ドワーフの里
黒い霧の向こうへ足を踏み入れた瞬間、街道の風景が消えた。
前も後ろもない。
灰色の霧が視界を覆い、足元にあるはずの土さえ曖昧になる。
先を歩くリリスの黒髪だけが、霧の中を漂う影のように揺れていた。
「離れないでね、仔犬」
振り返ることなく、リリスが言った。
「迷えばどうなる」
「さあ?」
「知らないのか」
「知っているけれど、教えたらつまらないでしょう?」
バトラスは小さく息を吐いた。
相変わらずだった。
二年前、霧の館で出会ったときから何一つ変わらない。
気まぐれで、掴みどころがなく、人の生死さえ退屈を紛らわせる遊戯のように眺めている。
それでも、この二年間。
リリスは何度もバトラスの前へ現れた。
傭兵として魔物を狩っている最中。
酒場で一人、安酒を飲んでいる夜。
新しい剣を買った翌日。
そして、その剣を折った直後。
現れる理由は、いつも同じだった。
暇だから。
あるいは、グラビティとの繋がりを整えるための調律。
どちらにせよ、バトラスに拒否権はなかった。
「その男は、本当に俺の剣を打てるのか」
霧の中を進みながら尋ねる。
「ええ」
リリスは即答した。
「世界でたった一人。あなたの無茶な力に耐えられる剣を打てる鍛冶師よ」
「ずいぶん信用しているんだな」
「あら。私が他人を信用しているように見える?」
「見えない」
「正解」
くすりと笑い、リリスは細い指を前へ向けた。
「グラムは信用できる男ではないわ。ただ、腕だけは確か」
「それを信用していると言うんじゃないのか」
「違うわ」
リリスは振り返る。
金色の瞳が、霧の中で淡く輝いた。
「三百年以上も頑固でいられる男なんて、信用するより扱い方を覚えた方が早いの」
三百年。
人の寿命を遥かに超える年月だった。
「ドワーフは皆、それほど長く生きるのか」
「いいえ。グラムが特別しぶといだけ」
「本人の前でも言うのか」
「もちろん」
リリスは楽しそうに笑った。
霧が少しずつ薄くなっていく。
やがて、冷たい風がバトラスの頬を撫でた。
眼前に巨大な山脈が現れる。
黒い岩肌が天を突き、山頂は厚い雲に覆われていた。
その切り立った崖の中央に、巨大な門が埋め込まれている。
鉄と岩を組み合わせた門。
人間の城門よりも遥かに分厚く、表面には無数の槌と炎の紋章が刻まれていた。
門の上部からは幾本もの煙突が伸び、黒煙を吐き出している。
山の内側から、低い振動が伝わってきた。
槌が鉄を打つ音。
幾つも。
何十も。
一定の間隔で重なり合い、まるで巨大な獣の鼓動のように大地を震わせている。
「ここが……」
「ドワルド」
リリスが両手を広げた。
「大陸で最も古い、ドワーフの里よ」
門の両脇には、重装備のドワーフが立っていた。
人間よりも低い背丈。
だが、その身体は岩を削り出したかのように分厚い。
長い髭を金属の輪で束ね、手には人間の胴ほどもある戦斧を持っている。
二人は近づいてくるバトラスを見て、同時に武器を構えた。
「止まれ!」
低い声が山間に響く。
「人間が何の用だ」
バトラスは立ち止まった。
隣のリリスは、まるで自分には関係のない話だというように鼻歌を口ずさんでいる。
「おい」
「何?」
「お前が連れてきたんだろう」
「そうだったかしら」
門番の一人が、リリスの顔を見て目を凝らす。
そして、その表情がみるみるうちに険しくなった。
「……まさか」
もう一人のドワーフも、金色の瞳と黒髪に気づいたらしい。
「霧の魔女……リリスか」
「あら、覚えていてくれたのね」
リリスは優雅に微笑んだ。
「嬉しいわ」
「帰れ!」
即座に返ってきた。
リリスの笑みが僅かに固まる。
「随分な歓迎ね」
「お前が前に来たとき、酒蔵を一つ空にしただろう!」
「誤解よ」
「何が誤解だ!」
「空にしたのは私じゃないわ。グラムよ」
「煽ったのはお前だ!」
バトラスは黙って二人のやり取りを眺めた。
どうやら顔馴染みという話に嘘はないらしい。
歓迎されているかどうかは別として。
「今日は遊びに来たんじゃないの」
リリスはバトラスの肩へ手を置いた。
「この仔犬をグラムに会わせに来たのよ」
「仔犬?」
門番たちの視線がバトラスへ移る。
右目の眼帯。
使い込まれた外套。
腰へ下げた、刃に亀裂の入った間に合わせの剣。
首元から覗く、荊の契約印。
そして外套の隙間から見える、胸から左腕へ続く三つ首の猟犬。
「人間の傭兵に、グラム殿が会うと思うか」
「会うわ」
リリスは断言した。
「なぜ言い切れる」
「この男が、面白い剣を必要としているから」
門番が鼻を鳴らした。
「人間の剣など、地上の鍛冶屋に打たせればいい」
「それができないから来たのよ」
リリスはバトラスの腰から、亀裂の入った剣を勝手に抜いた。
「おい」
「少しくらい貸して」
刀身を指先で軽く弾く。
澄んだ音ではない。
内部から押し潰されたような、鈍く歪んだ音がした。
「この男、普通の剣なら何を持たせても壊してしまうの」
「粗悪品だっただけだろう」
「十六本」
門番の眉が動いた。
「二年で十六本よ。中には王都の鍛冶師が打った業物もあったわ」
リリスはひび割れた刀身を門番へ放った。
ドワーフは片手で受け取り、亀裂へ目を近づける。
最初は険しかった顔が、徐々に変わっていく。
「これは……」
刃こぼれではない。
何かに叩き折られた痕でもない。
刀身の芯そのものが、内側から耐え切れずに潰れている。
「どんな振り方をすれば、鋼がこうなる」
門番がバトラスを睨む。
「振り方の問題じゃないわ」
リリスが答えた。
「この仔犬は、重さそのものを変えるの」
空気が変わった。
二人のドワーフが、無言でバトラスを見る。
「魔法か」
「違う」
バトラスが答えた。
「グラビティだ」
門番は顔を見合わせた。
その名が何を意味するのか、正確には理解していないのだろう。
だが、剣の壊れ方を見れば、ただの魔法ではないことだけは分かる。
しばらくの沈黙の後、一人が門の脇にある鉄板を三度叩いた。
重い音が響く。
やがて、巨大な門がゆっくりと開き始めた。
隙間から熱気が吹き出す。
炎。
煙。
鉄を打つ轟音。
山の内部には、想像を遥かに超える都市が広がっていた。
岩壁を削って造られた建物。
溶岩を導く水路。
巨大な歯車と滑車。
頭上を走る鉄の橋。
至るところで炉が燃え、赤い火の粉が夜空の星のように舞っている。
「入れ」
門番が剣を返した。
「ただし、グラム殿が会うとは限らん」
「会うわよ」
リリスが先に門をくぐる。
「だって、もう気づいているもの」
バトラスは眉を寄せた。
「何にだ」
「あなたが来たことに」
その瞬間だった。
山の奥深くから、ひときわ大きな音が響いた。
――ゴォン。
他の槌音とは明らかに違う。
一度だけ。
大地の芯を叩くような、重く澄んだ音。
周囲で働いていたドワーフたちが、一斉に手を止めた。
リリスは満足そうに微笑む。
「ほらね」
遥か奥。
巨大な炉の炎が燃え上がる。
その前に、小柄な影が立っていた。
白銀の髭を腰まで垂らし、巨大な槌を片手に持つ老ドワーフ。
距離があるにもかかわらず、その視線だけが真っ直ぐにバトラスを射抜いていた。
「……また厄介なものを連れてきおったな」
低い声が、轟音に満ちた里の中を通り抜ける。
「リリス」
その名を呼ぶ声には、懐かしさよりも明らかな疲労が滲んでいた。
リリスは気にした様子もなく、片手を上げる。
「久しぶりね、グラム」
「百年ほど顔を見せんでも構わんと言ったはずじゃ」
「あら、私に会えなくて寂しかったの?」
「その耳は飾りか」
グラムは巨大な槌を肩へ担ぎ、ゆっくりと歩いてきた。
近づいて初めて、その身体に刻まれた年月が見えた。
日に焼けた顔には深い皺が走り、片方の耳は半ばから欠けている。白銀の髭は腰まで伸び、幾つもの鉄輪で束ねられていた。
背丈はバトラスの胸ほどしかない。
だが、肩も腕も異様なほど太い。
炎と鉄の中で三百年以上を生きてきた肉体は、老いてなお岩の塊を思わせた。
グラムはリリスの前で足を止めると、金色の瞳を睨んだ。
「今度は何を壊しに来た」
「失礼ね。今日はお願いがあって来たのよ」
「お前の頼みほど、ろくでもないものはない」
「まだ何も言っていないでしょう?」
「言われんでも分かる」
グラムの視線が、リリスの隣に立つバトラスへ移る。
眼帯。
使い込まれた外套。
腰に下げた、亀裂だらけの両手剣。
そして、首元から覗く黒い荊の契約印。
グラムは目を細めた。
「……人間」
「見れば分かるわ」
「黙れ」
短く言い捨てると、グラムはバトラスの前まで歩み寄った。
見上げるような格好にもかかわらず、その眼差しには不思議な威圧感があった。
「名は」
「バトラス・レイヴン」
「職は」
「傭兵だ」
「それだけか」
バトラスは答えなかった。
グラムの視線が、外套を留める古びた金具に止まる。
そこには擦れ、欠けながらも、獅子の紋章が残っていた。
「その紋章……」
グラムの声が低くなる。
「蒼銀の獅子騎士団か」
「ああ」
「もう存在しない」
バトラスは淡々と答えた。
「五年前、俺を残して全滅した」
槌音が響く。
火花が散る。
騒がしいはずの里の中で、三人の間だけが切り離されたように静まり返った。
「誰にやられた」
グラムが尋ねた。
バトラスの左手が、無意識に拳を作る。
「剣の侯爵」
その名を口にした瞬間。
グラムの瞳が僅かに揺れた。
「アスモデウスだ」
背後の炉が爆ぜた。
赤い火の粉が、白銀の髭の向こうを舞い落ちる。
グラムは何も言わない。
ただ、バトラスの顔をじっと見つめていた。
失われた右目。
深く沈んだ左の瞳。
憎しみと、疲労と、死を恐れぬ者だけが持つ静けさ。
「……そうか」
やがて、それだけを呟いた。
リリスが横から口を挟む。
「この仔犬に剣を打ってほしいの」
「断る」
即答だった。
リリスがわざとらしく目を瞬く。
「まだ説明していないわ」
「聞く必要がない」
グラムはバトラスへ背を向けた。
「人間の剣なら、人間の鍛冶屋に頼め」
「それが無理だから、ここまで連れてきたのよ」
「無理とは何じゃ」
リリスは門番から返された剣を、バトラスの腰から抜き取った。
そのままグラムへ差し出す。
「見れば分かるでしょう?」
グラムは不機嫌そうに剣を受け取った。
刃を眺める。
亀裂へ爪を当てる。
柄を握り、刀身を炉の光へ翳す。
先ほどまでの苛立ちが消えていく。
「これは……」
グラムは親指で刀身を叩いた。
鈍く歪んだ音が返る。
「外から折られた傷ではない」
「ああ」
バトラスが答える。
「振っただけで、そうなった」
「何を斬った」
「山賊だ」
「嘘をつけ」
「嘘ではないわ」
リリスが楽しそうに笑う。
「山賊を数人吹き飛ばして、その剣は死んだの」
グラムは剣を裏返し、内部の歪みを確かめる。
「鋼の芯が潰れておる。刃に掛かった力へ、素材そのものが耐えられなかったのか」
「十六本目よ」
「……何?」
「この二年で折った剣の数」
グラムはゆっくりと顔を上げた。
「貴様、何をした」
「重さを変えた」
バトラスは答えた。
「振るときは軽く。斬る瞬間に重くする」
「重量を操る魔法か」
「魔法ではないわ」
リリスの声から、からかうような調子が消えた。
「この男が触れているのは、グラビティ」
「世界のことわりそのものよ」
グラムの目が鋭くなる。
「ことわりを……人間に与えたのか」
「ええ」
「正気か、魔女」
「退屈だったの」
「その一言で世界を壊す気か!」
「まだ壊れていないでしょう?」
「まだ、な!」
グラムが怒鳴る。
周囲のドワーフたちが一瞬こちらを見るが、すぐに作業へ戻った。
この二人の口論は珍しいことではないらしい。
リリスは肩をすくめた。
「いやだわ、心配性ねぇ」
「お前が考えなしなのじゃ!」
「考えたわよ。少しは」
「少しか!」
バトラスは二人を眺めながら、低く口を開いた。
「剣を打てないなら帰る」
グラムの怒声が止まった。
「無理に頼むつもりはない」
バトラスは亀裂の入った剣をグラムの手から受け取る。
「俺は別の剣を探す」
「また折るだけじゃ」
「折れたら、また探す」
「いつまでじゃ」
「アスモデウスを殺すまで」
静かな言葉だった。
だが、そこには一片の迷いもなかった。
グラムは、再びバトラスを見つめる。
「剣さえあれば、奴を殺せると思っておるのか」
「思っていない」
「ならば、なぜ剣を求める」
「俺の力に耐えられない剣では、奴の前まで辿り着けない」
バトラスは折れかけた刀身を見下ろした。
「これは復讐を果たすための道具だ」
「英雄になるつもりも、名を残すつもりもない」
「ただ一度」
左目に暗い炎が灯る。
「奴の首へ届けばいい」
グラムは黙り込んだ。
その目に、百年前の誰かを見ているかのような影が差す。
「……同じ目をしおる」
小さな呟きは、槌音に掻き消された。
「何か言ったか」
「何も言っておらん」
グラムは踵を返す。
「ついてこい」
バトラスは動かなかった。
「剣は打たないんじゃなかったのか」
「打つとは言っておらん」
グラムは振り返らずに答えた。
「貴様の力が、本当にことわりへ触れているのか確かめる」
「わしの炉の前で嘘は通じん」
リリスが嬉しそうに微笑んだ。
「素直じゃないのよ、このお爺ちゃん」
「聞こえておるぞ、魔女!」
「あら、耳は飾りじゃなかったのね」
グラムは苛立たしげに歩き続ける。
二人の後を追い、バトラスは工房の奥へ入った。
外の炉とは比べものにならない熱気が押し寄せる。
壁には無数の剣、斧、槍が並び、そのどれもが一目で並の武器ではないと分かった。
さらに奥。
三重の鉄扉で閉ざされた部屋の前で、グラムは足を止める。
腰から黒い鍵を取り出し、一つずつ錠を外していく。
「この奥にあるものへ触れるな」
「触れればどうなる」
バトラスが尋ねる。
「腕が潰れる」
「脅しか」
「忠告じゃ」
三つ目の扉が開く。
冷たい空気が流れ出した。
灼熱の工房の奥にあるとは思えない、凍りつくような空気だった。
部屋の中央には、鎖で幾重にも固定された黒い鉱石が置かれている。
光を吸い込むような漆黒。
大きさは、人間の頭ほどしかない。
しかし、それを支える石床には蜘蛛の巣状の亀裂が走っていた。
グラムは鉱石を見据える。
「古代鉱石――ブラックアダマンタイト」
「世界で最も硬く」
「世界で最も重い鉱石じゃ」
バトラスの左目が細くなる。
グラムは振り返り、挑むように言った。
「これを扱えると証明してみせろ」
「できぬなら、剣の話はここで終わりじゃ」
グラムの言葉に、バトラスは無言でブラックアダマンタイトを見つめた。
人間の頭ほどの黒い塊。
ただ置かれているだけだというのに、石床には幾重もの亀裂が走っている。鉱石を固定する太い鎖も、張り詰めたまま軋み続けていた。
「どれほど重い」
「量る道具が壊れた」
グラムは腕を組む。
「およそ、という数字すら出せん。この一塊を運ぶために、ドワーフが二十人と荷車を三台潰した」
「ずいぶん乱暴な運び方ね」
リリスが横から口を挟む。
「お前が霧で運べば済んだ話じゃろうが」
「嫌よ。重そうだもの」
「重さを気にする魔女があるか!」
「気分の問題よ」
グラムは額に青筋を浮かべたが、すぐにバトラスへ向き直った。
「ただ軽くするだけでは認めんぞ」
「何をさせる」
「あの台へ移せ」
グラムが指した先には、部屋の奥に据えられた巨大な金床があった。
黒鉄を何層にも重ねた、ドワーフの腰ほどの高さの金床。
その脚部には複雑な紋様が刻まれ、床へ深く打ち込まれている。
「持ち上げ、運び、あの金床の中央へ置け」
「それだけか」
「壊さずにな」
バトラスの左目が細くなる。
ブラックアダマンタイトを軽くするだけなら難しくない。
問題は、その後だ。
軽くしたままでは、素材本来の重さを感じられない。戻すのが早ければ金床が砕け、遅ければ鉱石が滑り落ちる。
要求されているのは力ではない。
精度だった。
「なるほど」
リリスが楽しそうに微笑む。
「意地悪な試験ね」
「お前が与えた力じゃ。どれほど使いこなしておるか、見極めるのは当然じゃろう」
「二年前なら潰れていたかもしれないわ」
「今は違うと?」
リリスはバトラスを見る。
「さあ?」
金色の瞳が悪戯っぽく細められる。
「壊れた方が面白いもの」
「お前は黙っておれ」
バトラスは外套を脱ぎ、近くの台へ置いた。
胸から左腕へ刻まれた三つ首の猟犬が、冷たい部屋の中に露わになる。
グラムの視線が一瞬、その刺青に止まった。
だが、今は何も言わなかった。
バトラスはブラックアダマンタイトの前へ歩み寄る。
近くに立つだけで、足元から圧力を感じた。
重い。
単なる物体の重さではない。
大地そのものが、この鉱石を離すまいと掴んでいるようだった。
「鎖は外さなくていいのか」
「自分で考えろ」
グラムは答えない。
バトラスは腰を落とし、黒い表面へ左手を置いた。
冷たい。
炉の近くに保管されているにもかかわらず、氷へ触れたような冷気が掌へ染み込んでくる。
深く息を吸う。
意識を沈める。
重さを消すのではない。
世界へ命じる。
――軽くなれ。
空気が微かに震えた。
鉱石を固定していた鎖が、甲高い音を立てて緩む。
石床を押し潰していた圧力が消え、亀裂から細かな粉塵が舞い上がった。
バトラスは片手に力を込める。
ブラックアダマンタイトが、ゆっくりと床から離れた。
グラムの眉が僅かに動く。
「ほう」
見た目は小さな岩塊。
今は、木片ほどの重さしか感じない。
バトラスは鉱石を両手で抱え、金床へ向かう。
その途中。
「止まれ」
グラムの声が飛んだ。
バトラスが足を止める。
「軽くするだけでは、剣にはならん」
「分かっている」
「なら、その場で本来の重さへ戻してみろ」
リリスが目を細めた。
「それをしたら、床が抜けるわよ」
「抜かせぬための試験じゃ」
「性格が悪いわね」
「お前にだけは言われとうない」
バトラスは腕の中の鉱石を見下ろした。
本来の重量へ一気に戻せば、支え切れない。
自分の腕が潰れるより先に、床ごと落ちるだろう。
必要なのは、重さを段階的に戻しながら、落下しようとする力だけを抑えること。
重さと支える力。
二つを同時に操る。
これまでの二年間、剣を振るう中で何度も繰り返してきた。
刃を軽くする。
切っ先だけを重くする。
柄へ掛かる負荷を逃がす。
衝突の直前に重量を戻し、直後には再び軽くする。
失敗するたびに、剣が折れた。
腕が裂けた。
肩の骨が軋んだ。
それでもやめなかった。
バトラスは呼吸を整える。
鉱石の重さを、ほんの僅かだけ戻した。
腕へ圧力が掛かる。
足元の床が軋む。
さらに戻す。
両肩へ、巨大な獣がのしかかったような重みが加わった。
額から汗が流れる。
それでも、鉱石は落ちない。
もう一段階。
石床に新たな亀裂が走った。
「仔犬」
リリスの声が響く。
「重さに耐えようとしないで」
バトラスは答えない。
「あなたが支える必要はないわ」
二年前にも聞いた言葉だった。
重さを操るな。
世界へ命じろ。
バトラスは左目を閉じる。
腕の力を抜いた。
グラムが目を見開く。
ブラックアダマンタイトが、バトラスの掌から離れた。
だが、落ちなかった。
黒い鉱石は空中で静止していた。
本来の重さを取り戻しながら。
大地へ落ちようとする力だけを、グラビティが押し留めている。
部屋全体が低く唸る。
壁に掛けられた道具が震え、鎖がぶつかり合う。
グラムの白銀の髭が、見えない圧力に煽られた。
「……重さを消したのではない」
グラムが呟く。
「重いまま、落下を止めておるのか」
「ああ」
バトラスは左手を伸ばす。
掌の動きに従い、鉱石がゆっくりと前へ進んだ。
一歩。
また一歩。
空中を滑るブラックアダマンタイトの下で、石床が圧力に耐え切れず沈んでいく。
金床まで、あと僅か。
バトラスは指先を下げた。
鉱石がゆっくりと下降する。
金床へ触れる直前で止める。
ここからが最も難しい。
すべての重さを一気に預ければ、いかに頑丈な金床でも耐えられない。
バトラスは鉱石の重さを細かく分けた。
一。
二。
三。
脈を打つたび、少しずつ世界へ返していく。
金床が低く軋んだ。
脚部の紋様が赤く光り、床へ重圧を逃がしていく。
さらに重さを戻す。
バトラスの鼻から、一筋の血が流れた。
リリスの笑みが消える。
「仔犬」
「黙っていろ」
短く言い、意識を鉱石へ集中する。
あと僅か。
重さを戻しながら、金床へ掛かる力を均等に分散させる。
中心だけではない。
四本の脚。
床。
さらに、その下にある岩盤へ。
力の流れを感じ取る。
ブラックアダマンタイトが、完全に金床へ載った。
――ゴォン。
深い音が部屋に響く。
金床は砕けなかった。
床も抜けていない。
鉱石だけが、何事もなかったかのように中央へ鎮座していた。
バトラスはゆっくりと手を下ろす。
呼吸が荒い。
左腕が僅かに震えている。
「これでいいか」
グラムは答えなかった。
金床へ近づき、ブラックアダマンタイトの位置を確かめる。
中央から、指一本分もずれていない。
傷一つない金床を叩き、床の亀裂を確認する。
やがて、グラムは鼻を鳴らした。
「気に入らんな」
「何がだ」
「人間のくせに、わしの想像を超えおった」
リリスがくすりと笑う。
「だから連れてきたのよ」
「黙れ。まだお前を許したわけではない」
「許してもらおうと思っていないもの」
グラムは金床の上の鉱石へ手を置いた。
皺だらけの掌で、黒い表面をゆっくりと撫でる。
「ブラックアダマンタイトは、ただ硬いだけの鉱石ではない」
「熱を拒み、槌を拒み、削られることすら拒む」
「この三百年、わしの炉に眠り続けてきた」
グラムはバトラスを振り返る。
「こいつで剣を打とうとした者は大勢おった」
「王も、英雄も、欲に目の眩んだ貴族もな」
「だが、誰一人として持ち上げることすらできなんだ」
「俺は持ち上げた」
「それだけではない」
グラムの目に、鍛冶師の鋭い光が宿る。
「貴様は、この鉱石の重さを殺さなかった」
「重さを残したまま、従わせた」
グラムは巨大な槌を持ち上げ、その柄を床へ打ちつけた。
「よかろう」
重い音が響く。
「打ってやる」
バトラスの左目が僅かに見開かれる。
「俺の剣をか」
「勘違いするな」
グラムは険しい顔のまま言った。
「わしが打ちたいと思ったのは貴様ではない」
「この鉱石が、どのような剣になるのか見たくなっただけじゃ」
「同じことじゃない?」
リリスが口を挟む。
「違う!」
グラムは怒鳴り返し、再びバトラスを見る。
「ただし、条件がある」
「言ってみろ」
「鍛造が終わるまで、この里を出るな」
「何日掛かる」
「分からん」
「十日かもしれん。ひと月かもしれん。炉がこいつを拒めば、一年掛かる」
「構わない」
バトラスは即答した。
グラムは試すように目を細める。
「それと、もう一つ」
その声が、低くなる。
「剣が完成するまでに、貴様には聞いてもらう」
「何をだ」
グラムの視線が、バトラスの失われた右目へ向けられた。
「剣の侯爵アスモデウスのことを」
バトラスの表情が固まる。
リリスは何も言わない。
金色の瞳から、先ほどまでの戯れた光が消えていた。
「奴を知っているのか」
「知っておる」
グラムは静かに答える。
「今の名ではなく」
「悪魔へ魂を売る前の、あの男をな」
炉の奥で、炎が大きく揺れた。
百年間、灰の下へ隠されていた名が。
グラムはブラックアダマンタイトへ背を向けると、工房のさらに奥へ歩き出した。
「ついてこい」
バトラスは無言で後を追う。
リリスも足音一つ立てず、その隣へ並んだ。
三人が辿り着いたのは、炉から離れた小さな部屋だった。
壁には武器も道具もない。
中央に古びた木の卓と、三脚の椅子が置かれているだけ。
ただ一つ。
正面の石壁に、一本の剣を象った古い紋章が刻まれていた。
剣の周囲を、黒い茨が絡みつくように覆っている。
バトラスは紋章を見つめた。
「これは」
「ダインスレイフ」
グラムが答えた。
「百年前、わしが打った魔剣じゃ」
その名を聞いた瞬間、バトラスの左目が鋭く細められた。
忘れるはずがない。
五年前。
礼拝堂で蒼銀の獅子騎士団を斬り伏せた、あの黒い剣。
仲間たちの血を吸い。
ミリアムの命を奪い。
自分の右目を奪った魔剣。
「アスモデウスが持っていた剣だ」
「ああ」
グラムは椅子へ腰を下ろした。
「わしが奴に渡した」
バトラスの拳が固く握られる。
それに気づきながら、グラムは目を逸らさなかった。
「なら、お前が……」
「剣を打った者にも、斬った罪があると言いたいか」
低い声だった。
バトラスは答えない。
グラムも弁明しなかった。
「そうかもしれん」
白銀の髭を撫でながら、静かに続ける。
「どれほど優れた剣を打とうと、誰の手へ渡すかを誤れば、そいつは人を守る刃ではなくなる」
「わしは長く生きた」
「その中で多くの武器を打った」
「王の剣も、英雄の槍も、名もなき兵士の斧もな」
「じゃが――」
グラムの視線が、壁に刻まれたダインスレイフへ向く。
「後悔しておる剣は、あれ一本だけじゃ」
炉の音が遠く響く。
バトラスはグラムの正面に立ったまま尋ねた。
「悪魔へ魂を売る前の奴を知っていると言ったな」
「知っておる」
「何者だった」
グラムは、すぐには答えなかった。
深く息を吐き、百年の時を遡るように目を閉じる。
「レオン・ダナス」
初めて聞く名だった。
「百年前、この王国に一人の騎士がおった」
「剣の腕は比類なく、戦場では誰よりも先に立ち、誰よりも最後まで残る男じゃった」
「その背を見れば兵は奮い立ち、その剣を見れば敵は退いた」
「王国では、英雄と呼ばれておった」
グラムが目を開く。
その瞳が、バトラスの外套に残る獅子の紋章へ向けられた。
「そして、レオン・ダナスこそ――」
「蒼銀の獅子騎士団を創設した、初代団長じゃ」
バトラスの表情が止まった。
槌の音が一つ、遠くで響く。
「……何だと」
「聞こえんかったか」
「レオン・ダナスは、貴様と同じ蒼銀の獅子を率いた男じゃ」
バトラスは言葉を失った。
礼拝堂で微笑んでいた男。
仲間たちを虫のように斬り捨てた魔族。
剣の侯爵アスモデウス。
その男が、かつて蒼銀の獅子騎士団長だった。
自分と同じ紋章を背負い。
自分と同じ場所に立っていた。
肖像画に見覚えがあった理由がわかった。
でも…。
「嘘だ」
絞り出した声に、力はなかった。
「奴は蒼銀の獅子を皆殺しにした」
「知っておる」
「自分が作った騎士団を、なぜ……」
「憎んでおるからじゃ」
グラムの声が重く落ちた。
「騎士団を」
「王国を」
「自分が命を懸けて守った、すべてをな」
バトラスの脳裏に、アスモデウスの言葉が蘇る。
いい。
ならば、お前だけは最後まで立っていろ。
あのとき。
奴は自分を見ていたのではない。
百年前の自分自身を見ていたのではないか。
「何があった」
バトラスが尋ねる。
「なぜ、英雄が悪魔になった」
グラムは両手を組み、卓の上へ置いた。
「裏切られたのじゃ」
短い言葉だった。
だが、その奥には、百年を経ても消えない重さがあった。
「誰にだ」
「仲間たちに」
バトラスの左目が揺れる。
「レオンが命を預け、家族と呼び、共に王国を守ってきた者たちじゃ」
「奴らはレオンを陥れた」
「功績を奪い、名誉を汚し、守るべき国から追われる身へ落とした」
「なぜだ」
「英雄が眩し過ぎたのじゃろう」
グラムは吐き捨てるように言った。
「嫉妬する者がおった」
「恐れる者がおった」
「レオンの力を利用し、用が済めば捨てようとする者がおった」
「だが、最も奴を壊したのは理由ではない」
グラムの声が低くなる。
「裏切ったのが、敵ではなかったことじゃ」
バトラスは何も言えなかった。
敵に傷つけられるより。
信じた者に背を刺される方が深く残る。
それは、理解できてしまった。
「レオンはすべてを失った」
「名も」
「居場所も」
「共に戦った仲間も」
「そして、人を信じる心もな」
「奴は最後まで抗った」
「真実を明らかにしようとした」
「それでも誰一人、英雄の言葉を信じなかった」
グラムは拳を握る。
「やがてレオンは悟った」
「自分が守った者たちは、真実など求めておらんとな」
「必要なのは、自分たちに都合のいい英雄か」
「あるいは――すべての罪を背負わせる悪人だけじゃとな」
バトラスの胸に、冷たいものが沈んでいく。
「その後、悪魔が現れた」
「名も知らぬ、古き悪魔じゃ」
「奴はレオンへ力を差し出した」
「復讐するための力を」
「代わりに求めたのが、魂か」
「ああ」
グラムは頷いた。
「レオン・ダナスは、人として生きることを捨てた」
「己を裏切ったすべてを滅ぼすために」
「そして七侯爵の一角――」
「剣の侯爵アスモデウスとなった」
部屋の中に沈黙が落ちた。
バトラスは壁の紋章を見つめる。
「ダインスレイフは、いつ渡した」
「奴がまだレオンだった頃じゃ」
グラムの瞳に、遠い日の光景が映る。
「当時のレオンは、真っ直ぐな男じゃった」
「剣は人を殺すためのものではない」
「己の背後にいる者を守るためのものだと、本気で信じておった」
「だから、わしはダインスレイフを託した」
「この男なら、剣に呑まれることはないとな」
グラムは自嘲するように鼻を鳴らした。
「三百年生きても、見誤るときはある」
「レオンは剣に呑まれたのではない」
それまで黙っていたリリスが口を開いた。
金色の瞳は、壁の紋章を静かに見つめている。
「人に壊されたのよ」
グラムがリリスを睨む。
「分かっておる」
「なら、剣のせいにするのはおやめなさい」
「黙って聞いておれ、魔女」
「珍しく真面目に聞いているでしょう?」
バトラスはリリスへ顔を向けた。
「お前も知っていたのか」
「ええ」
ためらいのない返事だった。
「レオン・ダナスのことも」
「奴が初代団長だったこともか」
「全部知っていたわ」
バトラスの声が低くなる。
「なぜ黙っていた」
「あなたが訊かなかったから」
「ふざけるな」
室内の空気が重く沈む。
卓が低く軋み、床の埃が僅かに浮かび上がった。
無意識に、グラビティが漏れている。
それでもリリスは動じない。
「先に答えを教えたら、つまらないでしょう?」
「俺は遊んでいるんじゃない」
「私は遊んでいるのよ」
金色の瞳が、真っ直ぐにバトラスを映す。
「最初からそう言っているでしょう、仔犬」
バトラスの拳が震える。
だが、リリスは微笑まなかった。
「それに」
いつもより静かな声音で続ける。
「レオンの過去は、私が語るより、この頑固者から聞いた方がいい」
「グラムは、英雄だった頃の彼を知っている」
「剣を託した者の言葉には、私の退屈しのぎより少しだけ重みがあるもの」
「少しだけとは何じゃ」
「そこに食いつくのか」
グラムは鼻を鳴らし、バトラスへ視線を戻した。
「貴様に話したのは、同情してほしいからではない」
「奴が哀れな過去を持つから、復讐を諦めろとも言わん」
「奴が何者であろうと」
「貴様の仲間を殺した事実は変わらん」
「ああ」
バトラスは即座に答えた。
「奴が英雄だったとしても」
「裏切られた被害者だったとしても」
「ミリアムたちを殺した罪は消えない」
左目に、再び暗い炎が灯る。
「俺は奴を殺す」
「何を知っても、それは変わらない」
グラムはバトラスの顔を見つめた。
「そう言うと思ったわ」
「なら、なぜ話した」
「貴様が、同じ道を歩いておるからじゃ」
バトラスの眉が僅かに動く。
「同じ騎士団を率い」
「仲間を失い」
「復讐だけを支えに生きておる」
「今の貴様は、百年前のレオンと同じ目をしている」
グラムは立ち上がった。
「わしは二度も、同じ目をした男へ剣を渡そうとしておる」
「だから聞かねばならん」
皺に覆われた顔が、厳しくバトラスを見上げる。
「バトラス・レイヴン」
「復讐を果たしたあと、貴様には何が残る」
バトラスは答えなかった。
答えられなかった。
アスモデウスを殺した後の自分など、考えたこともない。
五年前から。
自分の時間は、礼拝堂で止まったままだ。
「何もなくていい」
ようやく出た言葉は、それだけだった。
「奴を殺せるなら」
「その後、俺がどうなろうと構わない」
グラムは目を閉じる。
「……やはり同じじゃ」
「俺と奴は違う」
「何が違う」
「俺は、仲間を裏切らない」
バトラスの声に迷いはなかった。
「憎しみのために、罪のない者を斬ることもしない」
「アスモデウスを殺すために必要なら戦う」
「だが、奴のようにはならない」
グラムは長い間、何も言わなかった。
やがて椅子の横へ立てていた槌を握る。
「その言葉を忘れるな」
「貴様が忘れても、剣は覚えておる」
グラムは部屋を出た。
バトラスとリリスも後へ続く。
工房へ戻ると、金床の上ではブラックアダマンタイトが変わらぬ姿で鎮座していた。
グラムは炉の前へ立ち、いくつもの弁を開く。
炎が青く変わった。
さらに赤く。
最後には、白く輝き始める。
ドワーフたちが次々と集まり、道具を運び込む。
巨大な鋏。
太い鎖。
何重もの耐熱布。
そして、人間の背丈ほどある鍛造槌。
「始めるぞ!」
グラムの声が工房中へ響いた。
ドワーフたちが一斉に動き出す。
ブラックアダマンタイトへ鎖が巻かれ、灼熱の炉へ運び込まれていく。
だが、白い炎に呑まれても、黒い鉱石は色一つ変えなかった。
「本当に打てるのか」
バトラスが尋ねる。
「打てるかではない」
グラムは上着を脱ぎ捨てた。
老いた身体に刻まれた無数の火傷と古傷が露わになる。
「打つのじゃ」
巨大な槌を両手で構える。
「かつてわしは、ダインスレイフを打った」
「あの剣は、英雄と共に魔へ堕ちた」
グラムの目が炎を映す。
「ならば今度は――」
「魔へ堕ちた英雄を討つ剣を、この手で打つ」
槌が振り上げられる。
その瞬間、リリスがバトラスの隣で小さく笑った。
「長くなりそうね」
「どれほど掛かる」
「さあ」
金色の瞳が、白い炎の向こうを見つめる。
「伝説が生まれるまでよ」
グラムの槌が、ブラックアダマンタイトへ叩きつけられた。
――ゴォン。
山全体が震えた。
ダインスレイフに対抗する、名もなき黒剣。
その最初の鼓動が。
ドワルドの最深部へ、重く鳴り響いた。
それから幾日もの間。
グラムの工房から槌音が途絶えることはなかった。
朝も。
夜も。
里の炉が一つ、また一つと火を落としても、最深部の白い炎だけは燃え続けた。
世界で最も硬く。
世界で最も重い古代鉱石。
ブラックアダマンタイトは、並の炎では熱を受け入れなかった。
白熱する炉へ何度放り込まれても、その表面は光を吸い込むような漆黒のまま。
グラムの槌を受けても、僅かな窪みさえ生まれない。
――ゴォン。
巨大な槌が振り下ろされる。
火花ではなく、黒い衝撃が工房を駆け抜けた。
「まだじゃ!」
グラムの怒声が響く。
周囲のドワーフたちが炉へ新たな燃料を投げ込み、巨大なふいごを踏み込む。
白い炎が青白く変わり、工房の石壁が赤く染まる。
それでも鉱石は応えない。
グラムは構わず槌を振り上げた。
「数百年も眠っておったくせに、今さら意地を張るな!」
――ゴォン。
「起きろ!」
――ゴォン。
「貴様を振るう男は、もうここにおる!」
槌が落ちるたび、山が震えた。
バトラスは工房の隅に立ち、その姿を黙って見つめていた。
最初の数日は、何もすることを許されなかった。
手を出そうとすれば、
「素人は引っ込んでおれ!」
と怒鳴られた。
炉へ近づけば、
「貴様の眼帯まで燃やすぞ!」
と追い払われた。
だが、ブラックアダマンタイトが少しずつ形を変え始めると、グラムはバトラスを金床の前へ呼んだ。
「触れろ」
赤熱した鉱石を巨大な鋏で押さえながら、グラムが言った。
「焼けるぞ」
「焼けぬ場所を触れと言うておる」
鉱石から伸びた太い鉄棒。
バトラスはその端を握った。
触れた瞬間、腕へ凄まじい重圧が伝わる。
「軽くしろ」
バトラスはグラビティを働かせた。
金床を沈ませていた圧力が消える。
グラムの眉間に皺が寄った。
「軽くし過ぎじゃ!」
「何が悪い」
「重さはこいつの命じゃ。殺すな!」
グラムは槌の柄でバトラスの脛を叩いた。
「重さを奪うのではない」
「槌を受ける瞬間だけ、流れを変えろ」
「お前が打ちやすくするためか」
「違う!」
グラムが吠える。
「貴様が振るう剣にするためじゃ!」
バトラスはブラックアダマンタイトを見つめた。
「この鉱石は、ただ硬いだけではない」
グラムは槌を構える。
「重さを内へ抱え込み、それを決して逃がさぬ」
「下手に軽くすれば、ただの鈍らになる」
「重さを残したまま、貴様の意思へ従わせろ」
それは剣を打つ作業であると同時に、グラビティを制御する訓練でもあった。
槌が触れる直前だけ、鉱石の重心をずらす。
衝撃を一か所へ留めず、刀身となる部分全体へ流す。
重さを消さず。
拒まず。
受け入れたうえで、従わせる。
失敗すれば金床が砕けた。
鎖が千切れた。
工房の床へ新たな亀裂が走った。
そのたびにグラムが怒鳴り、リリスが笑った。
「仔犬、また壊したの?」
「俺じゃない」
「あなたが来るまでは、床に穴なんてなかったわ」
「お前が言うな。昔、酒蔵の壁を消したそうじゃないか」
「あれは消したんじゃないわ」
工房の入口に腰掛けたリリスが、楽しそうに足を揺らす。
「少しだけ、別の場所へ移したの」
「どこへだ」
「さあ?」
グラムの額に青筋が浮かんだ。
「二人とも、出ていけ!」
「俺もか」
「お前は残れ!」
「理不尽ねぇ」
「魔女だけ出ていけと言うておる!」
リリスの笑い声を背に、槌音は再び始まった。
幾度も熱し。
幾度も打ち。
幾度も折れぬかを確かめる。
やがて黒い塊は、一本の刃へと姿を変えていった。
それは聖剣のような優美さを持たなかった。
刀身は広く、分厚い。
刃先から柄元まで、削ぎ落とせるものはすべて削ぎ落とされている。
装飾も。
虚飾も。
英雄を飾るための美しさもない。
ただ敵を断ち。
叩き潰し。
持ち主の力を一切逃さぬためだけに作られた、漆黒の両手剣。
普通の人間なら持ち上げることさえできない。
ましてや、振るうことなど不可能だった。
そして柄頭には、腕ほどの太さを持つ黒い鎖が取り付けられていた。
鎖の一節一節も、ブラックアダマンタイトを混ぜた合金で鍛えられている。
バトラスがそれを見て尋ねた。
「この鎖は何だ」
「飾りに見えるか」
「見えないから訊いている」
グラムは鎖を持ち上げ、バトラスへ投げ渡した。
グラビティを使わなければ、受け止めただけで肩が外れかねない重量だった。
「剣だけでは届かぬ敵もおる」
「鞭のように振るえ」
「武器へ絡め、腕を奪え」
「足へ巻きつけ、地へ引き倒せ」
グラムが鎖の先端を指さす。
そこには無骨な鉤が取り付けられていた。
「味方へ向かった敵を捕らえ、貴様の前へ引き戻すこともできる」
「軽くして放ち、絡みついた瞬間に重くしろ」
「そうすれば、巨人であろうと逃げられん」
バトラスは鎖を握り、軽く振った。
グラビティによって重さを失った鎖が、蛇のように空中を走る。
次の瞬間、バトラスが指を握り込む。
――轟ッ。
本来の重量を取り戻した鎖が石柱へ巻きつき、表面を砕いた。
バトラスが腕を引く。
石柱が根元から軋んだ。
「なるほど」
「そいつは貴様の三本目の腕じゃ」
グラムは砕けた石柱を見て眉を吊り上げる。
「じゃが、試すなら外でやれ!」
「先に言え」
「言わんでも分かれ!」
リリスが入口で口元を押さえて笑っていた。
「よかったわね、仔犬」
「首輪だけじゃなくて、とうとう鎖までついたわ」
「俺を犬扱いするな」
「あら」
リリスは金色の瞳を細める。
「胸にあんなものを彫っておいて?」
バトラスは何も答えず、上着の襟を直した。
グラムの視線が、その隙間から覗いた刺青へ止まる。
胸から左腕へ広がる、三つ首の地獄の猟犬。
「前から気になっておった」
グラムが近づいてくる。
「その獣は何じゃ」
「ケルベロスだ」
「地獄の門番か」
「ああ」
「なぜ刻んだ」
バトラスは完成を待つ黒い剣へ視線を向けた。
「誓いだ」
「アスモデウスがどこへ逃げようと、必ず追い詰める」
「地獄の果てまで」
グラムは長い白銀の髭を撫でた。
「地獄の猟犬……」
低く呟き、刀身へ目を向ける。
それから細い彫刻槌を手に取った。
「上着を脱げ」
「何をする」
「いいから見せろ」
バトラスが上半身を晒す。
グラムは胸へ刻まれた三つ首の獣を、しばらく無言で見つめた。
牙。
首の角度。
絡み合う黒い線。
そのすべてを目に焼きつけると、黒い刀身へ鑿を当てた。
小さな槌音が響く。
これまで山を揺らしてきた音とは違う。
一打ごとに繊細で。
静かで。
それでいて、迷いがなかった。
漆黒の刀身へ、三つ首の猟犬が装飾されていく。
中央の首は正面を睨み。
左右の首は、それぞれ異なる方向へ牙を剥く。
逃げる者を見逃さぬように。
どこへ隠れようと、その匂いを追い続けるように。
最後の一打が終わる。
グラムは鑿を置き、剣を両手で持ち上げた。
老ドワーフの腕が震える。
グラムほどの者でさえ、長く支えることはできない。
「受け取れ、バトラス・レイヴン」
差し出された柄を、バトラスが握る。
凄まじい重量が全身へ襲いかかった。
床石が沈む。
脚が軋む。
肩へ山を背負わされたような圧力が掛かる。
だが、バトラスは剣を離さない。
グラビティへ意識を沈める。
――軽くなれ。
刀身の重量が薄れていく。
重さは消えていない。
柄から刃先まで、確かに存在している。
それでいて、バトラスの意思に従っていた。
剣が腕の延長となる。
軽く振れば、空気を切り裂く。
重さを戻せば、工房そのものが震えた。
これまで使ってきたどの剣とも違う。
グラビティへ抗わない。
負荷に悲鳴を上げない。
むしろ、さらなる重さを求めているかのようだった。
「どうじゃ」
グラムが尋ねる。
「重い」
「当たり前じゃ」
「だが、悪くない」
「悪くない、じゃと?」
グラムの眉が跳ね上がる。
「わしが数百年温めた鉱石を使い、何日も不眠で打った剣じゃぞ!」
「最高だと言えば満足か」
「最初からそう言え!」
リリスが声を上げて笑った。
グラムは不満そうに鼻を鳴らしたものの、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
やがて老鍛冶師は、刀身に装飾された三つ首の獣を指でなぞる。
「剣とは、持ち主の生き方を映すものじゃ」
「この剣は、復讐に生きる貴様のためだけに打った」
「鎖はカラクリを仕込んでおいた、お前が念じればどこまでも伸びる」
「どれほど遠くへ逃げようと、その鎖で捕らえ」
「どれほど深い地獄へ堕ちようと、その牙で喰らいつく」
グラムがバトラスを見上げる。
「ならば、この剣の名は一つしかあるまい」
白い炉の炎が、黒い刀身を照らした。
三つ首の猟犬が、その中で目を覚ます。
「この剣の名は、ケルベロス」
グラムは力強く告げた。
「――重剣ケルベロスじゃ」
バトラスは、その名を胸の内で繰り返した。
ケルベロス。
地獄の門を守る猟犬。
地獄へ堕ちた者を、決して逃がさぬ獣。
胸に刻んだ誓いが。
今、一本の剣となってその手にある。
バトラスは重剣を肩へ担いだ。
柄頭から垂れた太い鎖が、床を這って鈍い音を立てる。
「これなら届く」
誰へ向けた言葉か。
訊く者はいなかった。
「必ず、お前の首まで届く」
失われた右目の奥に。
五年前の礼拝堂が浮かぶ。
仲間たちの亡骸。
ミリアムの最期。
血に染まったダインスレイフ。
そして、剣の侯爵の笑み。
バトラスは黒い刀身を強く握り締めた。
「代金は剣の侯爵の首ってことにしといてやる」
「ああ、勿論だ」
「待っていろ、アスモデウス」
白い炎が大きく燃え上がる。
重剣ケルベロスは、低い唸りを上げるように震えた。
この日。
世界でただ一人、グラビティを操る傭兵のために。
一振りの黒い剣が生まれた。
だが――
第八話へ続く




