元の書類に何かを書き込んでいる。
「地下室に閉じ込められたということですが、証拠になるものはありますか?」
その質問に、俺たちは言葉を詰まらせた。
写真もない。
映像もない。
地下室にあった資料も、追いかけてきた連中の姿も、何ひとつ記録していなかった。
「……ありません」
俺が答えると、刑事は少し困ったような表情を浮かべた。
「目撃者や、ほかにその場にいた人物は?」
「黒川という老人と、俺たちを追いかけてきた人たちがいました。でも、名前も顔も分かりません」
「そうですか……」
刑事はペンを置いた。
「その時間、黒川という人物は私と一緒にいましたよ」
「……え?」
思わず聞き返した。
今、何と言った?
「その時間、黒川という人物は私と一緒にいたんです。ですから、あなた方の話とは食い違いがありますね」
「ちょっと待ってください!」
京子が身を乗り出した。
「私たちは実際にその人に案内されたんです。間違えるはずがありません!」
「落ち着いてください。私は事実を確認しているだけです」
「でも、そんなはずないじゃないですか!」
京子の声に力がこもる。
俺も納得できなかった。
黒川は確かに俺たちの前にいた。
地下室まで案内し、俺たちを閉じ込めた張本人だ。
それなのに、この刑事は黒川が別の場所にいたと言い切った。
「刑事さん。何かの間違いじゃありませんか? 黒川という老人は、確かに俺たちと一緒にいました」
「そう言われましても、こちらにも確認した事実があります」
刑事は淡々と答えた。
「その時間、黒川という人物は別の場所にいたということです」
「だったら、俺たちが会ったのは誰だっていうんですか?」
「それは私には分かりません」
刑事は小さく息を吐いた。
「証拠もない状態で、そのような話をされても困ります。イタズラはやめてもらえませんか」
その言葉に、俺の中で何かが切れそうになった。
「イタズラだって……?」
「これ以上、こちらで対応できることはありません。お帰りください」
刑事は書類を閉じた。
京子はまだ何か言いたそうだったが、佳苗がそっと袖を引いた。
「京子さん……」
「……分かったわよ」
京子は悔しそうに唇を噛んだ。
俺たちはこれ以上何も言えず、部屋を出るしかなかった。
◇◇◇
警察署を出た瞬間、京子が大きく息を吐いた。
「何なのよ、あの刑事!」
怒りを隠そうともせず、京子は声を荒らげた。
「私たちが嘘をついているとでも思っているのかしら!」
「落ち着くでござる、京子殿」
「健三は悔しくないの?」
「もちろん悔しいでござる。しかし、証拠がない以上、今はどうにもできませぬ」
健三の言うことは正しかった。
俺たちには何もない。
地下室の写真も、黒川の姿を撮影した映像も、追跡者たちの証拠もない。
あるのは、俺たち四人が実際に体験した出来事だけだ。
「でも、あの刑事さんの言い方は気になりました」
佳苗が静かに口を開いた。
「黒川という人物が別の場所にいたって、ずいぶんはっきり言っていましたよね」
「そうだな」
俺もそこが引っかかっていた。
黒川という人物が俺たちを地下室に閉じ込めたことは間違いない。
それなのに、刑事はその時間、黒川が自分と一緒にいたと言い切った。
普通なら、まず詳しく話を聞こうとするんじゃないだろうか。
それを、最初から俺たちの話を否定するような態度だった。
「何か裏があるのかもしれませぬな」
健三が低い声で言った。
「黒川という老人が、何かを隠している可能性は高いでござる」
「でも、今の段階では何も分からないわね」
京子は腕を組んだ。
「あの刑事が黒川とつながっているかどうかも、分からないし」
「そうだな。疑うだけならいくらでもできる。でも、証拠がない以上、決めつけるわけにはいかない」
俺はそう答えた。
ただ、胸の奥に嫌な感覚が残っていた。
あの刑事の態度。
黒川の名前を聞いたときの店主の反応。
そして、神社で俺たちを待ち構えていた集団。
それぞれが別々の出来事とは思えなかった。
「どうするの、知也?」
京子が俺を見た。
俺は少し考えてから答えた。
「神戸での調査は、いったんここまでにしよう」
「えっ……。もう帰るんですか?」
佳苗が少し驚いた表情を見せた。
「今の状態で調査を続けても、また危険な目に遭うかもしれない。それに、俺たちには整理しなきゃいけない情報が山ほどある」
「確かに、ここで無理をする必要はありませぬな」
健三も頷いた。
「東京に戻って、今回の出来事と手に入れた情報を整理しよう。次にどう動くかは、それから考えればいい」
京子は少し考えたあと、静かに頷いた。
「分かったわ。悔しいけど、今は仕方ないわね」
佳苗も小さく頷く。
「私も賛成です。みんなが無事でいることが一番ですから」
俺は三人の顔を見た。
今回の神戸での調査は、決して無駄ではなかった。
百年前と五十年前の神隠し事件。
帰宅途中に姿を消した人々。
そして、黒川和夫という謎の老人。
新しい手掛かりは得られた。
だが、それと同時に、俺たちは何か大きなものに触れてしまったのかもしれない。
黒川は何者なのか。
地下室にあった資料には何が書かれていたのか。
あの追跡者たちは、いったい誰の指示で動いていたのか。
そして、なぜ刑事は黒川が別の場所にいたと言い切ったのか。
分からないことばかりだった。
それでも、ここで諦めるつもりはない。
「ここで終わりにはしない。東京に戻って、もう一度作戦を練り直そう」
俺の言葉に、三人は力強く頷いた。
神戸での調査は、ひとまず終了だ。
だが、神隠しの謎を追うことをやめたわけじゃない。
むしろ、ここからが本当の始まりなのかもしれない。
俺たちは東京へ戻ることにした。
黒川和夫という老人の影を、背負ったまま。
面白いと思って頂けましたら、下の☆マークから評価・リアクション登録などをお願い致します!




