量子力学と並行世界
「それで、何から説明すればいいのかな?」
徹はテーブルに置かれた飲み物に手を伸ばしながら、俺たちの顔を見回した。
「まずは量子力学について教えてほしい。異世界や並行世界と、どう関係しているのか知りたいんだ」
俺がそう答えると、徹は少し考えるように視線を上げた。
「なるほど。いきなり並行世界の話に入るより、まずは量子力学の基本から説明した方がよさそうだね」
「拙者も賛成でござる。基礎を知らずして応用を理解することは難しいでござるからな」
健三が腕を組みながら、もっともらしく頷いた。
「それじゃあ、まずは量子力学とは何なのか、というところから始めようか」
徹はそう言うと、俺たちの方へ少し身を乗り出した。
「量子力学というのは、原子や電子、光子といった非常に小さな世界の振る舞いを研究する物理学なんだ。僕たちが普段生活している世界とは、かなり違った法則で動いているんだよ」
「普段の世界と違う?」
京子が不思議そうに聞き返した。
「例えば、ボールを投げたとするよね。どこから投げて、どれくらいの力を加えたのかが分かれば、そのボールがどこへ飛んでいくのか、ある程度予測できる」
「それは分かるわ」
佳苗が頷いた。
「でも、電子のような非常に小さな粒子の世界では、そう簡単にはいかないんだ。粒子の位置や運動量などを、僕たちが日常で考えるような意味で同時に正確に決めることはできない。そこには量子力学特有の不思議な性質があるんだよ」
「なんだか難しそうだな……」
俺が思わず呟くと、徹は笑った。
「最初はそう感じると思う。でも、面白い現象もたくさんあるんだ。その一つが、量子の重ね合わせという考え方だよ」
「重ね合わせ?」
健三が反応した。
「そう。簡単に言えば、量子の状態を一つに決めつけられず、複数の可能性を重ね合わせた状態として表すことがあるんだ」
「複数の可能性が同時に存在するということか?」
「そういう理解でいいよ。ただし、単に僕たちが知らないだけという話とは違うんだ」
徹は少し間を置いてから続けた。
「この重ね合わせを説明するときによく使われるのが、シュレーディンガーの猫という有名な思考実験なんだ」
「猫?」
京子が首を傾げた。
「そうです。オーストリアの物理学者、エルヴィン・シュレーディンガーが考えたものです」
徹は、俺たちが理解できるように、ゆっくりと説明を始めた。
「ある箱の中に猫を一匹入れる。そして、その箱の中には、放射性物質と、それが崩壊したことを検知すると毒ガスが発生する装置があるとします」
「うわっ、物騒な話ね」
佳苗が少し顔をしかめた。
「もちろん、これは実際に猫を使って実験する話ではありません。あくまで思考実験です」
徹は苦笑しながら続けた。
「放射性物質が一定時間内に崩壊するかどうかは、量子力学的な確率で表されます。この仕組みを箱の中の猫と結びつけて考えると、箱を開ける前の猫の状態を、生きている状態と死んでいる状態の重ね合わせとして扱うことになります。これがシュレーディンガーの猫という話です」
「つまり、猫が生きているか死んでいるか、両方の可能性が重なっているということ?」
京子が尋ねた。
「そうです。ただし、単に僕たちが箱の中を見ていないから、どちらか分からないという話ではありません。量子力学の重ね合わせを、僕たちが普段経験する大きな世界に当てはめると、どんな不思議な問題が生まれるのかを示したものなんです」
「なるほど……。小さな世界の法則を、そのまま猫のような大きなものに当てはめると、奇妙なことになるわけね」
佳苗が感心したように言った。
箱を開けるまで、猫の状態をどう考えるか……。なんだか不思議な話だ。目に見えない小さな世界では、俺たちの常識が通用しないのか。
「そういうことです。シュレーディンガー自身も、この思考実験を通じて量子力学の解釈に疑問を投げかけたんです」
俺はしばらく考えていたが、ふと思いついた。
「なあ、徹。今の話を京子に例えて説明できないか?」
「えっ? なんで私なの?」
京子が驚いた顔で俺を見る。
「いや、猫より人間に例えた方が分かりやすいかなと思ってさ」
「それ、絶対に面白がってるだけでしょ!」
京子が頬を膨らませた。
徹は少し考えてから、いたずらっぽく笑った。
「そうですね……。じゃあ、例えば京子さんがある部屋に入っているとしましょう」
「私が?」
「はい。その部屋の中で京子さんが何をしているのか、外にいる僕たちには分かりません。例えば、勉強しているかもしれないし、歌を歌っているかもしれません。あるいは、鏡の前で自分の髪型を気にしているかもしれませんね」
「ちょっと! 最後のは余計じゃない?」
京子がすぐさま反応した。
徹は笑いをこらえながら続ける。
「そして、部屋を開けるまでは、僕たちはいろいろな可能性を想像しているわけです」
「なるほど。京子殿の行動は謎に包まれているということでござるな」
健三が真面目な顔で頷いた。
「ふふっ。京子ちゃん、何をしているのかしらね」
佳苗も笑い始めた。
「おいおい、そんな説明でいいのかよ!」
俺も思わず吹き出した。
「ちょっと! みんな笑いすぎ!」
京子は顔を赤くして抗議した。
「ははは。もちろん、これは量子力学の厳密な説明ではありません。あくまでイメージをつかむための例え話ですよ」
徹はそう言って、楽しそうに笑った。
「知也! 後で覚えておいてよ!」
「いや、俺は分かりやすくしようと思っただけだって!」
徹は笑いながら、話を続けた。
「さて、次は並行世界の話をしてみようか」
「並行世界……。いよいよ本題でござるな」
健三が少し前のめりになる。
「並行世界という言葉は、いろいろな意味で使われますが、量子力学と関係するものとして有名なのが、多世界解釈という考え方です」
「多世界解釈?」
「そうです。量子力学では、観測によって一つの結果が得られるように見えますが、その過程をどう理解するかについて、いくつかの解釈があります。その一つが多世界解釈なんです」
徹はテーブルの上に置かれた紙ナプキンを手に取った。
「簡単に説明すると、量子の重ね合わせに含まれる複数の結果が、それぞれ異なる世界として存在するという考え方なんです」
「ということは、俺たちが今ここにいる世界とは別に、違う結果になった世界もあるということか?」
「そういうイメージだね。ただし、多世界解釈は量子力学の一つの解釈であって、並行世界が実際に存在することや、そこへ移動できることが証明されたわけではないよ」
「なるほど……」
俺は思わず息を呑んだ。
もし、本当に別の世界が存在するのなら。
そこには、俺たちとは違う人生を歩んでいる自分がいるのだろうか。
そんな想像が頭の中を駆け巡った。
もし本当にそんな世界が存在するのなら……。俺が今いる世界とは違う人生を歩んでいる自分も、どこかにいるのだろうか?
そのとき、京子が徹に声をかけた。
「ねえ、徹さん。今の並行世界の話、今度は知也を例にして説明してみてください」
「おいおい、今度は俺が例なのかよ! さっき京子を使ったからって、仕返しするなよ!」
俺が抗議すると、京子は楽しそうに笑った。
「だって、さっき私を例えにしたじゃない。今度は知也の番よ」
「そうですね。じゃあ、知也を例にして考えてみようか」
徹は少し考えてから、口元に笑みを浮かべた。
「例えば、ある世界では知也が念願の異世界転移に成功しているとする」
「おおっ!」
俺は思わず身を乗り出した。
「ところが、別の世界では異世界転移に失敗して、今も自宅でパソコンを使って転移方法を調べ続けている」
「おい! それは今の俺とほとんど変わらないじゃないか!」
健三が吹き出した。
「ははは! それは十分にあり得るでござるな!」
佳苗も口元を押さえて笑っている。
「ふふっ。なんだか想像できるわね。知也さんなら、どの世界でも異世界に行きたいって言ってそう」
「ちょっと待て! なんで俺だけそんな扱いなんだよ!」
徹は笑いながら続けた。
「さらに別の世界では、異世界転移に成功したものの、食べ物がおいしすぎて帰ってこなくなった知也がいるかもしれないね」
「それはいいじゃないか!」
思わず反論した俺に、みんなの笑い声が大きくなった。
「知也殿、結局どの世界でも食欲には勝てないということでござるな」
「健三まで何を言ってるんだ!」
「ははは。ごめんごめん。あくまで例え話だよ」
徹は笑いを収めながら言った。
「でも、こうして考えると面白いよね。同じ人物でも、選択や出来事によって違う人生を歩む世界を想像できる」
俺は少し不満そうに頬を膨らませたが、心の中では別のことを考えていた。
もし、本当に別の世界があるのなら。
そこには、俺が夢見ている異世界へ行くことに成功した自分がいるのかもしれない。
そして、その世界では一体どんな人生を送っているのだろう。
いや、想像するだけじゃ物足りない。
俺はいつか、自分自身の力でその世界へ行ってみたい。
そんな思いが、胸の奥から湧き上がってきた。
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