地獄の猟犬
乾いた風が、街道の砂を巻き上げる。
地面には、巨大な魔獣の死骸が転がっていた。
胸を深く斬り裂かれた傷口から、黒い血が流れ出している。
その傍らに、一人の男が立っていた。
黒い外套。
右目を覆う黒い眼帯。
肩には、使い古された大剣ではなく、ごく普通の両手剣。
男は剣を軽く振るう。
刃に付いた血が地面へ飛び散った。
次の瞬間。
――ピシッ。
小さな音が響く。
刀身に一本の亀裂が走った。
男はため息を吐く。
「……またか。」
鞘へ納めようとした瞬間。
ガキンッ――
刀身の三分の一が地面へ落ちた。
折れた。
男は怒りも驚きも見せない。
まるで見慣れた出来事のように、折れた刃を拾い上げる。
「今回も三日か。」
荷車の陰から商人が顔を出した。
「す……すげぇ……。」
「一人でグリフォンを倒しちまった……。」
「兄ちゃん、本当に傭兵か?」
男は短く答える。
「ああ。」
「名は?」
少しだけ沈黙が流れる。
「……バトラス。」
その名に商人が目を見開く。
「あんたが……。」
「最近噂の……。」
「“片目の傭兵”……。」
バトラスは答えず、折れた剣を布で包み荷物へ押し込んだ。
これで十五本目。
二年前、リリスから授かった力。
世界のことわり――グラビティ。
その力は今や、自分の手足のように扱える。
だが。
どれほど技を磨こうとも。
普通の剣は耐えられない。
何本買っても。
何本鍛え直しても。
必ず折れる。
それが、この二年間変わることのない現実だった。
「街まで送ってくれ!」
「報酬は倍払う!」
商人が叫ぶ。
バトラスは静かに頷いた。
「依頼だ。」
「受けよう。」
街へ向かって歩き出す。
その背には、二年前にはなかった無数の古傷が刻まれていた。
そして首元には、黒い首輪のような荊の刻印。
魔女との契約の証。
誰にも知られてはならない印だった。
夕暮れ。
城壁に囲まれた交易都市・ベルグへ戻る頃には、空は茜色に染まっていた。
門番が片手を挙げる。
「おう、バトラス。」
「今回は何を狩ってきた?」
「グリフォンだ。」
「……相変わらず化け物みたいな依頼ばかり受けるな。」
門番は苦笑しながら通行証へ印を押した。
「お前が帰ってくると酒場が賑わう。」
「飲み過ぎるなよ。」
バトラスは軽く手を上げるだけで街へ入っていく。
歓声も名声も興味はない。
欲しいものは一つだけだった。
復讐。
それ以外は、どうでもいい。
歩き慣れた石畳を抜け、一軒の鍛冶屋の前で足を止める。
店主は顔を見るなり深いため息をついた。
「……また来たか。」
カウンターへ折れた剣を置く。
店主は慣れた手つきで刀身を持ち上げ、断面を眺めた。
「また真ん中からか。」
首を横に振る。
「普通、こんな折れ方はしねぇ。」
バトラスは何も答えない。
店主は棚から一本の両手剣を取り出した。
「これで十六本目だ。」
「今度は少し良い鋼を使ってる。」
「長持ちするといいがな。」
バトラスは剣を受け取り、重さを確かめる。
静かに振るう。
悪くない。
だが、それでも長くは持たないだろう。
金貨を数枚置く。
店主は思わず口を開いた。
「……なあ。」
「一体、何と戦ってる?」
「魔物か?」
「竜か?」
「それとも……。」
バトラスは剣を背負い直す。
「全部だ。」
短く答え、そのまま店を出て行く。
店主は閉まった扉を見つめ、小さく呟いた。
「違うな……。」
「あの剣は、敵に折られたんじゃねぇ。」
「使った本人の力で壊れてる。」
その言葉を聞く者はいなかった。
街路へ出ると、夕日がバトラスの背を長く照らす。
その影は、まるで巨大な獣が歩いているかのように揺れていた。
だが、本人は気付いていない。
これから自らの胸へ刻むことになる名が、**“ケルベロス”**になることを。
夜の帳が街を包む。
酒場からは陽気な笑い声が漏れ、石畳には酒の匂いが漂っていた。
バトラスはその喧騒を横目に、一軒の小さな店の前で足を止める。
木製の看板には、一本の針と獣の紋様が彫られていた。
――刺青師。
ゆっくりと扉を押し開ける。
店内には薬草と墨の独特な香りが漂っていた。
奥から、白髪交じりの老人が姿を現す。
「珍しいな。」
「傭兵がこんな時間に。」
老人はバトラスの右目の眼帯へ視線を向けたが、何も聞かなかった。
長く生きた者ほど、余計なことは聞かない。
「何を刻む。」
老人は静かに尋ねる。
バトラスは迷わず答えた。
「……地獄の猟犬…ケルベロスだ。」
老人の眉が僅かに動く。
「地獄の猟犬か。」
「ああ。」
「理由は。」
沈黙。
やがてバトラスは低い声で口を開いた。
「一人、追う男がいる。」
「奴は俺から全てを奪った。」
脳裏に浮かぶ。
燃え落ちる礼拝堂。
仲間たちの亡骸。
血に染まる白い法衣。
そして――
微笑みながら剣を振るう男。
剣の侯爵。
アスモデウス。
拳を強く握り締める。
「奴が天へ逃げようと。」
「地獄へ堕ちようと。」
「奈落の底へ身を隠そうと。」
静かな声は、少しも揺れない。
「俺は必ず追い詰める。」
「地獄の果てまで。」
老人は黙って頷いた。
「……覚悟の刺青か。」
「ああ。」
「ならば痛むぞ。」
「望むところだ。」
老人は椅子を指差す。
「上着を脱げ。」
バトラスは外套を脱ぎ、上半身を晒した。
鍛え抜かれた肉体。
右胸には古い傷。
肩には魔物の爪痕。
そして首には、荊の首輪のような黒い契約印が刻まれている。
老人の目が一瞬だけ止まる。
だが何も尋ねなかった。
「胸から左腕まででいいな。」
「ああ。」
「地獄の猟犬が、お前の心臓を守るように彫ろう。」
老人が針を取る。
最初の一針が胸へ沈んだ。
痛みが走る。
しかしバトラスは眉一つ動かさない。
肉へ墨が刻まれていくたびに、彼の胸には一つの誓いが深く刻まれていく。
俺はお前を許さない。
店を出る頃には、夜も更けていた。
冷たい夜風が、焼けるように熱を持つ胸を撫でる。
包帯の下では、まだ墨が乾き切っていない。
ズキズキと鈍い痛みが脈打つ。
だが、その痛みすら心地良かった。
この痛みが、自分の誓いなのだから。
人気のない路地を歩く。
その時だった。
「……ふふっ。」
聞き慣れた笑い声。
振り返るより早く、街灯の上へ一人の女が腰掛けていた。
黒いドレス。
月明かりを受けて輝く長い黒髪。
金色の瞳が、悪戯っぽく細められる。
「こんばんは、私の仔犬。」
リリスだった。
バトラスは呆れたように息を吐く。
「……驚かせるな。」
「驚いた?」
「いや。」
「つまらないわ。」
リリスは音もなく地面へ降り立つ。
バトラスの周りを一周すると、不意に包帯へ指を伸ばした。
「見せて。」
「断る。」
「減るものじゃないでしょう?」
「減る。」
「何が?」
「気分がだ。」
リリスは肩をすくめる。
「堅いわねぇ。」
そう言うと、バトラスの返事も待たずに包帯をするりと外した。
「おい。」
「動かない。」
金色の瞳が、新しく刻まれた刺青をじっと見つめる。
胸から左肩、そして左腕へと駆ける三つ首の猟犬。
牙を剥き、今にも地獄から飛び出してきそうな姿。
しばらく黙って眺めていたリリスは、やがて吹き出した。
「ぷっ……。」
「……。」
「くふふっ。」
「似合わないか。」
「違う違う。」
笑いを堪えながら首を振る。
「そんな怖い顔してるのに。」
「犬が好きだったなんて。」
バトラスは無言。
「しかも三匹も。」
「……。」
「一匹じゃ寂しかった?」
「……地獄の猟犬だ。」
「あら知ってるわ。」
リリスは刺青を指先でなぞる。
「でもね。」
「この子たち、あなたにそっくり。」
「どこがだ。」
「主人に忠実で。」
「一度噛みついたら絶対に離さない。」
金色の瞳が細くなる。
「執念深くて。」
「可愛いところ。」
バトラスは眉をひそめる。
「褒めてないだろ。」
「褒めてるわ。」
「最高に。」
リリスはくすくす笑う。
そして、不意にその笑みを少しだけ柔らかくした。
「でも……。」
「その覚悟は嫌いじゃない。」
ほんの一瞬だけ。
茶化しの消えた声音だった。
「あなたらしい名前ね。」
バトラスは刺青へ視線を落とす。
「名前じゃない。」
「誓いだ。」
その一言に、リリスは少しだけ目を見開く。
そして、小さく笑った。
「そう。」
「なら、その誓いが折れないように。」
リリスは人差し指でバトラスの胸を軽く突いた。
「剣だけは、これ以上折らないことね。」
バトラスは苦笑する。
「それができれば苦労はしない。」
「でしょうね。」
リリスは月を見上げながら、意味深に微笑んだ。
「だから、もう少しだけ待ちなさい。」
「その誓いにふさわしい剣は……ちゃんと用意してあげる。」
そう言い残すと、黒い霧がふわりと舞う。
次の瞬間には、リリスの姿はどこにもなかった。
残されたバトラスは、静かに胸へ刻まれたケルベロスへ手を添える。
その誓いは、まだ始まったばかりだった。
翌朝。
朝靄の残る街道を、バトラスは一人歩いていた。
新しく買った両手剣を肩へ担ぎ、小さな護衛依頼へ向かう。
依頼は平凡だった。
山賊が数人。
護衛対象は荷馬車一台。
いつもなら半日で終わる仕事。
山賊たちは剣を抜き、笑った。
「一人だと?」
「舐められたもんだ。」
バトラスは静かに剣を構える。
深く息を吸う。
世界が静まる。
重さが消える。
軽くなった剣は風のように走り――
振り抜く瞬間。
世界のことわりを書き換える。
グラビティ…。
轟音。
山賊たちは為す術もなく吹き飛んだ。
戦いは、一瞬だった。
だが。
――バキッ。
鈍い音が響く。
新しい剣の刀身が、根元から大きく裂けた。
バトラスは静かに目を閉じる。
「……またか。」
これで十六本目。
二年間。
何本もの剣を折り。
何度も修理し。
何度も買い替えた。
それでも、この力に耐えられる剣は一本もなかった。
折れた剣を見つめる。
そして、ゆっくりと地面へ突き立てた。
「限界だ。」
その言葉を待っていたかのように。
「そうね。」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返るまでもない。
「リリス。」
「やっと認めたのね。」
黒い霧の中から現れたリリスは、折れた剣を見るなり肩をすくめる。
「十六本。」
「思ったより頑張ったじゃない。」
「褒めてるのか。」
「ええ。」
「仔犬にしては上出来。」
バトラスは苦笑しながら折れた剣を拾う。
「もう普通の剣じゃ無理だ。」
「その通り。」
リリスは満足そうに頷いた。
そして、いつになく真剣な眼差しを向ける。
「……頃合いね。」
「何がだ。」
「約束を果たす時。」
風が止む。
リリスはバトラスの胸へ刻まれたケルベロスへ視線を向けた。
「あなたは、この二年で十分に証明した。」
「力も。」
「覚悟も。」
「復讐も。」
その金色の瞳が静かに細められる。
「会わせてあげる。」
「世界でたった一人。」
「あなたの剣を打てる男に。」
バトラスの表情が僅かに変わる。
「……やっと合わせてくれるのか。」
リリスは微笑む。
「そう。」
「三百年以上の時を生きる頑固なドワーフ。」
「気難しくて、お酒ばかり飲んでいて、口も悪い。」
「でも。」
「世界一の鍛冶師。」
リリスはくるりと背を向ける。
歩き出したその先には、黒い霧が渦を巻いていた。
「行くわよ、仔犬。」
「あなたの運命を打つ男が待っている。」
バトラスは折れた剣を最後に一度だけ見つめる。
そして、それを地面へ静かに置いた。
もう振り返らない。
彼には、新たな剣が待っている。
復讐のための剣が。
二人の姿は霧の中へ消えていく。
その先で待つ鍛冶師は、まだ知らない。
第七話へ続く




