焚き火の夜
森を抜けた頃には、日は完全に沈んでいた。
道の先に町の灯りは見えない。
今夜中に辿り着くのは難しいだろう。
「今日はここまでにしようか。」
グレイが街道脇の開けた場所を指さした。
「暗い森を歩くのは危ないからね。」
「さっきまで死者の群れに突っ込んでいた男の台詞か。」
「死者より木の根の方が怖いんだよ。」
グレイは真顔で答えた。
「転ぶと痛いから。」
バトラスは何も言わず、街道を外れる。
「お。」
グレイが嬉しそうに笑う。
「今のは野営に賛成ってことでいい?」
「好きにしろ。」
「それ、だいたい賛成って意味だよね。」
「違う。」
「はいはい。」
少し離れた場所で、サラが小さく笑った。
グレイは慣れた手つきで枯れ枝を集める。
バトラスは周囲を見回した。
人の気配はない。
獣の足跡がいくつか残っているだけだ。
風下には小さな川も流れている。
野営には悪くない場所だった。
「お兄さん。」
バトラスが振り返る。
グレイが枯れ枝を両腕に抱えたまま立っていた。
「火、お願いしてもいい?」
「なぜ俺だ。」
「俺、火を起こすの苦手なんだ。」
「自慢するな。」
「得意な人がやる。」
「これが仲間というものだよ。」
「知り合いだ。」
「まだそこ?」
グレイは肩を落とした。
「礼拝堂で一緒に死にかけたのに。」
「死んでいない。」
「ものの例えだよ。」
サラがグレイの抱えていた枝を半分受け取る。
「私が火をつけます。」
「ありがとう、お嬢さん。」
「やっぱり頼りになる。」
サラは枝を組み上げ、その前へ杖を向けた。
小さな火が灯る。
炎は枯れ枝を舐め、やがて三人を照らす焚き火となった。
「よし。」
グレイは腰を下ろす。
「これで夕食さえあれば完璧。」
懐から固いパンを取り出した。
「一つしかないけど。」
「完璧ではないな。」
「半分ずつにする?」
「いらん。」
「遠慮しなくていいのに。」
「いらん。」
「二回言われた。」
グレイはパンを割り、一方をサラへ差し出した。
「お嬢さんは?」
「私は結構です。」
「また?」
「はい。」
「少しぐらい食べた方がいいよ。」
「必要ありませんから。」
その返事に、バトラスの視線がサラへ向いた。
青い髪。
白い肌。
炎の光を受けても、頬にはほとんど赤みが差さない。
礼拝堂で初めて目にした時から、違和感はあった。
呼吸がない。
体温もない。
あれほど動きながら、汗一つ流していなかった。
そして何より。
死霊に満ちた礼拝堂の中で、彼女だけは瘴気に侵されていなかった。
「グレイ。」
「ん?」
パンを齧りながら、グレイが顔を上げる。
「いつまで隠すつもりだ。」
咀嚼する音が止まった。
焚き火が爆ぜる。
「何のこと?」
グレイは笑っていた。
だが、その瞳はバトラスを観察している。
バトラスはサラを見る。
「その女は死んでいる。」
夜の森が静まり返った。
風が木々を揺らす。
サラは驚かなかった。
グレイも、しばらく黙ったままだった。
やがて。
「……気付いてたんだ。」
グレイが小さく息を吐く。
「礼拝堂でな。」
「どこで?」
「呼吸をしていない。」
「足音に重さがない。」
「血の匂いもしない。」
グレイは苦笑した。
「よく見てるなぁ。」
「お兄さんも、暗殺者に向いてるかも。」
「断る。」
「即答か。」
グレイは食べかけのパンを膝へ置いた。
先ほどまでの軽い調子が消えている。
「それで?」
「お嬢さんが死人だと分かって、どうする?」
短剣には触れていない。
しかし。
グレイの姿勢が僅かに変わった。
いつでも動ける構え。
焚き火を挟み、二人の視線がぶつかる。
バトラスはケルベロスへ手を伸ばさなかった。
「あの礼拝堂にいた死者とは違う。」
グレイの眉が動く。
「自分の意思で話し、自分の意思で戦っていた。」
バトラスはサラへ視線を戻す。
「敵意もない。」
「なら斬る理由はない。」
張り詰めていた空気が、少しだけ緩んだ。
「……そっか。」
グレイが肩の力を抜く。
「やっぱり、お兄さんは話が分かる。」
「バトラスだ。」
「名前で呼んでほしい?」
「そうは言っていない。」
「じゃあ、お兄さんで。」
グレイはいつもの笑みを取り戻した。
だが、サラの表情は静かなままだった。
「バトラス様。」
「様はいらん。」
「では、バトラス。」
サラは胸元へそっと手を添える。
「あなたの言うとおりです。」
「私は、すでに死んでいます。」
淡々とした声だった。
悲しみも。
恐れも。
自らの死を嘆く色さえない。
「今ここにある身体は、かつて私だったもの。」
「それをグレイが繋ぎ止めてくれました。」
バトラスはグレイを見る。
「お前が蘇らせたのか。」
「……そうだよ。」
グレイは炎へ小枝を投げ入れた。
火の粉が夜空へ舞う。
「死霊術でね。」
「だが、操ってはいない。」
「操れるもんか。」
グレイの声が少しだけ低くなる。
「お嬢さんは、今もお嬢さんだ。」
「俺の命令で歩いてるんじゃない。」
「自分でここにいる。」
「私が望みました。」
サラが続ける。
「もう一度、彼と共に歩くことを。」
しばらく誰も口を開かなかった。
薪が燃える音だけが響く。
バトラスは、七年前の礼拝堂を思い出していた。
倒れた仲間たち。
冷たくなったミリアム。
あの時。
もし、もう一度だけ声を聞けると言われていたなら。
自分は何を選んだだろう。
「なぜ死んだ。」
低い問いだった。
サラの瞳が僅かに伏せられる。
グレイの笑みが消えた。
完全に。
「それは。」
グレイは焚き火の向こうで、ゆっくり顔を上げる。
「俺から話す。」
今までとは別人のような声だった。
「お嬢さんは、七侯爵の一角に殺された。」
バトラスの右目が細くなる。
「誰だ。」
「弓の侯爵。」
グレイは静かに答えた。
「レラジェ。」
握り締めた拳が震えていた。
「奴はお嬢さんを殺したあと――」
一度、言葉が途切れる。
それでもグレイは目を逸らさなかった。
「その身体を、街の時計塔から吊るした。」
焚き火が大きく爆ぜる。
夜空へ昇った火の粉が、まるで青い髪の女を弔う灯のように消えていった。
沈黙が落ちる。
サラは何も言わない。
グレイも、炎を見つめたまま動かなかった。
バトラスは拳を握る男の横顔を見る。
先ほどまでの軽薄な笑みは、どこにもない。
「それで。」
バトラスが口を開く。
「お前はレラジェを追っているのか。」
「そう。」
グレイは短く答えた。
「奴を見つけて。」
「殺す。」
静かな声だった。
だが、その奥には焚き火よりも激しい炎がある。
「お兄さんも、同じような顔してるよ。」
グレイが顔を上げる。
「誰を追ってる?」
「剣の侯爵。」
バトラスは答えた。
「アスモデウス。」
グレイの目が僅かに細くなる。
「七侯爵か。」
「そうだ。」
「なるほどね。」
グレイは息を吐き、再び炎を見る。
「そりゃあ、気が合うわけだ。」
「合っていない。」
「まだ言う?」
いつもの笑みが、ほんの少しだけ戻る。
その時だった。
風が止んだ。
木々のざわめきが消える。
焚き火の炎が、音もなく低くなる。
「……霧?」
サラが静かに顔を上げた。
白い霧が木々の隙間から流れ込んでくる。
それは風に運ばれているのではない。
意思を持つように。
真っ直ぐ、三人のいる場所へ近づいていた。
グレイは腰を浮かせる。
右手が短剣へ伸びる。
バトラスは動かなかった。
「お兄さん?」
「抜くな。」
「知り合い?」
「似たようなものだ。」
「その答え、一番不安になるんだけど。」
霧が焚き火を包む。
炎は消えていない。
それでも、辺りの温度が急激に下がっていく。
やがて。
霧の向こうから、女の影が現れた。
黒い巻き髪。
雪のような白い肌。
真紅の唇。
胸元には、大粒のアメジスト。
そして。
暗闇の中でも鮮やかに輝く、金色の瞳。
「あら。」
女は優雅に微笑んだ。
「仔犬。」
「少し見ない間に、随分と賑やかになったのね。」
グレイは女を見る。
次に、バトラスを見る。
その視線が、首元で止まった。
荊を模した黒い印。
グレイの目から、僅かに笑みが消える。
バトラスの首に刻まれた契約印。
霧の中から現れた、人ならざる気配を持つ女。
それでも剣を抜こうとしないバトラス。
三つの事実を見比べたのは、ほんの一瞬だった。
「なるほど。」
グレイは短剣から手を離す。
「その首の印。」
「それに、お兄さんの反応を見る限り……。」
女が楽しそうに首を傾げる。
「何かしら?」
「あなたは魔女様か。」
グレイは肩をすくめた。
「勘だけどね。」
女の笑みが深くなる。
「正解。」
「なかなか目の利く坊やね。」
「元暗殺者の勘は、よく当たるんですよ。」
「そうでしょうね。」
女はグレイを見つめる。
左目の下に刻まれた、小さな十字架。
さっきまでの3人の戦いを影からこっそり見ていたリリスはグレイの身のこなしを見て何かが結びついた。
「あら。」
「あなた、影縫いのグレイかしら。」
グレイの眉が僅かに動いた。
「ウッドマン一族きっての天才にして、元アサシンギルドのエース級。」
「けれど、現在は突如失踪中。」
リリスはくすりと笑う。
「そんな噂だったわね。」
グレイは帽子のつばに触れ、芝居がかった仕草で頭を下げた。
「おや。」
「魔女様の耳にまで噂が届いていて光栄です。」
「ただ、昔の肩書きはあまり大声で言わないでほしいなぁ。」
「恥ずかしいから。」
バトラスがグレイを見る。
「お前。」
「二つ名持ちだったのか。」
「若気の至りだよ。」
「殺した相手の影まで、その場に縫い付けた。」
リリスが楽しそうに付け加える。
「だから、影縫い。」
「魔女様。」
グレイは苦笑した。
「話を盛るのはやめていただけると。」
「事実でしょう?」
「否定はしませんけど。」
リリスは満足そうに笑い、今度はサラへ目を向けた。
金色の瞳が、その身体を上から下まで眺める。
「それから。」
「こちらは元王宮魔術師。」
一拍置く。
「……だった物よね。」
グレイの笑みが止まった。
サラは静かにリリスを見返す。
「随分とうまく作られているのね。」
リリスはサラの周囲を眺めるように目を細める。
「魂も記憶も、ほとんど崩れていない。」
「死者でありながら、自分の意思まで残している。」
「なかなか器用なことをするじゃない。」
「その言い方。」
グレイの声が低くなる。
「好きじゃないな。」
「あら。」
「褒めたつもりよ。」
「お嬢さんは物じゃない。」
リリスの金色の瞳が、僅かに細くなる。
怒ったわけではない。
むしろ。
面白いものを見つけたように。
「そう。」
「あなたにとっては、今も変わらずお嬢さんなのね。」
グレイは答えない。
代わりにサラが小さく口を開く。
「私は、私です。」
「ええ。」
リリスは微笑んだ。
「そのようね。」
それからバトラスへ視線を戻す。
「そんなに睨まなくても大丈夫よ、仔犬。」
「今夜は喧嘩をしに来たわけではないもの。」
「では何をしに来た。」
「決まっているでしょう?」
リリスは楽しそうに両手を広げた。
「私の可愛い仔犬に、お友達ができたみたいだから。」
「ご挨拶に来たの。」
沈黙。
グレイがゆっくりバトラスを見る。
「……仔犬?」
「黙れ。」
グレイは堪えきれずに吹き出した。
「お兄さん。」
「魔女様には、そんな可愛い呼ばれ方してるの?」
「次に言ったら斬る。」
「怖い怖い。」
グレイは笑いながら両手を上げる。
「でも、まさか重剣を振り回すお兄さんが仔犬とはねぇ。」
「影縫い。」
バトラスが低く呼ぶ。
今度はグレイの笑顔が止まった。
「それ、早速使う?」
「二度と仔犬と呼ぶな。」
「お互い封印ってことでどう?」
「今すぐ忘れろ。」
リリスは二人を見ながら、楽しそうに笑っていた。
「ふふ。」
「本当に、お友達ができたのね。」
バトラスは答えない。
ただ深く息を吐き、低くなった焚き火へ薪を放り込んだ。
火の粉が舞い上がる。
その向こうで。
七年間一人だった男を囲むように、魔女と暗殺者と死者が座っていた。
奇妙な光景だった。
だが、その中で最も居心地が悪そうなのはバトラスだった。
「それで?」
グレイが焚き火の向こうから身を乗り出す。
「魔女様とお兄さんは、どういう関係なの?」
「お前には関係ない。」
「あるよ。」
「これから一緒に旅するかもしれない相手の首に、明らかに普通じゃない刺青があるんだから。」
グレイは自分の首を指でなぞった。
「しかも、その印をつけたらしい本人が、霧の中から現れた。」
「気になるでしょ。」
「一緒に旅すると決めた覚えはない。」
「そこから否定するんだ。」
グレイは困ったように笑う。
「お兄さん、警戒心強すぎない?」
「お前が馴れ馴れしすぎる。」
「二人とも。」
サラが静かに口を挟む。
「話が進んでいません。」
「お嬢さんの言うとおり。」
グレイは素直に引き下がる。
リリスはそのやり取りを眺めながら、楽しそうに脚を組んだ。
「関係が知りたいの?」
「ぜひ。」
「やめろ。」
バトラスが低く言う。
だが、リリスは意に介さない。
「この仔犬は、私と契約を結んでいるの。」
「契約。」
グレイの視線が、再びバトラスの首へ向かう。
「やっぱり、その印が?」
「胸から腕の入れ墨からは禍々しさは感じなかったんだ。」
「ええ。」
リリスは細い指先で、自分の首元をなぞった。
「この仔が私のものだという証よ。」
「違う。」
バトラスが即座に否定する。
「あら。」
「違ったかしら?」
「俺は誰のものでもない。」
「そういうところも可愛いのよね。」
リリスは愉快そうに笑った。
グレイが口元を押さえる。
「笑うな。」
「まだ笑ってないよ。」
「顔が笑っている。」
「無理だって。」
グレイはとうとう吹き出した。
「お兄さん、思ってたより大変な人生送ってるねぇ。」
バトラスの片手が、ゆっくりとケルベロスへ伸びる。
「待って。」
「冗談。」
「半分くらい。」
「全部にしろ。」
「分かった、全部冗談。」
グレイは両手を上げた。
リリスは満足そうにその様子を眺めている。
まるで、バトラスが困る姿を見るためだけに現れたかのようだった。
「ですが。」
サラがリリスへ目を向ける。
「契約によって、バトラスはあの力を得たのですか?」
グレイの笑いが止まる。
「力?」
「重剣の重量が変化していました。」
サラは礼拝堂での戦いを思い返すように言った。
「振るう時は羽のように軽く。」
「命中する瞬間だけ、異常なほど重くなる。」
「やはり気付いていたか。」
バトラスがサラを見る。
「はい。」
「魔力の流れは感じませんでした。」
サラはリリスへ視線を戻した。
「あれは魔法ではありませんね。」
金色の瞳が細くなる。
「よく見ているわね。」
リリスは微笑んだ。
「あれはグラビティ。」
「私がこの仔に分け与えた、世界のことわりの一つよ。」
「ことわり……。」
グレイが小さく繰り返す。
「魔法とは違うの?」
「まったく別のものよ。」
「魔法は世界の仕組みを借りて、望む現象を引き起こすもの。」
リリスは掌を上へ向けた。
焚き火の炎が、一瞬だけ横へ倒れる。
風は吹いていない。
「私たちは、その仕組みそのものに触れる。」
倒れていた炎が、何事もなかったように元へ戻った。
グレイは笑っていなかった。
その目は、炎ではなくリリスの指先を追っている。
「なるほど。」
「勝てないわけだ。」
「戦うつもりだったのか。」
バトラスが問う。
「正体が分からないうちはね。」
グレイは肩をすくめる。
「今は?」
「全力で逃げる。」
「賢明ね。」
リリスは上機嫌に答えた。
「命を粗末にする坊やは嫌いではないけれど。」
「長く楽しむなら、少しくらい賢い方がいいもの。」
「俺も解剖されたり、玩具にされたりする趣味はないんで。」
「残念。」
「候補には入ってたんだ。」
「冗談よ。」
リリスは微笑んでいる。
グレイはバトラスを見る。
「今の、冗談だと思う?」
「思うな。」
「だよねぇ。」
小さな笑いが漏れる。
だが、リリスの視線はすでにグレイから離れていた。
今度はサラを見ている。
表面ではなく。
その内側にあるものを覗き込むように。
「魂を器に繋ぎ止めたのね。」
リリスが呟く。
「けれど、無理に縛ってはいない。」
「本人の意思を芯にして、術式を組んでいる。」
グレイの表情が僅かに強張る。
「そこまで分かるんだ。」
「当然でしょう?」
「私は魔女よ。」
リリスはサラに向かって首を傾げた。
「一つ聞いてもいいかしら。」
「どうぞ。」
「あなたは、その坊やに生かされているの?」
焚き火が爆ぜた。
グレイの笑みが消える。
「魔女様。」
「それ以上は――」
「グレイ。」
サラが静かに制した。
それからリリスを正面から見つめる。
「違います。」
「私は死んでいます。」
「生かされているわけではありません。」
サラは胸元へ手を添えた。
「それでも、ここにいたいと望んでいます。」
「グレイと共に歩くことを、私自身が選びました。」
リリスはしばらくサラを見つめていた。
やがて。
「そう。」
満足そうに微笑む。
「それなら、あなたは作り物ではないわね。」
グレイの眉が動く。
「さっきは、うまく作られてるって言ってたけど。」
「確かめたのよ。」
「意地が悪いなぁ。」
「魔女だもの。」
「便利な言葉だ。」
グレイは苦笑しながらも、肩の力を抜いた。
「でも。」
リリスはグレイへ視線を戻す。
「勘違いしないことね。」
「どれほど綺麗に繋いでも、死者の魂は永遠には保てない。」
グレイの笑みが止まった。
サラも、僅かに目を伏せる。
バトラスはリリスを見る。
「どういう意味だ。」
「そのままの意味よ。」
リリスは淡々と答えた。
「死者は、生者と同じ時間を歩けない。」
「今は安定していても、いつか綻びは生まれる。」
「身体か。」
「魂か。」
「あるいは、その両方に。」
沈黙。
グレイは何も言わなかった。
ただ、膝の上で組んだ指に力が入っている。
「直せるのか。」
バトラスが問う。
グレイが顔を上げた。
リリスはバトラスを見て、ゆっくり笑う。
「仔犬。」
「あなた、随分と優しくなったのね。」
「質問に答えろ。」
「方法がないとは言っていないわ。」
その言葉に、グレイの瞳が鋭くなる。
「あるの?」
「さあ。」
リリスは焦らすように首を傾げた。
「今の私には、教える理由がないもの。」
「魔女様は本当に意地が悪い。」
「褒め言葉として受け取っておくわ。」
グレイは何かを言い返そうとした。
だが、サラが小さく首を振る。
「今は、それで十分です。」
「お嬢さん。」
「少なくとも、方法が存在する可能性はあります。」
グレイはサラを見る。
そして、困ったように笑った。
「お嬢さんは強いなぁ。」
「あなたが弱気なのです。」
「手厳しい。」
リリスは二人を眺め、愉快そうに目を細めた。
「なるほど。」
「仔犬が拾ってきたにしては、なかなか面白い二人ね。」
「拾っていない。」
「じゃあ、向こうからついてきたの?」
「まだ決まっていない。」
「え?」
グレイがバトラスを見る。
「一緒に行かないの?」
「なぜ行く前提なんだ。」
「復讐相手は同じ七侯爵。」
「情報を共有できる。」
「戦い方の相性もいい。」
「それに。」
グレイは笑う。
「お兄さん、一人だと寂しそうだから。」
バトラスの手がケルベロスへ伸びた。
「冗談!」
グレイが素早くサラの後ろへ移動する。
「お嬢さん、助けて。」
「自業自得です。」
「冷たい!」
リリスは声を上げて笑った。
その笑いが、夜の森へ静かに広がる。
やがて、霧が再び濃くなり始めた。
「もう行くのか。」
バトラスが問う。
「ええ。」
「目的は果たしたもの。」
リリスは立ち上がる。
「あなたのお友達への挨拶。」
「それから。」
金色の瞳が、バトラスの首元へ向けられる。
「そろそろ調律が必要だと、伝えに来たの。」
一瞬。
グレイの目が輝いた。
「調律?」
「聞くな。」
バトラスの声が低くなる。
「いやいや。」
「そこは詳しく聞きたいでしょ。」
「聞くな。」
「魔女様。」
「グレイ。」
サラが静かに名を呼ぶ。
「はい。」
「命が惜しければ、今夜は黙っていた方がよろしいかと。」
グレイはケルベロスへ手を伸ばすバトラスを見た。
「……お嬢さんの助言に従います。」
「賢明ね。」
リリスは満足そうに笑う。
「では、またね。」
「私の可愛い仔犬。」
白い指が、別れを告げるように小さく振られる。
霧が彼女の身体を包んでいく。
その姿が消える直前。
リリスの金色の瞳が、グレイを捉えた。
「影縫いの坊や。」
「その子を失いたくないのなら。」
「自分の術だけを、信じすぎないことね。」
グレイの表情から笑みが消える。
「それは、忠告?」
「さあ。」
リリスは意味深に微笑んだ。
「魔女の言葉を、どう受け取るかはあなた次第よ。」
霧が閉じる。
リリスの姿は、跡形もなく消えていた。
残されたのは、焚き火と三人だけ。
しばらくの間、誰も話さない。
やがて。
「……調律って何?」
グレイが口を開いた。
バトラスは無言でケルベロスを持ち上げた。
「冗談!」
グレイは立ち上がり、暗い森へ駆け出した。
「お嬢さん、助けて!」
「知りません。」
「そんなぁ!」
騒がしい足音が、夜の森へ響いていく。
サラはその背中を見送りながら、静かに微笑んだ。
バトラスは深く息を吐く。
だが。
追い払うことはしなかった。
焚き火を囲む場所は、まだ二人分空いたままだった。
薪が静かに爆ぜる。
夜風が木々を揺らす。
「……帰ってくるかな。」
グレイの声だった。
暗闇の向こうから、ゆっくり歩いて戻ってくる。
「もう怒ってない?」
「別に怒っていない。」
「じゃあ安心。」
そう言って何事もなかったように腰を下ろす。
サラも静かにその隣へ座った。
「お兄さん。」
「何だ。」
「一つ聞いていい?」
「内容による。」
「復讐が終わったら。」
グレイは炎を見つめたまま言う。
「何するの?」
バトラスは答えなかった。
焚き火だけが揺れる。
「考えたこと、ない?」
「ない。」
「終わったら終わりだ。」
その一言に。
グレイは笑わなかった。
「そういう顔だった。」
「礼拝堂で初めて見た時から。」
バトラスは眉をひそめる。
「どういう顔だ。」
「死ぬ場所を探してる人。」
静かな声だった。
サラも何も言わない。
否定もしない。
「違うかい?」
バトラスは焚き火を見る。
炎が揺れる。
七年前。
血に染まった礼拝堂。
仲間の亡骸。
ミリアム。
「……。」
何も答えられなかった。
グレイは小さく笑う。
「俺も一緒だったから。」
「レラジェを追ってる頃は。」
「殺せれば、そのあと自分がどうなってもいいと思ってた。」
バトラスが顔を上げる。
グレイは炎を見たままだった。
「でも。」
隣に座るサラを見る。
「お嬢さんがいた。」
サラは優しく微笑む。
「だから。」
「まだ死ねない。」
その一言だけだった。
バトラスは何も返さない。
代わりにサラが静かに言う。
「バトラス。」
「あなたにも、きっと理由ができます。」
「ない。」
「今は。」
サラは穏やかに続ける。
「ですが、人は変わります。」
バトラスは黙る。
その時。
グレイが突然立ち上がった。
「よし!」
「決めた!」
「何をだ。」
「一緒に旅する!」
「誰が。」
「お兄さんと。」
「勝手に決めるな。」
「もう決めた。」
「却下だ。」
「却下されてもついていく。」
「聞け。」
「聞かない。」
サラが小さくため息をつく。
「グレイ。」
「はい。」
「半分ほど迷惑です。」
「半分なら合格。」
「違います。」
バトラスは頭を押さえた。
「……面倒な奴らだ。」
「褒め言葉?」
「違う。」
「最近その返し好きだなぁ。」
グレイは笑う。
「それにさ。」
「七侯爵を追ってるなら、一人より三人の方が効率いい。」
「情報も集まる。」
「喧嘩も強い。」
「飯も少し美味くなる。」
「最後はいらん。」
「大事だよ?」
グレイは笑う。
「一人で食べる飯って、美味しくないから。」
その言葉だけは。
誰も否定できなかった。
バトラスも。
サラも。
静かに焚き火を見つめる。
長い沈黙。
やがて。
バトラスが立ち上がった。
「明日はどこへ向かう。」
グレイの目が丸くなる。
「え?」
「聞こえなかったのか。」
「いや。」
「今のって。」
「一緒に行く前提?」
バトラスはケルベロスを肩へ担ぐ。
「情報が欲しいだけだ。」
「勘違いするな。」
グレイは満面の笑みを浮かべた。
「やった。」
「お兄さんが仲間って認めた。」
「認めていない。」
「認めたことにしよう。」
「勝手にするな。」
サラはその二人を見て、小さく笑った。
夜空には無数の星。
焚き火は静かに燃え続ける。
七年間、一人だった男の旅は。
気付けば。
もう一人ではなくなっていた。
第十話に続く




