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霧の森の魔女

あれから五年後…。


人は変わるには十分すぎる時間だった。


かつて蒼銀の獅子騎士団を率いた男は、今では名もない傭兵として各地を渡り歩いていた。


酒場では誰もその男の素性を知らない。


知る必要もない。


右目を覆う黒い眼帯。


日に焼けた黒い外套。


背には使い込まれた剣。


鎧はところどころ継ぎ当てがされ、幾度も死線を潜ってきたことだけが伝わる。


男は静かに酒を飲んでいた。


誰とも話さず。


誰の目も見ず。


ただ、酒だけを喉へ流し込む。


「……また来たのか。」


店主が苦笑する。


「今日はどこの依頼だ?」


バトラスは短く答えた。


「まだ決めてない。」


「珍しいな。」


「……探し物がある。」


それ以上は話さない。


店主も聞かない。


この男は、聞かれたくない過去を背負っている。


そんな空気だけは伝わっていた。


酒場の隅では旅人たちが騒いでいた。


「聞いたか? また霧の森で行方不明だ。」


「あそこへ入った木こりが帰らねぇ。」


「魔物じゃねぇ。」


「魔女だ。」


笑い声が起きる。


「まだそんな御伽話を信じてるのか。」


白髪の老人が静かに酒を置いた。


「御伽話だからこそ、忘れちゃあならん。」


酒場が少し静かになる。


老人は暖炉を見つめながら語り始めた。


「霧の深い夜。」


「鐘の音が聞こえたら振り返るな。」


「霧の向こうに館が見えても近付くな。」


「そこに住むのは、人ではない。」


誰かが笑う。


「また始まった。」


「子どもを脅かす昔話だ。」


老人は肩をすくめる。


「そう思うなら、それでいい。」


「だが昔から言われておる。」


「魔女は退屈すると、森へ玩具を探しに来る、と。」


その言葉にだけ、バトラスの手が止まった。


玩具。


その言葉に興味を持ったわけではない。


“魔女”。


それだけだ。


五年前なら鼻で笑っただろう。


だが今は違う。


人では到底及ばぬ化け物を、この目で見てしまった。


世界には、人知を超えたものがいる。


それだけは知っている。


「……くだらん。」


酒を飲み干す。


立ち上がる。


依頼書の並ぶ掲示板へ歩く。


その中の一枚に目が止まる。


《霧の森周辺に出没する魔物の討伐》


報酬は安い。


危険だけがやけに大きく書かれている。


バトラスは紙を剥がした。


「それにするのか?」


店主が尋ねる。


「ああ。」


「やめとけ。」


「霧の森は昔から碌な噂がねぇ。」


バトラスは依頼書を懐へしまう。


「死ぬなら、それでも構わん。」


そう言い残し、酒場を後にした。


店主はその背中を見送りながら、小さく呟く。


「……まるで死に場所を探してるみたいな男だ。」


外は霧雨だった。


遠くの森には、白い霧がゆっくりと広がっていた。


霧の森。


古くから、その名で呼ばれる森だった。


子どもたちは夜になると親に言われる。


――悪い子は霧の魔女に連れていかれる。


旅人は笑い話として聞き流し、猟師は決して森の奥へは入らない。


誰もが御伽話だと思っている。


だからこそ、その森には近付かない。


バトラスはそんな話には興味がなかった。


霧の中に魔女がいようが、化け物がいようが関係ない。


探しているのは、ただ一人。


剣の侯爵――アスモデウス。


あの日から五年。


手掛かりを求め、国境を越え、荒野を渡り、山を越えた。


名のある盗賊も斬った。


魔物の群れも討った。


戦場があると聞けば向かい、剣豪がいると聞けば挑んだ。


だが、アスモデウスの名だけはどこにもなかった。


まるで、この世界から姿を消してしまったかのように。


「……ちっ。」


舌打ちが漏れる。


雨に濡れた外套を直しながら歩き続ける。


生きる理由は復讐だけだった。


いや、それすらもう曖昧になっている。


奴を見つけて斬る。


それが叶わないなら、自分がどこかで朽ち果てても構わない。


そんな日々を、五年も続けていた。


やがて、木々が深く生い茂る場所へ辿り着く。


霧が濃い。


昼だというのに薄暗く、白い靄が地面を這っている。


「ここか。」


依頼書には簡単に書かれていただけだった。


《霧の森周辺で魔物が目撃されている。討伐求む。》


報酬は二束三文。


それでも受けた。


危険な依頼ほど、生きて帰れない可能性が高い。


今の自分には、それくらいがちょうどよかった。


森へ一歩踏み入れる。


途端に、空気が変わる。


冷たい。


雨の冷たさではない。


もっと深く、肌の内側へ染み込んでくるような冷気だった。


バトラスは無意識に剣の柄へ手を添える。


静かすぎる。


鳥の囀りも。


虫の羽音も。


木々を揺らす風さえない。


聞こえるのは、自分の足音だけ。


ザッ……


ザッ……


湿った土を踏み締める音だけが森に響く。


「……妙だな。」


この森には、生き物の気配がない。


魔物を探しに来たはずなのに、魔物どころか兎一匹見当たらない。


霧は次第に濃さを増し、数歩先の木々さえ輪郭を失っていく。


その時だった。


――カラン……


どこからともなく、小さな鐘の音が響いた。


バトラスは立ち止まる。


酒場の老人の言葉が脳裏をよぎる。


「霧の深い日に鐘の音が聞こえたら、決して近付くな。」


「……。」


御伽話だ。


そう笑い飛ばすつもりだった。


なのに、胸の奥で何かがざわつく。


もう一度、鐘が鳴る。


――カラン……


音は、まるで森の奥から自分を呼んでいるようだった。


バトラスは静かに息を吐く。


「面白い。」


五年ぶりに、ほんのわずかだけ口元が歪んだ。


恐怖ではない。


期待でもない。


ただ、自分の知らない何かが、この先にある。


その予感だけが、足を前へ進めさせた。


白い霧の中へ。


一歩、また一歩と。


歩みを進めるたび、霧は濃さを増していく。


十歩先も見えない。


振り返れば、自分がどこから来たのかさえ分からなくなっていた。


「……。」


迷った。


そう思ったが、不思議と焦りはなかった。


むしろ森そのものが、自分をどこかへ導いているような感覚だった。


再び、鐘の音が響く。


――カラン……


今度は先ほどより近い。


音は優しく、それでいて逆らうことを許さない。


バトラスは黙って歩き続けた。


やがて霧の向こうに、ぼんやりと灯りが浮かぶ。


最初は月明かりかと思った。


だが違う。


暖かな橙色の光。


人の営みを思わせる灯火だった。


さらに数歩進む。


霧がゆっくりと左右へ流れ、まるで幕が開くように視界が拓ける。


「……。」


そこには、一軒の館が建っていた。


深い森の奥。


人の気配などあるはずもない場所に。


黒い屋根。


白い壁。


蔦の絡まる石造りの外壁。


色鮮やかな花々が咲き誇る庭園。


雨に濡れているはずなのに、その花びらだけは一滴の雫も纏っていなかった。


まるで、この場所だけが世界から切り離されているかのように。


バトラスは依頼書を取り出す。


もう一度、地図を見る。


館など記されていない。


酒場で聞いた御伽話が脳裏をよぎる。


「霧の向こうに館が見えても、決して近付くな。」


「……本当にあったのか。」


独り言が漏れる。


その瞬間。


ギィ……


館の重厚な扉が、ひとりでに開いた。


風は吹いていない。


誰かが押した様子もない。


それでも扉は静かに開き、温かな灯りが外へ溢れる。


甘い花の香り。


焼きたてのパンの匂い。


どこか懐かしい紅茶の香り。


森の冷気とは対照的な、穏やかな空気が流れてきた。


「歓迎、ということか。」


皮肉めいた笑みを浮かべる。


罠なら罠で構わない。


死に場所を探し続けた五年だった。


今さら足を止める理由などない。


バトラスは剣の柄に手を添えたまま、ゆっくりと館の敷居を跨ぐ。


その瞬間――


背後で、


コトン。


静かな音を立てて扉が閉まった。


館の中は、不思議なほど静かだった。


暖炉には火が灯り、誰かがつい先ほどまで過ごしていたような温もりが残っている。


テーブルの上には、湯気の立つティーカップが二つ。


まるで来客を待っていたかのように。


バトラスは静かに周囲を見渡す。


「……いるんだろ。」


返事はない。


だが、この館には確かに誰かがいる。


そう確信できるほど、空気そのものが誰かの気配を纏っていた。


そして、館の奥から――


カツン。


小さく、靴音が響いた。


ゆっくりと姿を現したのは、一人の女だった。


漆黒の長い髪。


雪のような白い肌。


真紅の唇。


そして、人ではあり得ないほど澄んだ黄金の瞳。


年齢など分からない。


少女にも見えれば、大人の女にも見える。


その美しさには、どこか現実味がなかった。


女はバトラスを見るなり、ふっと笑った。


「……あら。」


黄金の瞳が細められる。


まるで店先で珍しい品物でも見つけたような、無邪気な笑み。


「こんなところに、可愛い仔犬パピーが迷いこんできたわね。」


「……誰が仔犬だ。」


「あなた。」


即答だった。


「そんなに警戒しなくてもいいじゃない。」


女は軽やかな足取りで近付き、バトラスの眼帯へ視線を向ける。


「随分と酷い傷ね。」


「……。」


「その傷を付けた相手が憎い?」


バトラスの空気が変わる。


「知っているのか。」


女は答えず、くすりと笑う。


「私はリリス。」


「魔女よ。」


その一言だけで十分だった。


酒場で聞いた御伽話。


霧の館。


すべて本当だった。


「用が済んだなら帰る。」


踵を返そうとした、その時。


「帰れないわ。」


バトラスは振り返る。


リリスは悪戯っぽく微笑んでいた。


「ここは私が招いた者しか来られないし、私が帰してあげない限り帰れないもの。」


「……。」


「でも安心して。」


「私はあなたを殺す気なんてない。」


「死なれたら困るもの。」


「……?」


「だって、せっかく見つけた玩具が壊れちゃうじゃない。」


その言葉に、バトラスは眉をひそめた。


「玩具だと?」


「ええ。」


悪びれる様子もなく頷く。


「私は退屈が嫌いなの。」


「長い、長い時間を生きているとね。」


「だから面白いものを探すの。」


リリスはバトラスの胸元へ指を伸ばす。


「あなた、とても面白そう。」


「復讐だけで五年も生き続けて。」


「死に場所まで探して。」


「それでも前へ歩く。」


「そんな壊れかけの人間、初めて見たわ。」


バトラスはその手を払いのける。


「俺を馬鹿にしているのか。」


「いいえ。」


リリスは楽しそうに笑った。


「気に入ったの。」


「あなたには契約が必要。」


リリスはソファに腰掛け、脚を組み替えた。


「復讐のための力がほしいんでしょう?」


バトラスは黙ったまま彼女を見つめる。


「いいわ。」


「一つだけ条件。」


リリスは妖しく微笑む。


「今夜、私に付き合って。」


「……。」


「勘違いしないで。」


「あなたの愛なんて興味ないわ。」


「私、退屈なの。」


「長い時間を生きていると、人間なんてすぐ飽きちゃう。」


黄金の瞳が細められる。


「でも、あなたは違う。」


「壊れそうなのに壊れない。」


「復讐だけで歩き続ける。」


「そんな仔犬パピーと一晩過ごしたら、少しは退屈しのぎになるかもしれない。」


バトラスは低く問う。


「……そんなことで、いいのか。」


「ええ。」


「一晩だけ。」


「その代わり、私はあなたと契りを交わし力を授けてあげる。」


「断る。」


「そう。」


「じゃあ帰れないわね。」


沈黙。


暖炉の火だけが揺れる。


やがてリリスがゆっくりと告げた。


「世界には魔法より古い力がある。」


「ことわり。」


「世界そのものを書き換える力。」


「私はその欠片をあなたにあげる。」


「あなたがどう生きるのか。」


(アスモデウス)を殺すのか。」


「返り討ちに遭うのか。」


「全部、私に見せて。」


「私を退屈させないで。」


バトラスは黙ってリリスを見つめる。


勝てる保証はない。


だが、このままでは一生アスモデウスには届かない。


右目を失ったあの日から、自分は止まったままだ。


「……あなたに授けるその力の名は。」


リリスの唇がゆっくりと弧を描く。


「グラビティ。」


「重力という、この世界のことわり。」


静寂。


バトラスはゆっくりと右手を差し出した。


「契約だ。」


リリスは嬉しそうにその手を握る。


「契約成立。」


その瞬間。


館中の燭台の炎が一斉に揺れた。


世界が、一瞬だけ軋む。


そしてリリスは、いたずらが成功した子どものように笑って言った。


「ふふっ……これからよろしくね、今日からあなたは私の仔犬パピー。」


翌朝、バトラスは目を覚ますと…


契約の荊の紋様が首に浮かび上がっていた――。


「おはよう、私の仔犬(パピー)。」




第五話へ続く

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