追跡者たち
「囲まれてるわ!」
京子の声が、静かな神社の境内に響いた。
俺たちが地下室から脱出して、ようやく地上に戻った直後だった。
境内の周囲には、いつの間にか何人もの人影が立っていた。
その手には、赤々と燃える篝火が握られている。
揺れる炎が、木々や石灯籠を不気味に照らし出していた。
人影は黙ったまま、少しずつ俺たちとの距離を詰めてくる。
「なんと……これは無理かもしれませぬぞ」
健三が周囲を見回しながら、珍しく弱気な声を漏らした。
「知也さん……」
佳苗が不安そうに俺の袖をつかむ。
京子も表情を強張らせていた。
地下室から脱出できたと思ったら、今度は地上で待ち伏せか。
いったい、黒川は何を考えているんだ。
俺たちを閉じ込めただけでは飽き足らず、今度は全員で捕まえるつもりなのか。
「くっ……俺に任せろ。みんな、いくぞ!!」
俺はリュックの中に手を入れた。
取り出したのは、念のために用意していた発煙筒だった。
こういう調査では、万が一の事態も考えておく必要がある。まさか本当に使うことになるとは思っていなかったが、今はこれに賭けるしかない。
「知也、何をする気?」
京子が尋ねる。
「逃げ道を作る。目を閉じて、俺の合図で走れ!」
俺は発煙筒を足元から少し離れた場所へ投げた。
直後、白い煙が勢いよく広がり始めた。
「うわっ、何だこれは!」
「前が見えないぞ!」
篝火を持った男たちの声が聞こえる。
煙は風に流されながら境内を覆い、相手の姿を見えにくくしていった。
「今だ! 走れ!」
俺たちは煙の中を駆け出した。
どちらへ進めばいいのか、正確には分からない。
それでも、立ち止まっているわけにはいかなかった。
背後から怒声が聞こえてくる。
「逃がすな! 追え!」
やはり、あの連中は俺たちを追ってくるつもりだ。
俺は先頭を走りながら、時折後ろを振り返った。
京子と佳苗は、必死に俺についてきている。
健三も遅れずに走っていた。
「みんな、離れるなよ!」
「分かってるわよ!」
京子が息を切らしながら答える。
「知也さん、道はこの先で合っていますか?」
佳苗の問いに、俺は前方を見た。
「たぶん、さっき通ってきた道につながっているはずだ!」
確信はなかった。
だが、今は進むしかない。
◇◇◇
神社の敷地を抜け、木々の間に続く細い道を走る。
足元は暗く、ところどころに木の根や石が飛び出していた。
何度も転びそうになりながら、俺たちは必死に坂道を下っていく。
背後からは、追いかけてくる足音が聞こえていた。
発煙筒の煙で時間は稼げたはずだ。
しかし、いつまでも相手の目をくらませておくことはできない。
「はあっ、はあっ……もう、少し休ませて……」
京子が苦しそうに声を漏らす。
「京子、大丈夫か?」
「大丈夫じゃないわよ! 地下室で水浸しになったばかりなのに、今度は山道を全力疾走なんて!」
「文句は後で聞く! 今は走るんだ!」
「分かってるわよ!」
佳苗もかなり疲れているようだった。
それでも、俺たちから離れないように懸命に足を動かしている。
「佳苗、無理するなよ!」
「はい。でも、まだ大丈夫です!」
そのときだった。
「むっ……!」
後ろから走っていた健三が、突然足を止めた。
「どうした、健三!」
「ま、待たれよ!」
健三は来た道を振り返っていた。
「拙者のハンカチが……!」
見ると、健三の手にあったはずのハンカチがなくなっている。
どうやら、走っている途中で落としてしまったらしい。
健三は、すぐに来た道を戻ろうとした。
「おい、健三! 何をしている!」
「ハンカチを落としたのでござる! あれは大切な品なのでござるよ!」
「戻るな!」
俺は健三の腕をつかんだ。
「しかし、あれを置いていくわけには……!」
「今はそんなことを言っている場合じゃない! 命のほうが大切だろ!」
「うっ……!」
健三は悔しそうに唇をかんだ。
その目には、明らかに未練が残っていた。
「健三、諦めなさい!」
京子も振り返って声をかける。
「分かっているでござる……」
健三はようやくうなずいた。
それでも、何度も何度も後ろを振り返っている。
その表情は、まるで長年連れ添った相棒と別れるかのようだった。
いったい、どれほど大切なハンカチなんだ。
今は聞いている余裕もない。
「行くぞ!」
俺たちは再び走り出した。
健三は最後まで後ろを気にしていたが、やがて諦めたように前を向いた。
◇◇◇
どれくらい走っただろう。
木々の間を抜けると、ようやく視界が開けた。
その先には、車が行き交う国道が見えた。
「やった……! 国道だ!」
俺は思わず声を上げた。
神社からかなり離れられたはずだ。
しかし、喜んでいる場合ではなかった。
全員、体力の限界に近づいていた。
京子は肩で息をし、佳苗も膝に手をついて呼吸を整えている。
健三も、さすがにいつもの余裕はない。
「はあ……はあ……何とか、ここまで来られたでござるな」
「ああ。でも、まだ安心するな」
俺は後ろを振り返った。
暗い道の向こうに、かすかな明かりが見えた。
篝火だ。
「うそ……。まだ追ってきてるの?」
京子の顔が青ざめる。
「どうやら、諦めていないらしいな」
煙の効果も、もう長くは続かなかったようだ。
「知也さん、どうしましょう……」
佳苗の声には疲労と不安がにじんでいた。
俺は国道を見渡した。
車は何台か通り過ぎていくが、止まってくれる様子はない。
このままでは、追いつかれる。
せっかく地下室から脱出したのに、ここで捕まるわけにはいかない。
「誰か……!」
俺が助けを求めようとした、そのときだった。
「おーい! あんたら!」
聞き覚えのある声がした。
国道の向こうから、一台のワゴン車が近づいてくる。
車は俺たちのそばで速度を落とし、やがて停車した。
運転席の窓が開く。
「あれ? あんたら、この前うちに来たお客さんやないか!」
運転していたのは、神戸に来た初日に訪れたお好み焼き屋の店主だった。
「店主さん!」
俺は思わず声を上げた。
「どうしたんや、そんな格好して。みんなびしょ濡れやないか!」
店主は俺たちの様子を見て、驚いた表情を浮かべた。
確かに、地下室で水を浴びたうえに、ここまで走ってきたのだ。
服は濡れたまま、髪も乱れ、全員が泥だらけだった。
「詳しい話は後でします! お願いです、乗せてください!」
俺が頼むと、店主はすぐに後部座席のドアを開けた。
「ええから、早よ乗り! 何があったか知らんけど、こんなところで立ち往生してたら危ないで!」
「ありがとうございます!」
京子、佳苗、健三の順に乗り込み、俺も最後に車へ飛び込んだ。
「全員乗ったな?」
「はい!」
店主はすぐに車を発進させた。
その直後、俺は後方の窓から道路の先を見た。
暗い道から、篝火を持った人影が現れた。
こちらに気づいたのか、何人かが走り出す。
「おいおい……。あの人ら、何や?」
店主もバックミラー越しに後方を確認していた。
「店主さん、今はとにかく走ってください!」
「ああ、分かった!」
ワゴン車は速度を上げ、国道を走り去っていく。
篝火の明かりは、少しずつ遠ざかっていった。
やがて、後方の暗闇に消えていく。
ようやく追跡を振り切れたのだろうか。
俺はシートに深く身を預けた。
「助かった……」
京子も大きく息を吐いた。
「本当に、もう駄目かと思ったわ」
佳苗は胸に手を当て、何度も深呼吸をしている。
健三も疲れ切った様子で座席に背中を預けていた。
「皆の無事が何よりでござる……」
「ところで、あんたら。本当に何があったんや?」
運転席から店主の声が聞こえた。
俺はすぐに答えられなかった。
地下室に閉じ込められたこと。
水を流し込まれたこと。
脱出した直後に、篝火を持った連中に囲まれたこと。
どこまで話していいのか、判断がつかなかった。
そもそも、あの連中は何者なのだろう。
黒川は、いったい何を隠しているのか。
俺たちは、神隠しの謎を調べに来ただけだった。
それなのに、いつの間にか命を狙われるような事態に巻き込まれている。
「店主さん……。実は、少し厄介なことに巻き込まれまして」
俺は慎重に言葉を選んだ。
「厄介なこと、か。まあ、話したくないこともあるやろう。今はゆっくり休み」
店主は、それ以上深く尋ねなかった。
「ひとまず、うちの店まで連れて行ったる。あそこなら落ち着いて話もできるやろ」
「ありがとうございます。本当に助かります」
俺は頭を下げた。
ワゴン車は夜の国道を走り続ける。
ようやく危機を脱した。
だが、俺の胸の中には、まだ消えない疑問が残っていた。
黒川はなぜ俺たちを地下室に閉じ込めたのか。
あの篝火を持った連中は、いったい何者なのか。
そして、俺たちが調べている神隠しの事件と、今回の出来事には関係があるのだろうか。
窓の外を流れていく街灯を眺めながら、俺は考え続けていた。
この神戸で起きていることは、俺たちが想像していた以上に根深いものなのかもしれない。
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