調律
朝日が木々の隙間から差し込む。
焚き火は灰になり、夜の冷気も少しずつ消えていく。
最初に目を覚ましたのはバトラスだった。
剣の手入れを終え、水袋を腰へ戻す。
いつも通り、一人で旅立つ準備。
……のはずだった。
「おはよう、お兄さん。」
後ろから眠そうな声がする。
振り返ると、グレイが大きく伸びをしていた。
「よく寝た。」
「お前か。」
「他に誰がいるの。」
グレイは笑いながら立ち上がる。
その隣ではサラも静かに目を開けていた。
「おはようございます。」
「ああ。」
短い返事。
それだけなのに、昨日までとは少し違う。
三人とも、それが分かっていた。
⸻
「さて。」
グレイが荷物を背負う。
「今日はどっち?」
「北か。」
「東か。」
「西か。」
「南か。」
「全部言ったな。」
「当たるかなと思って。」
「当たらん。」
サラが小さく笑う。
「四分の一ではありませんか。」
「お嬢さん。」
「意外と辛口。」
⸻
バトラスは地図を広げた。
「次に向かうのは港町ベルグ。」
「七侯の噂がある。」
グレイが覗き込む。
「噂だけ?」
「十分だ。」
「お兄さんらしい。」
サラが静かに言う。
「私も異論はありません。」
「では決まり。」
グレイは満面の笑みで立ち上がる。
「三人旅、初日!」
「騒ぐな。」
「こういうのはテンション上げるものでしょ。」
「一人で上げてろ。」
⸻
三人が街道へ出ようとした時。
グレイが急に立ち止まる。
「そうだ。」
「決めよう。」
「何を。」
「役割。」
「役割?」
「お兄さんは前衛。」
「俺は偵察。」
「お嬢さんは後衛。」
「完璧。」
サラが頷く。
「合理的ですね。」
バトラスも否定しない。
グレイが嬉しそうに笑う。
「ほら。」
「もうパーティーじゃん。」
「まだ仲間とは言っていない。」
「はいはい。」
⸻
街道を歩き始める。
先頭はバトラス。
少し離れてグレイ。
最後尾にサラ。
歩幅は違う。
歩く速さも違う。
それでも。
気付けば三人の足並みは自然と揃っていた。
街道は緩やかな坂を下り、その先に大きな港町が姿を現す。
青い海。
白い帆を広げた商船。
港には荷車が行き交い、威勢のいい掛け声が響いていた。
「おぉ。」
グレイが目を輝かせる。
「賑やかだね。」
「港町ベルグ。」
バトラスは城壁を見上げた。
「商人も冒険者も集まる。」
「情報を集めるには悪くない。」
「じゃあまずは飯!」
「情報だ。」
「腹が減っては情報も集まらないよ。」
「屁理屈だ。」
「正論。」
「違う。」
サラが小さく笑う。
「お二人とも。」
「町へ入る前です。」
「衛兵が見ています。」
二人が門を見る。
確かに衛兵が苦笑いを浮かべてこちらを見ていた。
「仲がいいな。」
衛兵の一人が笑う。
バトラスは少しだけ眉をひそめる。
「違う。」
「またそれ?」
グレイが肩を落とした。
「お兄さん、それ好きだね。」
「事実だ。」
「まあ、そのうち認めるでしょ。」
「認めん。」
衛兵は笑いながら門を開けた。
「ようこそベルグへ。」
町へ一歩足を踏み入れる。
潮の香り。
焼き魚の匂い。
露店には色鮮やかな果物が並び、子供たちが走り回っている。
七年間。
バトラスはこういう景色をゆっくり眺めたことがなかった。
復讐だけを見て歩いてきた。
町は情報を得る場所。
依頼を受ける場所。
それだけだった。
「お兄さん。」
「見て。」
グレイが串焼きを持って振り返る。
「美味そう。」
「いつ買った。」
「さっき。」
「金は。」
「払った。」
「そういうことを聞いているんじゃない。」
「一本いる?」
「いらん。」
「お嬢さんは?」
「いただきます。」
サラは素直に受け取る。
グレイは嬉しそうに笑った。
「ほら。」
「お嬢さんは優しい。」
「……。」
サラは串焼きを見つめる。
静かに。
そして困ったように微笑んだ。
「ごめんなさい。」
「やっぱり、食べられません。」
グレイは何も言わず、その串を受け取った。
「そうだったね。」
笑っている。
だが、その笑顔は少しだけ寂しかった。
バトラスは二人を見ていた。
サラは食べられない。
それを一番知っているのはグレイだ。
それでも毎回勧める。
そして毎回、思い出す。
生きていた頃の習慣を。
バトラスは黙って歩き出した。
「お兄さん?」
「ギルドへ行く。」
「情報を集める。」
「はいはい。」
グレイが歩き出す。
その時。
掲示板の前に人だかりができていた。
「何だ?」
グレイが人混みを覗く。
大きな依頼書が貼られている。
そこには赤い文字で。
『緊急討伐依頼』
と記されていた。
依頼人――港町ベルグ。
対象。
『港周辺で船員を襲う正体不明の怪物』
報酬。
金貨二十枚。
周囲の冒険者たちがざわめく。
「誰も帰ってこねぇ。」
「また一人消えたらしい。」
「海には近付くな。」
そんな声が聞こえてくる。
グレイが口笛を吹いた。
「景気のいい依頼だね。」
バトラスは依頼書を見つめる。
その横に、小さな文字があった。
『目撃証言 巨大な黒い影』
バトラスの右目が細くなる。
七侯ではない。
だが。
この町で最初に動く理由としては十分だった。
「受ける。」
短い一言。
グレイは笑った。
「異議なし。」
サラも静かに頷く。
「賛成です。」
三人は依頼書を剥がす。
三人は冒険者ギルドの扉を押し開けた。
昼下がりの酒場を兼ねた受付には、多くの冒険者が集まっている。
依頼書を見た受付嬢は驚いた。
「……まさか。」
「本当に受けるんですか?」
「問題あるか。」
バトラスが尋ねる。
受付嬢は小さく首を振った。
「問題はありません。」
「ですが、この依頼は三組が受けて……。」
「誰も戻ってきていません。」
酒場が静まり返る。
一人の冒険者が鼻で笑った。
「やめとけ。」
「港の化け物だ。」
「人間が勝てる相手じゃねぇ。」
グレイは帽子を少し上げる。
「その台詞。」
「依頼の前によく聞くなぁ。」
バトラスは依頼書を受付へ置いた。
「受理しろ。」
受付嬢は一瞬だけ迷い。
やがて頷いた。
「……お気を付けて。」
⸻
港。
潮風が吹き抜ける。
岸壁には砕かれた船。
血痕。
巨大な爪痕。
異様な静けさだった。
サラがしゃがみ込む。
「瘴気があります。」
「ですが、七侯ではありません。」
グレイは足跡を追う。
「海から上がってきてる。」
「大きい。」
「かなり。」
その時。
海面が揺れた。
轟音。
水柱が空高く噴き上がる。
巨大な黒い影が姿を現した。
「来た。」
バトラスはケルベロスを握る。
怪物は雄叫びを上げながら港へ飛び上がった。
巨大な四肢。
鋭い牙。
全身を覆う黒い鱗。
「海竜か。」
グレイが口笛を吹く。
「聞いてたより大きい。」
「おしゃべりしている場合ではありません。」
サラが魔力を集中させる。
「右から来ます!」
海竜が突進する。
「散れ。」
バトラスが叫ぶ。
三人が同時に動いた。
⸻
グレイの姿が消える。
次の瞬間には海竜の背後。
短剣が鱗の隙間へ突き刺さる。
「硬っ!」
海竜が暴れる。
その動きを。
サラの氷が止める。
「今です!」
バトラスは走る。
ケルベロスが肩へ担がれる。
振り下ろす。
その瞬間。
剣が羽のように軽くなる。
海竜が避けようと首を動かす。
そして。
刃が触れる瞬間。
世界が沈んだ。
重力。
莫大な重量が刃へ集中する。
轟音。
港の石畳が砕ける。
海竜の首が地面へ叩きつけられた。
一撃だった。
⸻
静寂。
誰も動けない。
やがて。
物陰に隠れていた船乗りたちが姿を現す。
「倒した……。」
「本当に。」
「一撃で。」
一人の老人がバトラスの剣に施された禍々しい魔獣の装飾を見る。
三つ首の魔犬。
「……あれはまさにケルベロス。」
若い船乗りが叫ぶ。
「そうだ!」
「あの重剣!」
「重剣のケルベロスだ!」
歓声が港へ響き渡る。
「重剣のケルベロス!」
「港を救ったぞ!」
「英雄だ!」
バトラスは歓声を背に歩き出す。
「帰るぞ。」
グレイが追いつく。
「初仕事で英雄。」
「しかも二つ名付き。」
「すごいねぇ、お兄さん。」
「興味ない。」
「本人は絶対そう言うと思った。」
サラが小さく笑う。
「ですが。」
「私は、とても良い名だと思います。」
バトラスは何も答えない。
だが。
町中に響く歓声は、いつまでも止まなかった。
夜。
港町ベルグの酒場は、昼間とは比べものにならないほど賑わっていた。
怪物討伐の噂は、町中を駆け巡っている。
「おい!」
「重剣のケルベロスが来たぞ!」
酒場の誰かが叫ぶ。
一斉に視線が集まった。
バトラスは露骨に嫌そうな顔をする。
「もう広まってる。」
グレイが肩を震わせる。
「一日も経ってないのに。」
「面倒だ。」
「格好いいじゃない。」
「俺は影縫いなんて二つ名より、そっちの方が好きだけど。」
「俺はどちらも好きではない。」
「贅沢。」
サラは小さく微笑む。
「皆さん、感謝しているのでしょう。」
「その気持ちまで否定する必要はありません。」
バトラスは返事をしない。
三人は空いた席へ腰を下ろした。
店主が酒を運んでくる。
「今日は俺の奢りだ。」
「町を救ってくれた礼だよ。」
「受け取れ。」
木製のジョッキが三人の前へ置かれる。
グレイは目を輝かせた。
「やった。」
「英雄って最高。」
「お前は何もしていない訳じゃないだろう。」
「もちろん頑張ったよ?」
「でも最後は、お兄さんが全部持っていった。」
グレイは笑う。
「今日から有名人だ。」
「嫌な響きだ。」
酒を口へ運ぼうとした、その時だった。
「あの……。」
女性の声。
三人が振り向く。
二十代半ばほどの女性が、少し緊張した様子で立っていた。
「あの……。」
「重剣のケルベロスさん。」
バトラスの眉間に皺が寄る。
「その呼び方はやめろ。」
「す、すみません。」
女性は慌てて頭を下げる。
「でも、その……。」
「今日は助けてくださって、ありがとうございました。」
深く一礼する。
「もし、ご迷惑じゃなければ……。」
「ご一緒に、お酒でも。」
グレイがゆっくりバトラスを見る。
口元が緩んでいる。
「お兄さん。」
「英雄は違うねぇ。」
「黙れ。」
「まだ何も言ってない。」
「顔が言っている。」
「バレた?」
サラが小さく息を吐く。
「グレイ。」
「少し静かに。」
「はい。」
バトラスは女性へ向き直る。
「悪いが――」
その時。
酒場の床を、白い霧が静かに流れ始めた。
ざわめきが止まる。
誰もが足元を見る。
「霧……?」
女性が戸惑った声を漏らす。
甘い花の香りが漂った。
次の瞬間。
「ごめんなさいね。」
艶やかな声が酒場に響く。
霧の中から、一人の女が姿を現した。
黒い巻き髪。
雪のような白い肌。
胸元には大きなアメジスト。
黄金色の瞳が、楽しそうに細められる。
リリスは何のためらいもなくバトラスの隣へ歩み寄ると、その膝へ横向きに腰掛けた。
酒場中が静まり返る。
「あ……。」
女性は目を丸くした。
リリスは優雅に微笑む。
「ごめんなさい。」
「この仔、今夜は私と先約があるの。」
「だから貸してあげられないわ。」
その物腰は柔らかい。
けれど、不思議と逆らえない威圧感があった。
「……は、はい。」
女性は真っ赤になり、頭を下げて席へ戻っていく。
グレイは肩を震わせていた。
「…………。」
「…………。」
「…………ぷっ。」
とうとう吹き出す。
「ふふっ……。」
「お兄さん。」
「すごい。」
「英雄になった初日で、女性から声かけられて、彼女まで祝福に現れるなんて。」
「違う。」
バトラスが低く返す。
「彼女ではない。」
リリスが笑う。
「ええ。」
「恋人ではないわ。」
「契約者ですか?」
グレイが真顔で尋ねる。
リリスは少し考える素振りを見せたあと、妖しく微笑んだ。
「もっと特別な関係かもしれないわね。」
「やっぱり違う。」
バトラスは額に手を当てた。
グレイは笑いを堪えながらサラを見る。
「お嬢さん。」
「これ、お兄さん勝てなくない?」
サラは静かに紅茶を口へ運ぶ。
「……そのようですね。」
リリスは満足そうにバトラスを見上げた。
「さぁ。」
「仔犬。」
黄金の瞳が優しく細められる。
「調律の時間よ。」
酒場の空気が、一瞬だけ張り詰めた。
バトラスは深く息を吐く。
「……行く。」
「あら。」
「今日は聞き分けがいいのね。」
「どうせ断っても連れていくだろ。」
「よく分かっているじゃない。」
リリスは嬉しそうに笑う。
白い霧が二人を包み始めた。
グレイはその背中を見送りながら、にやりと口角を上げる。
「……お兄さん。」
「明日、絶対疲れてる。」
サラは静かにカップを置いた。
「ええ。」
「そのような気がします。」
霧の向こうから、リリスの楽しそうな笑い声だけが、夜の酒場に静かに響いていた。
気が付けば。
足元は柔らかな絨毯へ変わっている。
鼻をくすぐる花の香り。
暖炉では薪が静かに爆ぜた。
見慣れた館。
霧の魔女の住まう館だった。
「相変わらずだな。」
バトラスが呟く。
リリスはくすりと笑う。
「帰ってきた、でしょう?」
「帰る場所じゃない。」
「あら。」
「私はそう思っているのだけれど。」
そう言うと彼女は窓際へ歩き、月明かりを眺める。
「今日は活躍したみたいね。」
「見ていたのか。」
「もちろん。」
振り返ったリリスの瞳には、いたずらっぽい光が宿っていた。
「ふふっ。」
「重剣のケルベロス。」
わざとらしく、その異名を口にする。
バトラスは眉をひそめる。
「その呼び方はやめろ。」
「嫌。」
「結構気に入っているもの。」
「お前まで乗るな。」
「だって格好いいじゃない。」
リリスは楽しそうに笑う。
「私の仔犬が、皆に認められた証でしょう?」
「……。」
バトラスは答えない。
その沈黙を見て、リリスは満足そうに目を細めた。
「それに。」
「女性にも随分人気だったじゃない。」
「断った。」
「断る前に私が追い払ったのよ。」
「余計なお世話だ。」
「あら。」
「感謝してくれてもいいのに。」
「する理由がない。」
「本当に?」
リリスは一歩近付く。
二人の顔の距離が一気に縮まる。
「もし私が行かなかったら。」
「今頃あの子と飲んでいたかしら。」
「……断っていた。」
「そう。」
リリスは少しだけ首を傾げる。
「なら安心。」
「何がだ。」
「私の仔犬が。」
「簡単に他の女の子について行かなくて。」
バトラスはため息をつく。
「子供扱いするな。」
「仔犬扱いよ。」
「同じだ。」
「全然違うわ。」
リリスは笑う。
暖炉の火が揺れ、館の中を橙色に染める。
しばらく静かな時間が流れた。
やがてリリスが、ふっと真面目な表情になる。
「でも。」
「今日は褒めてあげる。」
「重力の扱い。」
「ほとんど乱れがなかった。」
「グラムの剣とも、ようやく馴染んできたみたいね。」
バトラスはケルベロスへ目を落とす。
「まだ完璧じゃない。」
「ええ。」
「だから。」
リリスはゆっくりと手を差し伸べる。
その白い指先が、バトラスの首筋――契約の紋様へ触れた。
「今夜も調律しましょう。」
淡い紫色の光が、首輪の紋様をゆっくりと巡り始める。
館の時計が、静かに夜更けを告げた。
リリスはバトラスの前へ立つ。
黄金色の瞳が、真っ直ぐ彼を見つめていた。
「力を。」
「解放して。」
バトラスはゆっくりと目を閉じる。
胸の奥。
深く沈む重力の核へ意識を落としていく。
空気が震えた。
床に置かれた椅子が、かすかに軋む。
暖炉の炎が揺らぎ、館そのものが静かに息をするようだった。
「……まだ少し乱れている。」
リリスが静かに呟く。
「今日は最後の一撃で、力を使い過ぎたわね。」
「分かるのか。」
「もちろん。」
「あなたの重力は、私が与えたもの。」
「鼓動のように伝わってくるもの。」
バトラスは苦笑した。
「便利だな。」
「あら。」
「不便なこともあるわ。」
「あなたが無茶をすると、すぐに分かってしまうもの。」
リリスは一歩近づき、そっと契約の紋様へ指先を添えた。
紫色の光が強く脈打つ。
館中に、静かな振動が広がっていく。
まるで世界そのものが呼吸を合わせているようだった。
「力は強くなった。」
「でも。」
「強いだけでは駄目。」
「制御できなければ、いずれあなた自身を潰す。」
バトラスは目を閉じたまま頷く。
「分かっている。」
「だから来た。」
「いい子。」
リリスは優しく笑う。
「そういう素直なところは好きよ。」
「仔犬。」
「……その呼び方は。」
「嫌い?」
「慣れない。」
「でも昔より怒らなくなった。」
「諦めただけだ。」
「同じことよ。」
リリスは楽しそうに笑う。
その笑い声に合わせるように、契約の紋様から伸びた紫の光が二人の身体を包み込む。
光は首から胸へ。
胸から腕へ。
そして、ケルベロスの柄へと流れていった。
黒い剣が低く唸る。
まるで主の帰還を喜ぶ獣のように。
「……馴染んできたわね。」
「ええ。」
「これなら、グラムも安心するでしょう。」
やがて光は少しずつ穏やかになり、館を満たしていた重苦しい圧力も静かに消えていく。
バトラスはゆっくりと息を吐いた。
「終わったか。」
「ええ。」
リリスは満足そうに頷く。
「今日の調律はこれで十分。」
「これでしばらくは安定するわ。」
館には再び暖炉の薪が爆ぜる音だけが響く。
窓の外では、白い霧が月明かりに照らされ、静かに庭を覆っていた。
リリスは窓辺へ歩き、夜空を見上げる。
「今日は良い一日だったわ。」
「私の仔犬が、自分の名で人々に呼ばれた。」
「『重剣のケルベロス』。」
その名を口にした彼女は、どこか誇らしげだった。
バトラスはケルベロスを静かに見つめる。
「……まだ、その名に相応しいとは思えない。」
リリスは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「そう思えるうちは、大丈夫。」
「驕った時が、一番危ないもの。」
館の時計が、もう一度静かに時を刻む。
長い夜は、まだ終わっていなかった。
朝日が港町ベルグを照らし始める。
酒場の扉が静かに開いた。
バトラスは小さく息を吐きながら中へ入る。
昨夜の喧騒は消え、酒場には数人の客が朝食を取っているだけだった。
「お。」
奥の席から聞き慣れた声が飛ぶ。
「おはよう、お兄さん。」
グレイだった。
焼いたパンを頬張りながら、大きく手を振っている。
向かいには、静かに紅茶を飲むサラの姿もあった。
「遅かったね。」
グレイはバトラスの顔を見るなり、口元を緩める。
「……やっぱり。」
「何だ。」
「疲れてる。」
「気のせいだ。」
「いやいや。」
「目の下。」
「少し隈があるよ。」
バトラスは無言で席へ腰を下ろす。
グレイは堪えきれず吹き出した。
「ほら!」
「やっぱり!」
「お兄さん、分かりやすすぎ。」
「うるさい。」
「毎回こんな感じなの?」
サラが静かに尋ねる。
バトラスは少し考え、小さく頷いた。
「……まあな。」
「へぇ。」
グレイは腕を組む。
「魔女様って、結構厳しいんだ。」
「違う。」
「調律は俺にも負担があるだけだ。」
「ふーん。」
「でも終わった後は毎回そんな顔?」
「……そうだ。」
「なるほど。」
グレイは妙に納得したように頷く。
「だから元気がないのか。」
「違う。」
「疲れてるだけ。」
「同じじゃない?」
「違う。」
サラは困ったように微笑んだ。
「グレイ。」
「あまり、からかわないでください。」
「はいはい。」
そう返事をしながらも、グレイの口元は笑ったままだった。
店主が湯気の立つスープを運んでくる。
「英雄さん。」
「朝飯だ。」
「昨日は世話になった。」
バトラスは一瞬だけ驚いた表情を見せた。
「……礼を言う。」
店主は豪快に笑う。
「礼を言うのはこっちだ。」
「町のみんな、お前さんのおかげで安心して眠れた。」
酒場の客たちも、それぞれ頷いている。
「おはよう、重剣のケルベロス。」
「昨日はありがとう。」
「また来てくれよ。」
聞き慣れない異名が、もう自然に飛び交っていた。
バトラスは小さく肩をすくめる。
「……本当に定着したな。」
グレイが笑う。
「諦めなよ。」
「その名前。」
「結構似合ってる。」
バトラスはスープを一口飲む。
温かさが身体に染み渡る。
ふと窓の外を見ると、港では漁船が次々と海へ出ていくところだった。
昨日まで魔物に怯えていた町に、いつもの朝が戻っている。
その景色を見て、バトラスは静かに息を吐いた。
――悪くない。
そう思った自分に気付き、少しだけ驚いた。
第十一話へ続く




