世界のことわり
暖かな朝日が館の窓から差し込んでいた。
バトラスはゆっくりと目を覚ます。
昨夜までの出来事が夢ではないことを、首筋に残る熱が教えていた。
指先で触れる。
首には黒い荊が首輪のように絡みつき、その中央には見慣れない紋章が刻まれている。
「気になる?」
部屋の入口から声がした。
リリスだった。
窓から差し込む陽射しを背に、黒いドレスを揺らしながら微笑んでいる。
「おはよう、仔犬。」
「……その呼び方はやめろ。」
「嫌。」
リリスはくすりと笑う。
「気に入ってるもの。」
彼女はゆっくりと部屋へ入り、バトラスの向かいへ腰を下ろした。
「契約は無事に終わったわ。」
「その紋様が証。」
バトラスは首筋へ触れたまま尋ねる。
「……お前は昨夜、『ことわり』と言ったな。」
「ええ。」
「魔法とは違う。」
「違うわ。」
リリスは指を一本立てた。
「魔法は、人が魔力を使って起こす奇跡。」
「でも、ことわりは違う。」
「世界が生まれた時から存在する絶対の法則。」
「人は重力に逆らえない。」
「時間は止められない。」
「命は有限。」
「それら全部が”ことわり”。」
バトラスは黙って耳を傾ける。
「そして、あなたが手に入れたのは、その一つ。」
リリスは静かに微笑んだ。
「グラビティ。」
その名を口にした瞬間。
部屋の空気がわずかに震えた。
「重力……。」
「そう。」
「世界中、誰も逆らえない力。」
「でも今日からは違う。」
「あなたは重さを操れる。」
バトラスは眉をひそめた。
「そんなことが、本当に……。」
「試してみる?」
リリスはテーブルの上に置かれた銀のフォークを指差した。
「持って。」
バトラスはフォークを手に取る。
「軽くしたいと思って。」
半信半疑のまま意識を集中させる。
その瞬間だった。
「……っ!」
フォークから重さが消えた。
まるで羽毛を摘まんでいるようだった。
思わず力を入れ過ぎる。
フォークは指先から弾かれ、ふわりと宙へ舞い上がる。
「ははっ。」
リリスが声を上げて笑う。
「可愛い。」
「初めての仔犬はみんなそうなるの。」
「笑うな。」
「だって面白いんだもの。」
「だから教えてあげる。」
「この力は、剣を振るためだけのものじゃない。」
「あなた次第で、世界そのものを変える力になる。」
「……。」
「ただし。」
リリスは人差し指を立てた。
「焦って使えば、自分の身体から壊れる。」
「骨も。」
「筋肉も。」
「内臓も。」
「だから、まずはこの力を知りなさい。」
彼女は立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
霧はすっかり晴れ、森の出口へ続く道が見えていた。
「来なさい。」
リリスは館の裏庭へ歩き出した。
バトラスも黙って後を追う。
館の裏には広い石畳の広場があり、その周囲には樹齢何百年とも思える大樹が並んでいる。
「ここなら壊しても構わないわ。」
「壊しても?」
「どうせ直るもの。」
まるで当然のように言う。
魔女の館らしい言葉だった。
リリスは足元の小石を一つ拾い、バトラスへ放った。
「掴んで。」
難なく受け止める。
ただの石。
どこにでもある、小さな石だった。
「その石を”重く”してみなさい。」
「どうやってだ。」
「剣と同じよ。」
「剣?」
「あなたは剣を振る時、一々考えないでしょう?」
「身体が覚えている。」
「ことわりも同じ。」
「身体じゃなく、世界へ命じるの。」
バトラスは眉をひそめた。
「世界に命じる……。」
「そう。」
「重くなれ、と。」
半信半疑のまま石を見つめる。
すると、首元の契約の紋様が微かに熱を帯びた。
ズシリ。
突然、小石とは思えない重さが掌へとのしかかる。
「……!」
反射的に手を開く。
石は地面へ落ち――
ドゴンッ!!
石畳を砕き、大穴を穿った。
土煙が舞う。
バトラスは目を見開いた。
「これは……。」
リリスは満足そうに拍手する。
「初めてにしては上出来。」
「でも半分失敗ね。」
「失敗?」
「あなた、自分でも制御できてないもの。」
リリスは穴の底に落ちた石を指差す。
「見て。」
バトラスが覗き込む。
小石は、めり込んだまま動かない。
まるで山でも埋まっているかのようだった。
「持ち上げてみなさい。」
片手で掴む。
動かない。
両手で力を込める。
それでも動かない。
騎士団長だった頃の膂力でも、まるで歯が立たない。
リリスは吹き出した。
「ふふっ……。」
「自分で重くしたんだから、戻さないと。」
「戻す……?」
「軽くなれ、って命じるの。」
バトラスは静かに石へ意識を向ける。
首筋の紋様が再び熱を帯びた。
次の瞬間。
石は元の重さへ戻り、拍子抜けするほど簡単に持ち上がった。
「……なるほど。」
「少し分かってきた?」
「いや。」
バトラスは石を見つめる。
「分かったのは一つだけだ。」
「この力は、人が持っていいものじゃない。」
リリスは口元を緩めた。
「そう。」
「だから私はあなたを選んだ。」
「普通の人間なら、この力に呑まれて終わる。」
「でも、あなたは違う。」
「五年間、憎しみだけで生き続けた。」
「その執念があるからこそ、この”ことわり”に耐えられる。」
バトラスは何も答えない。
拳の中の石だけを見つめていた。
「さて。」
リリスはくるりと踵を返す。
「今日はここまで。」
「もう終わりか。」
「ええ。」
「覚えることは一つだけ。」
リリスは人差し指を立てる。
「重さを操るんじゃない。」
「世界に、重さを決めさせるの。」
「それがグラビティ。」
そう言い残すと、リリスは花びらが風に舞うようにくるりと回る。
「もうお行きなさい、また気が向いたら会いに行くわ、仔犬。」
その姿は、陽光の中へ溶けるように消えた。
一人残されたバトラスは、静かに石を握り直す。
「……世界の、ことわり。」
その言葉を噛み締めながら、何度も石の重さを変えようと試みる。
復讐だけを追い続けてきた男は今、新たな力を前に、初めて”学ぶ”という時間を過ごし始めていた。
館を後にしてから半日。
霧の森を抜けたバトラスは、街道を南へ歩いていた。
首元には契約の証。
腰には使い慣れた剣。
変わったものは、それだけ。
いや。
世界そのものが変わってしまったのかもしれない。
「……。」
歩きながら、何度も小石を握る。
軽くする。
重くする。
まだ思うようにはいかない。
重さは変わる。
だが、思い描いた通りには変わらない。
「難しいな。」
独り言が漏れる。
その時だった。
「助けてくれぇぇぇ!」
街道の先から男の叫び声が響く。
荷馬車が横倒しになっていた。
商人らしき男が地面を這い、数人の盗賊に囲まれている。
「金を置いていけ!」
「命までは取らねぇ!」
盗賊の一人が剣を振り上げる。
バトラスはため息をついた。
「……面倒だ。」
踵を返そうとする。
もう騎士ではない。
正義のために剣を振る理由もない。
だが。
剣を振り下ろそうとした盗賊の姿が、一瞬だけ礼拝堂の光景と重なった。
震えるミリアム。
倒れていく仲間たち。
そして――
笑うアスモデウス。
「……ちっ。」
舌打ちと同時に、バトラスの身体は動いていた。
地面を蹴る。
盗賊の前へ割って入る。
「誰だ!」
剣が振り下ろされる。
バトラスは無意識に、グラビティを意識した。
軽く。
剣が羽のように軽くなる。
風を裂く速度で斬り上げる。
盗賊の剣を弾き飛ばす。
「なっ……!」
そのまま返す刃。
今度は――
重く。
ズンッ!!
剣が一瞬だけ、とてつもない重量を纏う。
盗賊は剣ごと地面へ叩きつけられた。
石畳が砕ける。
「ぐああぁっ!!」
周囲の盗賊が凍り付く。
「なんだ……今の……。」
バトラス自身も息を呑んだ。
「これが……グラビティ。」
だが、次の瞬間。
右腕に激痛が走る。
「ぐっ……!」
肘から肩にかけて筋肉が悲鳴を上げる。
膝が折れそうになる。
リリスの言葉が蘇る。
「焦って使えば、自分の身体から壊れる。」
「そういうことか……。」
盗賊たちは顔を見合わせた。
「化け物だ!」
「逃げろ!」
蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
静寂が戻る。
助かった商人は震えながら頭を下げた。
「ありがとうございます……!」
バトラスは答えない。
痛む腕を押さえながら、剣を鞘へ納める。
まだ、この力は自分のものではない。
使えば、自分まで壊れる。
それでも。
アスモデウスへ届くためには、この力を使いこなすしかない。
そう強く思った、その時――
頭上から、聞き覚えのある笑い声が降ってきた。
「ふふっ。」
バトラスが見上げる。
街道脇の大木の枝に腰掛け、足をぶらぶらさせながらリリスが笑っていた。
「初めてにしては上出来よ、仔犬。」
「……さっき消えたんじゃなかったのか。」
「消えたわ。」
「でも、気になったから見に来ちゃった。」
悪びれもせず微笑む。
「やっぱり、あなたを見ていると退屈しない。」
黄金の瞳が細められる。
「もっと強くなりなさい。」
「私を、もっと楽しませて。」
バトラスは小さくため息をつく。
「……本当に勝手な魔女だ。」
リリスは満足そうに笑うと、木の枝からふわりと飛び降りることもなく、そのまま陽炎のように姿を消した。
残ったのは、風に舞う花びらだけだった。
やがて数刻が過ぎた後…。
街道を離れたバトラスは、人里から少し離れた岩場で一人剣を振っていた。
軽く。
重く。
軽く。
重く。
何十回。
何百回。
日が沈むまで、ただひたすらに繰り返す。
最初は思うように扱えなかったグラビティも、少しずつ身体へ馴染み始めていた。
「まだだ……。」
剣を構える。
今度は剣を振る間だけ極限まで軽くし、岩へ届く瞬間だけ重量を解放する。
一閃。
ドォォンッ!!
轟音とともに巨岩が真っ二つになる。
バトラスは静かに息を吐いた。
「少しは……扱えるようになったか。」
その時だった。
ピシッ。
小さな音が聞こえた。
「……?」
剣身を見る。
刃元に、一本の細い亀裂が走っていた。
「傷……か。」
鍛えられた騎士剣だ。
これくらいで壊れるはずがない。
そう思い、再び構える。
もう一度。
軽く。
そして――重く。
「はぁっ!」
全力の斬撃。
次の瞬間。
バキィィィン!!
甲高い金属音が響いた。
剣身が根元から砕け散る。
折れた刀身が地面へ突き刺さった。
バトラスは呆然と立ち尽くす。
「……折れた。」
この剣は騎士団長時代から共に戦ってきた相棒だった。
幾度となく魔物を斬り、人を守り、戦場を生き抜いてきた。
それが、たった数日の訓練で限界を迎えた。
「そういうことか。」
折れた剣を拾い上げる。
グラビティは剣を強くする力ではない。
剣に、本来あり得ない負荷を与える力だ。
どれほど名工が打った剣でも、耐え続けられるものではない。
その時だった。
風に乗って、聞き覚えのある声が響く。
「やっと気付いた?」
振り返る。
岩の上に腰掛けたリリスが、楽しそうにこちらを眺めていた。
「普通の剣じゃ無理なのよ。」
「どれだけ軽くしても、どれだけ重くしても、その力は全部剣が受け止める。」
「だから壊れる。」
バトラスは折れた剣を見つめたまま尋ねる。
「どうすればいい。」
リリスは意味深に微笑む。
「あなた専用の剣を作ればいい。」
「そんなものがあるのか。」
「あるわ。」
リリスはゆっくりと立ち上がる。
黄金の瞳が細くなる。
「世界でただ一人。」
「その剣を打てる鍛冶師が。」
「……誰だ。」
リリスは悪戯っぽく笑った。
「その時が来たら教えてあげる。」
「今はまだ早い。」
そう言い残すと、彼女の姿は夕暮れの風へ溶けるように消えていった。
バトラスは折れた剣を握り締める。
その瞳には、五年前と同じ炎が宿っていた。
「待っていろ……アスモデウス。」
「次に会う時は、お前を斬る。」
夕陽に照らされた折れた刀身が鈍く輝く。
それは、一人の騎士との別れであり――
後に”ケルベロス”と名付けられる魔剣との出会いへ続く、最初の一歩だった。
第六話へ続く




