表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
8/13

死霊術師

 山々を抜ける風は、まだドワルドの鍛冶場の熱を忘れていなかった。


 バトラスは黒い外套を翻しながら、一人街道を歩く。


 肩には漆黒の重剣。


 柄頭から伸びる太い鎖が、歩くたび地面を擦って鈍い音を立てる。


 ――重剣ケルベロス。


 まだ異名ではない。


 ただ一振りの剣。


 だが、その重量は普通の人間が持ち上げることさえ叶わない。


 それをバトラスは、まるで長年使い続けた相棒のように肩へ担いでいた。


 グラムの言葉が脳裏をよぎる。


 ――奴は百年前、レオン・ダナスという名だった。


 ――蒼銀の獅子騎士団、初代団長。


 未だ信じられない。


 自分が敬愛した騎士団の始祖が、今では剣の侯爵アスモデウスとなり、七年前に自らの騎士団を滅ぼした。


 歩みは止まらない。


 考えても答えは出ない。


 だから探す。


 アスモデウスを。


 奴自身から真実を聞くために。


 そして――殺すために。


 昼過ぎ。


 街道沿いにある交易都市アルディアへ辿り着く。


 人々の喧騒。


 行商人の呼び声。


 鍛冶屋の槌音。


 平和そのものだった。


 バトラスは迷わず傭兵ギルドの扉を押し開ける。


 中にいた受付嬢が顔を上げる。


「あっ」


「バトラスさん」


 以前にも何度か依頼を受けた町らしい。


 受付嬢はすぐに書類を抱えて走ってきた。


「ちょうど探していたんです!」


「依頼か」


「はい。でも少し変わった依頼で……。」


 彼女は声を潜めた。


「この一週間で、墓地から遺体が三十二体なくなっています。」


 バトラスの眉が僅かに動く。


「盗賊か。」


「最初はそう思われていました。でも……。」


 受付嬢は一枚の紙を差し出した。


 そこには墓守の証言が記されている。


 夜中。


 墓地を歩く青白い人影。


 土の中から自ら起き上がる死者。


 黒いローブの男。


「死霊術師か。」


「はい。」


「王都から聖騎士団も来ました。でも……。」


「全員、返り討ちです。」


 ギルドの空気が重く沈む。


 一人の傭兵が口を開く。


「俺は見た。」


「死人が歩いてた。」


「目も開いてねぇのに剣を振ってきやがる。」


 別の男も頷く。


「しかも死体が増えてる。」


「倒しても翌日にはまた現れる。」


 受付嬢は震える声で続ける。


「調査の結果、山奥の廃研究所へ運ばれているらしいことだけは分かりました。」


「依頼内容は。」


「死霊術師の討伐。」


「可能であれば、盗まれた遺体の回収です。」


 報酬額を見る。


 破格だった。


 それだけ危険ということだ。


 バトラスは依頼書を丸め、懐へしまう。


「受ける。」


 受付嬢がほっと息を吐く。


「ありがとうございます……!」


「生存者は。」


「今のところ、墓守が一人だけです。」


「案内は。」


「森の入口までなら。」


 バトラスは踵を返した。


 その時だった。


 ギルドの奥から、年老いた傭兵がぽつりと呟く。


「気をつけろ。」


 バトラスが立ち止まる。


「あの森には……。」


「死人を連れた銀髪の男がいる。」


 ギルドの中が静まり返る。


「笑ってた。」


 老人は青ざめた顔のまま言う。


「死人を連れているのに。」


「楽しそうに笑ってやがった。」


 バトラスの左目が静かに細くなる。


「死人を連れた男……。」


 老人の言葉を背に、バトラスはギルドを後にした。


 案内役の若い傭兵は、町を出てしばらくすると足を止める。


 目の前には深い森。


 昼だというのに木々が陽を遮り、薄暗い。


「……ここから先です。」


 若い傭兵は森を見つめたまま唾を飲み込む。


「あなたは来ないのか。」


「無理です。」


 苦笑とも恐怖ともつかない表情を浮かべる。


「二日前、仲間が四人入りました。」


「戻ってきたのは、一人だけでした。」


「その一人も、今はまともに話せません。」


 バトラスは何も言わず森へ目を向ける。


「森に入ってから、おかしくなったそうです。」


「何があった。」


「……笑い声が聞こえた、と。」


「笑い声?」


「はい。」


 若い傭兵は肩を震わせた。


「男の笑い声です。」


「戦っているような音がしていたそうですが、その男はずっと笑っていたそうです。」


「楽しそうに。」


 バトラスは静かに歩き出す。


「それだけか。」


「え?」


「その程度で足が止まるなら、傭兵は務まらん。」


 若い傭兵は苦笑した。


「そうですね。」


「でも……。」


 彼は森を見つめたまま呟く。


「死人は、笑わないでしょう?」


 返事はない。


 黒い外套だけが森の闇へ消えていく。


 やがて、人の手が入らなくなった獣道へ入る。


 踏み固められた土。


 折れた枝。


 馬車が通ったような轍。


 誰かが、何度もここを往復している。


 バトラスはしゃがみ込み、地面へ指を這わせた。


 乾ききっていない泥。


 靴跡は新しい。


「……昨日か。」


 そのまま歩き続ける。


 しばらくすると、鼻を突く異臭が漂い始めた。


 腐敗臭。


 獣ではない。


 人間の死臭。


 さらに奥へ進む。


 カラスが一斉に飛び立った。


 その先に、小さな墓が並んでいる。


 いや――墓だったものだ。


 土は掘り返され、棺は砕かれ、墓石は倒されている。


 辺りには花束が散乱し、白い百合が泥にまみれていた。


 バトラスは静かに目を閉じる。


 七年前。


 礼拝堂。


 仲間たちの亡骸。


 ミリアムの最後の笑顔。


 一瞬だけ脳裏をよぎる。


 ――殺す。


 その一言だけが胸に残る。


 その時だった。


 カタン。


 微かな音。


 バトラスは反射的にケルベロスへ手を掛ける。


 視線の先。


 墓石の陰から、白い腕がゆっくりと伸びていた。


 土を掻く音。


 乾いた爪が石を擦る。


 やがて、一人の男が這い出してくる。


 着ている服は墓守のものだった。


 土にまみれ、胸元は裂け、青白い肌は生気を失っている。


 それでも男は立ち上がった。


 ゆっくりと。


 ぎこちなく。


 虚ろな瞳は何も映していない。


 バトラスは低く呟く。


「……死者か。」


 返事はない。


 墓守だったものは首を傾ける。


 次の瞬間。


 腰に差していた錆びた短剣を抜き放ち、音もなく駆け出した。


 速い。


 見た目とは裏腹に、迷いのない一直線の踏み込み。


 バトラスは身体を半歩だけ開き、短剣を紙一重でかわす。


 刃が外套を掠めた。


 返す手で柄頭を叩き込む。


 鈍い音。


 普通の人間なら昏倒する一撃だった。


 しかし墓守は倒れない。


 ふらつきながらも再び短剣を構えた。


「痛覚がないか。」


 再び斬りかかる。


 今度はケルベロスを抜いた。


 重厚な刀身が空気を裂く。


 ――グラビティ。


 一瞬だけ重量を軽くする。


 常識外れの速度で振り抜かれた黒い刃が、命中の瞬間だけ圧倒的な重さを取り戻す。


 轟音。


 墓守の身体は横殴りに吹き飛び、墓石ごと粉砕した。


 静寂。


 ……終わった。


 そう思った。


 だが。


 瓦礫の向こうで、墓守は再び立ち上がる。


 折れた腕をぶら下げたまま。


 砕けた顎から黒い液体を垂らしながら。


「……なるほど。」


 バトラスは剣を構え直す。


「これが依頼の原因か。」


 その時だった。


 森のさらに奥から、


 カラン、と金属が触れ合う音が響いた。


 鎖ではない。


 剣でもない。


 何か細い金属が風に揺れるような、澄んだ音。


 続いて聞こえたのは――


 笑い声だった。


「ははっ!」


 明るい。


 楽しそうな笑い声。


 こんな死臭に満ちた森には、あまりにも場違いだった。


 そして次の瞬間。


 ドンッ!!


 森の奥で木々が大きく揺れる。


 何か巨大なものが倒れた。


 鳥たちが一斉に飛び立つ。


 再び笑い声。


「そっちか!」


「逃がすかよ!」


 まるで狩りを楽しんでいるような声だった。


 バトラスは眉をひそめる。


 死者を操る者とは思えない。


 だが、楽しそうに笑う男。


 ギルドで聞いた話と一致する。


 墓守だったものは、その笑い声が聞こえた途端、森の奥へ向かって歩き始めた。


 まるで誰かに呼ばれているように。


 バトラスは無言で後を追う。


 木々の隙間から、黒煙が立ち上るのが見えた。


 そこには朽ち果てた石造りの建物があった。


 屋根は崩れ、壁には無数の蔦が絡みついている。


 かつては礼拝堂か、あるいは研究施設だったのだろう。


 今は見る影もない。


 建物の周囲には、十数体の死者が徘徊していた。


 鎧姿の兵士。


 村人。


 子ども。


 老人。


 皆、虚ろな瞳のまま、ゆっくりと同じ方向へ歩いている。


 その中心から――


「はははっ!」


 また笑い声が響いた。


 甲高くもなく、下品でもない。


 本当に楽しそうな笑い声だった。


「そっちは駄目だって!」


 ガキンッ!!


 鋼がぶつかる音。


 一体の死者が大きく吹き飛ぶ。


 しかし、その向こうの木々が邪魔をして、姿までは見えない。


「危ない危ない!」


 笑いながら戦っている。


 普通ではない。


 バトラスはゆっくりとケルベロスを背から外した。


 重い刀身が地面へ触れ、小さく土を抉る。


 死者たちは、その音に反応した。


 一斉に首がこちらを向く。


 十数対の虚ろな瞳。


 次の瞬間。


 全員がバトラスへ襲いかかった。


「邪魔だ。」


 ケルベロスが唸る。


 重い一閃。


 墓石ごと三体を薙ぎ払う。


 さらに一歩。


 左から迫る兵士の剣を受け流し、肩口から斬り伏せる。


 背後。


 気配。


 振り向かず、鎖だけを放つ。


 鉄鎖が死者の足へ絡みつき、そのまま引き倒した。


 起き上がる前に、黒い刃が胸を貫く。


 ――だが。


「……?」


 違和感。


 死者たちの動きがおかしい。


 こちらを狙っているようでいて、どこか統率が取れていない。


 まるで命令を聞いていない兵士の集団だ。


 その時。


 森の奥から、男の声が飛んできた。


「そっちへ行くなって言ってるだろー!」


 直後。


 一筋の銀色が木々の間を駆け抜けた。


 速い。


 あまりにも速い。


 バトラスの視界を横切った影は、そのまま死者の群れへ飛び込んだ。


 ドンッ!


 一体。


 二体。


 三体。


 目にも止まらぬ速さで死者が倒れていく。


 軽やかな足運び。


 踊るような体捌き。


 戦場とは思えないほど楽しげな笑い声。


「おっと!」


 男は死者の剣を紙一重でかわし、肩をすくめる。


「危ない危ない!」


 次の瞬間には、死者の背後へ回り込んでいた。


 首筋へ閃く刃。


 一撃。


 死者は糸が切れたように崩れ落ちる。


 ――強い。


 バトラスは瞬時にそう判断した。


 だが同時に、


 違和感も覚えた。


 死者を操る者なら、自ら前線へ出る必要はない。


 それなのに男は、誰よりも楽しそうに死者を斬っている。


 その時だった。


 建物の中から、不気味な鐘の音が鳴り響く。


 ゴォォォン――


 死者たちが一斉に動きを止めた。


 そして。


 ゆっくりと男へ振り返る。


 男も笑みを消した。


「……あーあ。」


 困ったように頭を掻く。


「間に合わなかったか。」


 その一言で、空気が変わる。


 死者たちの身体から黒い瘴気が噴き出し、先ほどまでとは比べものにならない殺気が森を覆った。


 男は小さく息を吐く。


「さて。」


 軽く肩を回しながら笑う。


「第二ラウンドだ。」


 バトラスはケルベロスを構え直した。


 ――敵か。


 それとも。


 まだ答えは分からない。


 黒い瘴気を纏った死者たちが、一斉に襲い掛かる。


 兵士。


 村人。


 老人。


 子ども。


 生前の姿など関係ない。


 今はただ、命令だけで動く肉塊だった。


「邪魔だ。」


 ケルベロスが唸る。


 漆黒の刀身が弧を描き、二体まとめて吹き飛ばす。


 だが、倒れた死者の隙間を縫うように、別の死者が迫る。


 その瞬間だった。


「はいはい、割り込みまーす!」


 陽気な声。


 バトラスの視界の端で銀色が躍る。


 気付けば死者の首が宙を舞っていた。


「一人で全部相手する気? それ、結構しんどくない?」


 男は笑っている。


 楽しそうに。


 本当に楽しそうに。


 まるで酒場で喋っているような気軽さで、死者の群れを駆け回っていた。


 短剣が閃く。


 一体。


 二体。


 三体。


 速い。


 だが。


 速いだけではない。


 視界から消えた。


 そう思った次の瞬間には、別の死者の背後にいる。


「……。」


 バトラスは左目を細めた。


 見失った。


 いや。


 見失わされた。


「そっち!」


 男が叫ぶ。


 反射的に振り向く。


 死者が一体、背後から飛び掛かっていた。


 ケルベロスを振り抜く。


 鈍い衝撃。


 死者は樹木をへし折りながら吹き飛んだ。


「おぉー!」


 男が目を輝かせる。


「今の何!?」


「剣だ。」


「いや、それは見た!」


「剣なのは分かる!」


「重そうなのに速いじゃん!」


 返事はしない。


 男は気にする様子もなく肩をすくめた。


「無口な人かぁ。」


「俺、おしゃべりだから相性悪いかも。」


 また笑う。


 死者が迫る。


 男は半歩下がった。


 いや。


 違う。


 影が揺れた。


 そう見えた瞬間には、男は死者の真後ろへ立っていた。


「はい、お疲れさま。」


 首筋へ短剣を滑らせる。


 死者は崩れ落ちた。


 バトラスの眉がわずかに動く。


 まただ。


 何だ。


 今の動きは。


「ん?」


 男がこちらを見る。


「どうした?」


「……。」


「そんな見つめられると照れるなぁ。」


「見ていただけだ。」


「告白じゃなかったか。」


「違う。」


「残念。」


 軽口を叩きながらも、男の動きに隙はない。


 死者が振るう斧を紙一重でかわし、その勢いを利用して肩へ飛び乗る。


「よいしょっと。」


 首へ短剣を突き立てる。


 着地。


 笑顔。


 呼吸一つ乱れていない。


 その時。


 死者の一体が、男ではなく少し離れた場所へ歩き始めた。


 木陰。


 そこには、一人の女が静かに立っていた。


 長い青髪。


 白いローブ。


 透き通るような白い肌。


 彼女は微動だにしない。


 ただ、その死者を静かに見つめていた。


「おっと。」


 男の笑みが消える。


「それは駄目。」


 次の瞬間。


 また姿が消えた。


 気付けば女の前に立ち、死者の腕を斬り落としていた。


「危ない危ない。」


 また笑う。


 今度はどこか安心したような笑顔だった。


 女は小さく頭を下げる。


「ありがとうございます。」


「気にしないで。」


「慣れてる。」


 女は何も言わない。


 ただ、静かに男の隣へ立つ。


 その様子を見て、バトラスはケルベロスを下ろさないまま口を開いた。


「お前たちは。」


「ん?」


「何者だ。」


 男は笑った。


「それ、自己紹介する流れ?」


「質問に答えろ。」


「困ったなぁ。」


 頭を掻きながら笑う。


「俺、人に説明するの苦手なんだよ。」


 そう言ってから、女を見る。


「どうしよう?」


 女は穏やかに微笑み、


「いつも通りで。」


 とだけ答えた。


 男は「あ、それもそうか」と笑う。


 そして再び短剣を構えた。


「自己紹介は後!」


「まずはあいつを何とかしないとね!」


 そう言って崩れた礼拝堂を指差した。


 その奥から。


 ゆっくりと。


 今までの死者とは比べものにならない禍々しい気配が、静かに溢れ始めていた。


 崩れた礼拝堂の奥。


 闇そのものが呼吸を始めたようだった。


 死者たちが一斉に跪く。


 頭を垂れ、何かを迎えるように。


 バトラスは剣を握る。


 その時。


「行くぞ!」


 銀髪の男が駆け出した。


 一直線に礼拝堂へ。


 バトラスは眉をひそめる。


 迷いがない。


 まるで中にいる者を知っているような動き。


「待て。」


 男は止まらない。


 死者たちの間を縫い、崩れた柱を飛び越えていく。


 バトラスは地を蹴った。


「待てと言った。」


 ケルベロスが横薙ぎに唸る。


 轟音。


 男は振り返りもしない。


 ――消えた。


「!」


 黒い刃は空を斬る。


 次の瞬間。


「危なっ!」


 背後から声。


 振り返る。


 男はいつの間にか五歩後ろに立っていた。


「初対面でそれ振るう!?」


「物騒すぎない!?」


 バトラスは無言。


 再び踏み込む。


 今度は縦一閃。


 男は笑った。


「うわ、また!?」


 姿が霞む。


 いや。


 消えた。


 剣は地面を砕くだけだった。


「……。」


 バトラスは周囲を探る。


 気配が消えた。


 完全に。


 次の瞬間。


「こっちこっち。」


 右。


 声だけがする。


 振り向く。


 誰もいない。


「いや違う違う。」


 今度は左。


「そこ。」


 後ろ。


 また違う。


 男は笑っていた。


「面白い剣だけどさ!」


「話くらい聞こうよ!」


 返事の代わりに鎖が飛ぶ。


 鉄鎖が木々を裂きながら男を襲う。


「うおっ!」


 男は飛び退く。


 その着地点にはもうバトラスがいた。


 拳。


 肘。


 膝。


 重剣だけではない。


 騎士仕込みの近接戦。


「おっと!」


 男は紙一重でかわす。


「強っ!」


「何その体術!」


「お前もだ。」


 初めてバトラスが口を開く。


「その動き。」


「普通ではない。」


「あ、褒められた?」


「違う。」


「違うかぁ。」


 笑う。


 本当に楽しそうだ。


 バトラスは苛立つ。


 この男。


 敵意があるのかないのか分からない。


 戦っている最中ですら笑っている。


「二人とも!」


 凛とした女の声が響く。


「戦っている場合ではありません!」


 青髪の女だった。


 彼女の足元から青白い魔法陣が広がる。


 氷柱が一斉に死者を貫く。


 しかし。


 遅かった。


 礼拝堂の扉が、ゆっくりと開く。


 ギギギ……


 中は闇しかない。


 その闇の奥から。


 老人の笑い声が聞こえた。


「……ほぅ。」


「面白い。」


「面白い。」


「まさか獲物同士で殺し合ってくれるとは。」


 男の笑顔が消えた。


 初めてだった。


 さっきまであれほど笑っていた男から、笑みが消えたのは。


「……間に合わなかったか。」


 小さく呟く。


 バトラスはその横顔を見る。


 さっきまでとは別人のような目だった。


 冗談も。


 笑顔も。


 どこにもない。


 その時。


 礼拝堂の奥から、黒衣を纏った老人がゆっくり姿を現した。


 その両手には、黒い糸。


 何十本もの糸が、死者たちの身体へ繋がっている。


 老人は嬉しそうに笑った。


「さあ。」


「私の作品たちよ。」


「歓迎して差し上げなさい。」


 老人が指先を鳴らした。


 黒い糸が一斉に張り詰める。


 礼拝堂の床が裂け、新たな死者たちが地中から這い上がる。


 腐臭。


 呻き声。


 黒い瘴気。


 空気が重く沈む。


「やっぱり出てきたか。」


 銀髪の男は頭を掻いた。


「嫌な予感って当たるんだよなぁ。」


「下がれ。」


 バトラスが一歩前へ出る。


 男は笑う。


「いやいや、一人じゃ無理だって。」


「全部斬る。」


「数、見えてる?」


「関係ない。」


「嫌いじゃない、その返し。」


 男は肩をすくめた。


「でも俺は痛いの嫌なんだ。」


 その時だった。


 老人の視線が男へ向く。


 初めてだった。


 老人の笑みが変わる。


 愉悦から。


 興味へ。


「……ほぅ。」


 老人はゆっくり首を傾げる。


「なるほど。」


「そういうことですか。」


 男は首をかしげる。


「俺?」


「ええ。」


 老人は一歩前へ出る。


「左目の下。」


「その特殊な十字架の印。」


「見間違えるはずがありません。」


 男の笑みが、ほんの少しだけ薄くなる。


 老人は嬉しそうに笑った。


「ウッドマン。」


「名門ウッドマン家の方でしたか。」


 静寂。


 バトラスが男を見る。


 左目の下。


 確かに、小さな十字架の刺青がある。


 今まで髪で隠れていて気付かなかった。


「これは面白い。」


 老人は舌なめずりをした。


「非常に興味深い。」


「死霊術の名門が、私の研究を邪魔しに来るとは。」


 男は小さく息を吐いた。


「いやぁ。」


「家名で呼ばれるの久しぶり。」


 笑ってはいる。


 だが、その笑顔はどこか冷めていた。


「悪いけどさ。」


「俺、家の看板で戦う趣味ないんだ。」


「そうですか。」


 老人は肩を落とした。


「残念です。」


「ぜひ貴方の身体も研究したかった。」


「断る。」


 男は即答した。


「解剖とか苦手。」


「生きたままでお願いします。」


「それはもっと困ります。」


 バトラスがぽつりと言う。


「相変わらずよく喋る。」


「え?」


 男は笑う。


「今、初めて話しかけてくれた?」


「違う。」


「いや、絶対そう!」


「距離縮まった!」


「縮まっていない。」


「お嬢さん!」


 男が後ろを振り返る。


 青髪の女は静かに頷く。


「いつでも。」


「よし。」


 男は短剣を逆手に持ち替えた。


「じゃあ。」


「初対面だけど息合わせよう。」


 バトラスは老人から目を離さない。


「勝手に決めるな。」


「もう決めた。」


「俺が道を開ける。」


「君が一番硬そうだから正面担当。」


「お嬢さんが援護。」


「異論ある?」


「ある。」


「却下。」


「聞け。」


「はいはい。」


 男は笑った。


「じゃあ始めよう。」


 その瞬間だった。


 男の姿が消える。


 いや。


 影が揺れた。


 バトラスが反応するより早く、男は死者の群れの中央へ立っていた。


「ほら!」


「道なら作る!」


 グレイは死者の群れへ飛び込んだ。


 影が揺れる。


 一歩踏み込んだはずの姿が、次の瞬間には十歩先へあった。


「遅い遅い!」


 短剣が閃く。


 一体。


 また一体。


 首ではない。


 膝でもない。


 死者たちを”倒す”のではなく、“動きを止める”ように腱や関節だけを正確に断っていく。


 群れが崩れた。


「お嬢さん!」


「はい。」


 サラが杖を静かに掲げる。


 青白い魔法陣が地面を走る。


「──氷牢。」


 砕けた石畳を氷が覆い、足を失った死者たちをその場へ縫い付ける。


「さすがお嬢さん。」


「仕事が早い。」


「グレイも。」


「囮が上手です。」


「褒められた。」


 グレイは嬉しそうに笑った。


「じゃあ、もっと頑張ろ。」


 老人はその様子を見て、愉快そうに拍手を送る。


「見事。」


「実に見事です。」


「さすがはウッドマン。」


「死体を扱う技術は、一族の血に刻まれている。」


 その一言で。


 グレイの笑みが消えた。


「……その言い方。」


 初めて声音が低くなる。


「嫌いなんだよね。」


 老人は首を傾げる。


「違いますか?」


「代々、死と共に歩み。」


「代々、人の死体を弄んできた。」


「その名門がウッドマンでしょう。」


「違う。」


 グレイは短く答えた。


「俺たちは。」


 一歩踏み出す。


「死者を弄ぶために術を学ぶんじゃない。」


 老人が笑う。


「ほう?」


「なら何のために?」


「弔うため。」


 静かな声だった。


「死者を眠らせるためだ。」


 礼拝堂が静まり返る。


 サラが少しだけ目を伏せる。


 バトラスも黙ってグレイを見る。


 老人だけが笑っていた。


「綺麗事ですね。」


「死は研究材料です。」


「命は素材です。」


「死体は道具です。」


「違う。」


 グレイは老人を真っ直ぐ見据える。


「だから俺は。」


 短剣を構え直す。


「あんたみたいな死霊術師が嫌いなんだ。」


 老人の笑みが消える。


 指が僅かに動いた。


 その瞬間。


 黒い糸が四方八方からグレイへ襲い掛かった。


「グレイ!」


 サラの声。


 だが。


 グレイは逃げない。


 笑った。


「お兄さん!」


「頼んだ!」


 その一言だけだった。


 バトラスは考えない。


 ケルベロスを握り締め、地を蹴る。


「どけ。」


 グラビティ。


 重剣の重量が消える。


 黒い刃が風を裂く。


 グレイへ伸びる無数の黒い糸を、一太刀でまとめて断ち切った。


 轟音。


 礼拝堂の床が砕ける。


 砂煙の中で、グレイは肩をすくめて笑った。


「助かった。」


「借り一つね。」


「違う。」


 バトラスは剣を構え直す。


「邪魔だっただけだ。」


「はいはい。」


「そういうことにしとく。」


 グレイは吹き出した。


「お嬢さん。」


「聞いた?」


「聞きました。」


「優しい人ですね。」


「違う。」


 バトラスが即座に否定する。


 グレイは腹を抱えて笑った。


「やっぱり面白いなぁ、君。」


 老人は三人を見つめながら、小さく息を吐いた。


「なるほど。」


「少々、侮っていました。」


 黒い糸が再び蠢く。


 今度は礼拝堂中の死者たちが、一斉に立ち上がった。


「では。」


「本当の実験を始めましょう。」


 老人が右手を掲げた。


 黒い糸が指先から広がる。


 一本。


 二本。


 十本。


 百本。


 礼拝堂中に張り巡らされた糸が、一斉に震えた。


 その瞬間だった。


 倒れていた死者たちが、まるで糸に吊られた操り人形のように立ち上がる。


 首が折れていても。


 脚が砕けていても。


 氷に縫い止められていても。


 構わない。


 黒い糸が無理やり身体を動かしていた。


「……面倒。」


 グレイが小さく呟く。


「死体を二度使うなよ。」


 老人は笑う。


「使える物は最後まで使う。」


「それが研究というものです。」


「違う。」


 グレイの声が低くなる。


「それは冒涜だ。」


 老人は鼻で笑った。


「名門ウッドマンが倫理を語るとは。」


「滑稽ですね。」


「我々の一族は。」


 グレイは短剣を握り直す。


「死者を還す。」


「眠れない魂を眠らせる。」


「そのための術を継ぐ。」


 一歩。


 また一歩。


 老人へ歩き始める。


「お前とは。」


「根っこから違う。」


 老人の目が細くなる。


「なら見せてください。」


「名門の術を。」


 その瞬間。


 数十体の死者が一斉にグレイへ襲い掛かった。


「お嬢さん!」


「はい。」


 サラは頷くだけだった。


 彼女は杖を掲げない。


 呪文も唱えない。


 ただ静かに右手を前へ出す。


 青白い光が、礼拝堂を包み込んだ。


「……鎮めなさい。」


 光に触れた死者たちの動きが、一瞬止まる。


 黒い糸が震える。


 老人の表情が初めて変わった。


「馬鹿な。」


「精神へ干渉した……?」


「今です!」


 サラの声。


 グレイは影へ沈む。


 消えた。


 次の瞬間。


 老人の真横。


「遅い。」


 短剣が喉元へ走る。


 ――しかし。


 キィンッ!


 黒い糸が刃を受け止めた。


「惜しい。」


 老人は笑う。


「その程度なら。」


 グレイは舌打ちし、すぐ距離を取る。


「やっぱ硬い。」


「お兄さん!」


 叫ぶ。


 返事はない。


 その代わり。


 轟音。


 老人の背後の壁が砕けた。


 黒い巨剣が、横薙ぎに礼拝堂を薙ぎ払う。


「どけ。」


 バトラスだった。


 老人は慌てて糸を収束させる。


 受け止める。


 しかし。


 重い。


 あまりにも重い。


 石畳が砕け、老人の足が地面へ沈む。


「ぐっ……!」


 その顔を見て、グレイが笑った。


「ほら。」


「重いだろ?」


「だから言ったじゃん。」


「正面担当はあいつだって。」


 老人は初めて焦りを見せる。


 目の前にはバトラス。


 右にはグレイ。


 後方にはサラ。


 三人が自然に三角を作っていた。


 誰も指示していない。


 誰も確認していない。


 それでも互いの立ち位置を理解している。


 老人は小さく息を吐いた。


「なるほど。」


「これは研究対象ではない。」


 黒い瞳が三人を見回す。


「“脅威”ですね。」


 礼拝堂の空気が変わる。


 老人はゆっくりと両手を広げた。


 黒い糸が天井へ伸びる。


 そして。


 礼拝堂そのものが、不気味な音を立て始めた。


 ゴゴゴゴゴ……


 天井の梁が軋み、壁の隙間から黒い瘴気が噴き出す。


 グレイが空を見上げ、小さく笑った。


「……あーあ。」


「建物ごと来る気か。」


 バトラスはケルベロスを握り直す。


 サラも静かに杖を構えた。


 まだ始まりに過ぎない。


 三人は同時に、一歩前へ踏み出した。


 老人は笑う。


「素晴らしい。」


「まるで長年連れ添った仲間のようだ。」


「違うよ。」


 グレイが肩をすくめる。


「初対面。」


「ついさっき会った。」


「ですが。」


 老人は指を鳴らす。


「それも、ここで終わりです。」


 黒い糸が礼拝堂の天井へと走る。


 梁。


 壁。


 祭壇。


 礼拝堂そのものに張り巡らされていた黒い糸が、一斉に脈打った。


 ゴゴゴ……


 石壁が震える。


 砕けた床が盛り上がる。


 礼拝堂全体が、生き物のように軋み始めた。


「建物まで操るのか。」


 バトラスが低く呟く。


「趣味悪いねぇ。」


 グレイは苦笑した。


「お兄さん。」


「正面は任せていい?」


「……。」


 返事はない。


 代わりに、ケルベロスが静かに持ち上がる。


「了解。」


 グレイは勝手に頷いた。


「やっぱりそういう人だ。」


 サラが静かに言う。


「阿吽ですね。」


「いや。」


「全然合ってないよ?」


「俺が一方的に喋ってるだけ。」


 その瞬間。


 礼拝堂の柱が砕けた。


 黒い糸が石材を引き裂き、巨大な腕を形作る。


 石でできた腕。


 その拳が三人へ振り下ろされる。


「来る!」


 グレイが叫ぶ。


 バトラスは動かない。


 ケルベロスを両手で握り締める。


 グラビティ。


 黒い刃が一瞬だけ羽のように軽くなる。


 振り抜く。


 命中。


 同時に重量が解放される。


 轟音。


 石の腕が粉々に砕け散った。


「うわっ!」


 グレイが目を丸くする。


「何それ!」


「反則じゃない!?」


 破片が降り注ぐ。


 サラが杖を掲げた。


「──氷壁。」


 透明な氷が三人の前へ立ち上がる。


 石片が激しくぶつかり、砕け散る。


「助かった。」


 グレイが笑う。


「ありがとう、お嬢さん。」


「どういたしまして。」


 その笑顔を見た老人が鼻で笑う。


「まだ笑えますか。」


「結構。」


 グレイは短剣をくるりと回した。


「笑わないと。」


「お兄さんまで暗くなる。」


 バトラスは老人だけを見据えたまま答える。


「余計な心配だ。」


「ほら。」


 グレイが笑う。


「返事してくれた。」


「距離縮まってる。」


「縮まっていない。」


「はいはい。」


 軽口を叩く。


 だが、その視線だけは老人から外さない。


「……お兄さん。」


 少しだけ声色が変わる。


「あと三秒。」


 バトラスは何も聞き返さない。


「三。」


 グレイが左へ駆ける。


「二。」


 サラが静かに杖を掲げる。


「一。」


 老人が糸を放つ。


「今!」


 その一言だけだった。


 バトラスは地を蹴る。


 グレイは死角へ回り込む。


 サラの氷が黒い糸を凍らせる。


 三人は一切打ち合わせをしていない。


 それでも動きは噛み合った。


 老人の瞳が初めて大きく見開かれる。


「馬鹿な……。」


「なぜ。」


「なぜ初対面で、そこまで合わせられる!」


 グレイは老人の背後へ着地すると、小さく笑った。


「知らない?」


 短剣を構える。


「気の合う奴ってさ。」


「初日から合うんだよ。」


 その瞬間。


 バトラスの重剣が正面から唸りを上げた。


 その瞬間。


 バトラスの重剣が正面から唸りを上げた。


 黒い刃が一直線に老人へ迫る。


「愚か。」


 老人は鼻で笑う。


 黒い糸が幾重にも重なり、壁を作る。


 一枚。


 二枚。


 三枚。


 何十にも折り重なった糸の盾。


 だが。


「軽い。」


 バトラスが呟いた。


 グラビティ。


 ケルベロスの重量が消える。


 巨剣が糸の壁へ滑り込む。


「何ッ!?」


 老人の瞳が見開く。


 抵抗がない。


 軽すぎる。


 その違和感に気付いた時には遅かった。


「終わりだ。」


 命中の瞬間。


 重量が解放される。


 轟ッ!!


 黒い糸が悲鳴を上げるように弾け飛んだ。


 礼拝堂全体が揺れる。


 老人の身体が吹き飛ぶ。


 祭壇へ激突した。


「ぐ……っ!」


 初めて老人が膝をつく。


 だが。


 倒れない。


 口元から血を流しながら笑っている。


「素晴らしい……。」


「本当に素晴らしい。」


「重さを操るとは。」


「実に興味深い。」


 老人が指を動かす。


 切れたはずの黒い糸が再び蠢いた。


「まだやる?」


 グレイが苦笑する。


「しつこいなぁ。」


「研究者ってみんなそうなの?」


 老人は立ち上がる。


 その顔から笑みだけが消えていた。


「ウッドマン。」


「貴方がいる限り。」


「私の研究は完成しない。」


「完成なんかさせない。」


 グレイは静かに答えた。


「死者は眠るべきだ。」


「道具じゃない。」


 老人の額に青筋が浮かぶ。


「黙れッ!!」


 黒い糸が暴れ狂う。


 礼拝堂中の死者たちが一斉に老人の前へ集まる。


 肉。


 骨。


 腕。


 脚。


 黒い糸が縫い合わせる。


 異形の肉塊が生まれようとしていた。


「お兄さん!」


 グレイが叫ぶ。


「今だ!」


 バトラスは頷かない。


 返事もしない。


 ただ。


 剣を握る。


 サラが静かに前へ出た。


「グレイ。」


「はい。」


「十秒だけ。」


「任せます。」


 サラは両目を閉じる。


 礼拝堂の空気が凍り付く。


 彼女の足元から蒼い光が静かに広がっていく。


「──眠りなさい。」


 その声は祈りだった。


 氷ではない。


 殺意でもない。


 慈悲。


 青い光が死者たちを包む。


 黒い糸が悲鳴を上げる。


 死者たちの瞳から黒い光が消えていく。


「なっ……!」


 老人が初めて狼狽した。


「私の支配が……!」


「今です。」


 サラは静かに目を開く。


 バトラスが地を蹴った。


 グラビティ。


 ケルベロスが風を裂く。


 グレイは影のように老人の背後へ回る。


「逃がさない。」


 短剣が黒い糸を断つ。


 老人の逃げ道が消える。


 正面。


 重剣。


「終わりだ。」


 轟音。


 ケルベロスが老人を真正面から叩き潰した。


 床が陥没する。


 祭壇が砕ける。


 黒い糸が、音もなく宙へ散った。


 礼拝堂を覆っていた瘴気が、ゆっくりと晴れていく。


 静寂。


 誰も動かない。


 やがて。


 グレイが短剣を鞘へ納め、大きく息を吐いた。


「終わったぁ……。」


 空を見上げて笑う。


「危なかった。」


「もう少しで死ぬかと思った。」


 バトラスはケルベロスを肩へ担ぐ。


「よく喋る。」


「え?」


 グレイが吹き出す。


「それ、今日三回目。」


「もしかして、お兄さん。」


「俺のこと結構気に入ってる?」


 バトラスは無言で歩き出した。


 その背中を見て、サラが少しだけ微笑む。


「ふふ。」


「違う。」


 バトラスは振り返らず答えた。


「そういうことにしておく。」


 グレイは嬉しそうに笑った。


「それなら十分。」


 礼拝堂に静寂が戻る。


 黒い糸は灰となって崩れ落ち、瘴気もゆっくりと消えていく。


 横たわっていた死者たちも、もう二度と動くことはなかった。


 サラは静かに亡骸の前へ膝をつく。


 胸の前で両手を重ね、小さく祈りを捧げた。


「どうか、安らかに。」


 礼拝堂を柔らかな静けさが包む。


 グレイも帽子を取り、軽く頭を下げた。


 いつもの軽薄な笑みはない。


「……悪かったな。」


「ゆっくり眠って。」


 バトラスはその様子を黙って見つめていた。


 七年前。


 礼拝堂。


 仲間たちの亡骸。


 ミリアム。


 一瞬だけ、記憶が胸をよぎる。


 拳を握る。


 その震えは、すぐに収まった。


「行こうか。」


 グレイがいつもの調子に戻る。


「こんな場所、長居したくないし。」


 サラも立ち上がる。


「賛成です。」


 三人は礼拝堂の外へ向かって歩き始めた。


 崩れかけた扉から陽の光が差し込む。


 冷たい空気とは違う、森の風が頬を撫でた。


「そういえば。」


 グレイが立ち止まる。


「まだ名前聞いてなかった。」


 バトラスも足を止める。


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて、低い声が返る。


「……バトラス。」


 グレイが目を細める。


「バトラスか。」


「いい名前。」


 そう言って、自分の胸を親指で軽く叩いた。


「俺はグレイ。」


「グレイ・ウッドマン。」


 サラも一歩前へ出る。


「サラ・シルヴァです。」


 深く一礼する。


「よろしくお願いいたします。」


 バトラスは小さく頷くだけだった。


「よろしく。」


 その一言だけで十分だった。


 グレイは満足そうに笑う。


「よし。」


「これで他人じゃなくなった。」


「違う。」


 バトラスが即座に返す。


「まだ知り合いだ。」


 一瞬の静寂。


 そして。


 グレイは腹を抱えて笑い出した。


「あはははっ!」


「いいねぇ!」


「そういうとこ好きだよ!」


 サラも口元を押さえ、小さく微笑む。


 森に笑い声が響く。


 バトラスは呆れたように小さく息を吐いた。


 だが。


 その足取りは、礼拝堂へ入る前よりもわずかに軽かった。


 七年間。


 復讐だけを胸に歩き続けた男の隣に。


 いつの間にか二つの足音が並んでいた。


 三人の影は夕暮れの森へ伸びていく。


 その先に待つ運命を、まだ誰も知らない。



 第九話へ続く

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ