獅子達の最期
黒い剣先が、静かにバトラスへ向けられていた。
「ならば、お前だけは最後まで立っていろ」
その言葉が礼拝堂へ落ちたあと、誰も声を発しなかった。
砕けたステンドグラスの欠片が、ひとつ。
石畳へ落ちる。
澄んだ音が響き、やけに長く残った。
バトラスは剣を構えたまま、アスモデウスを見据えていた。
全身が痛む。
呼吸をするたび、折れた肋骨が内側から肉を刺す。左腕は垂れ下がり、指先ひとつ動かせない。右手で握る長剣も、今にも折れそうなほど刃こぼれしていた。
それでも、立っていた。
立つことしかできなかった。
視界の端で、仲間たちが動く。
砕けた扉の近くでは、ルークが瓦礫を押し退けようとしている。
祭壇の階段にはエレナが倒れていた。細い肩が微かに上下している。まだ息はある。
ロイドは柱にもたれ、脇腹を押さえていた。指の隙間から流れる血が、すでに石畳へ赤い染みを作っている。
ガレスもまた、半分になった盾を杖代わりにして膝を起こそうとしていた。
誰も死んではいない。
その事実に、ほんの一瞬だけ安堵しかける。
だが。
アスモデウスは彼らを見ていた。
バトラスではない。
黒い瞳が、礼拝堂に散らばる団員たちを順番に追っていく。
ルーク。
エレナ。
ロイド。
ガレス。
そして最後に、ミリアム。
その視線には怒りも焦りもなかった。
ただ、何かを選ぶような静けさだけがあった。
バトラスの背中を冷たい汗が伝う。
「俺だけを見ろ」
掠れた声で言う。
アスモデウスは答えない。
「お前の相手は俺だ」
剣先を持ち上げる。
「団員には手を出すな」
そこでようやく、アスモデウスの視線がバトラスへ戻った。
「なぜだ」
「何?」
「なぜ、私がお前の望みに従うと思う」
淡々とした問いだった。
バトラスは答えられなかった。
アスモデウスは黒剣を下ろす。
切っ先が石畳を擦り、甲高い音を立てる。
「お前は先ほど言ったな」
一歩。
銀髪の剣士が歩き出す。
「彼らを従えているのではない。共に戦っているのだと」
足音が響く。
ゆっくりと。
急ぐ必要などないと言わんばかりに。
「ならば見せてもらおう」
アスモデウスの視線が、バトラスの背後へ向けられる。
「お前たちの絆とやらが、どれほどのものか」
「待て」
バトラスは踏み出そうとした。
右脚に力を込める。
だが、膝が沈んだ。
「ぐっ……!」
剣を床へ突き立て、辛うじて倒れるのを防ぐ。
わずか一歩。
たったそれだけの距離すら、今の身体には遠かった。
アスモデウスは歩みを止めなかった。
その進む先にいるのは、ルークだった。
少年は瓦礫から上半身を起こしたばかりだった。
額から血を流し、焦点の合わない目で迫る銀髪を見上げている。
「ルーク!」
バトラスの声に、少年の肩が震えた。
「逃げろ!」
ルークは周囲を見た。
吹き飛ばされた扉。
崩れた壁。
倒れた仲間たち。
そして、剣を杖にして立つ団長。
その目に浮かんだ恐怖を、バトラスは見逃さなかった。
逃げろ。
もう一度、そう叫ぼうとした。
だが、ルークは逃げなかった。
震える手で瓦礫の中を探り、落ちていた剣の柄を掴む。
「ルーク、やめろ!」
「……大丈夫です」
声は震えていた。
足も震えている。
それでも少年は剣を支えにして立ち上がろうとした。
「まだ……戦えます」
「これは命令だ! 逃げろ!」
「嫌です」
小さな声だった。
けれど、はっきりと聞こえた。
ルークは涙を滲ませたまま、バトラスを見る。
「団長を置いて、逃げられません」
胸の奥が締め付けられた。
誇らしいと思ってしまった。
同時に、殴りつけてでも逃がしたいと思った。
それができない自分を、殺したいほど憎んだ。
「馬鹿野郎……」
バトラスの口から漏れた声は、叱責にはならなかった。
アスモデウスは、あと数歩の距離まで迫っている。
ルークは剣を持ち上げようとする。
だが腕に力が入らない。
切っ先が床を離れず、石畳の上を引きずった。
「立派だ」
アスモデウスが言った。
その声に、嘲りはなかった。
「恐怖に屈せず、傷ついてなお剣を取る。騎士としては正しい」
ルークの顔が強張る。
「だが」
黒い剣が、静かに持ち上がる。
「正しさは、弱者を救わない」
「やめろ!」
バトラスは走ろうとした。
右脚を踏み出した途端、視界が揺れる。
肺から血の味が込み上げた。
それでも止まらない。
一歩。
もう一歩。
間に合わない。
剣を振り上げたアスモデウスと、まともに構えることすらできないルークの距離が縮まる。
その間へ。
巨大な影が割り込んだ。
金属の塊が床へ叩きつけられる。
半壊した盾だった。
「ガレス!」
巨漢はルークを背に庇い、残された盾を前へ構えていた。
両脚は震えている。
鎧の隙間から血が流れ、床へ滴っていた。
それでも、その背中は大きかった。
「ガレスさん……」
「下がってろ、坊主」
「でも……」
「今くらい、年長者の言うことを聞け」
ガレスは振り返らない。
視線はアスモデウスだけを捉えている。
「団長」
低い声が響く。
「ルークを頼みます」
「何を言っている」
「俺は盾役です」
ひしゃげた盾を握る腕に、力が込められる。
「誰かを守って死ねるなら、本望ですよ」
「死ぬな!」
バトラスは叫んだ。
「これは命令だ! 全員、生きて帰ると言っただろう!」
ガレスの肩が僅かに揺れた。
笑ったのだと分かった。
「なら、命令違反ですな」
巨大な背中が、さらに一歩前へ出る。
「あとで、いくらでも叱ってください」
アスモデウスが足を止めた。
黒い瞳がガレスを見上げる。
「盾となるか」
「ああ」
「その壊れた鉄板で、私の剣を防ぐつもりか」
「違うな」
ガレスは盾の裏で歯を食いしばった。
「俺が盾だ」
礼拝堂に、静寂が戻る。
バトラスは動けなかった。
いや。
違う。
動くことを、アスモデウスに許されていなかった。
この男は、いつでもガレスを斬れる。
ルークを殺せる。
その上で、わざと待っている。
自分に見せるために。
仲間が命を懸ける姿を。
自分を守ろうとして、死んでいく姿を。
そこでようやく、バトラスは理解した。
この男は、自分たちを殺すことが目的ではない。
団長としての心を壊すことが目的なのだ。
その事実だけが、刃よりも鋭くバトラスの胸へ突き刺さった。
アスモデウスは静かに頷いた。
「なるほど。」
黒い剣がゆっくりと持ち上がる。
ガレスは盾を握る手に力を込めた。
震えていた。
恐怖ではない。
限界を迎えた肉体が悲鳴を上げている。
それでも、一歩も退かなかった。
「来い。」
短い言葉だった。
その瞬間。
黒い剣が消えた。
金属が砕ける轟音が礼拝堂を揺らす。
半壊した盾は中央から真っ二つに裂け、その破片が四方へ飛び散った。
ガレスの巨体が数歩後ろへ押し込まれる。
石畳が砕け、足跡のように深い溝が刻まれた。
だが。
倒れない。
「……まだだ。」
折れた盾を捨て、拳を握る。
血まみれの身体で、なお前へ出る。
その姿に、アスモデウスは初めて僅かに目を細めた。
「その肉体は見事だ。」
「褒められても嬉しくねぇよ。」
ガレスは笑う。
「俺は、お前を止める。」
叫ぶこともなく踏み込む。
拳を振るう。
黒い剣が一閃した。
時間が止まったような静寂。
ガレスは数歩進み、そのまま膝をついた。
鎧の胸元に一本の裂け目が走る。
赤い雫が静かに零れ落ちた。
「団長……」
振り返らない。
前を向いたまま、小さく笑う。
「……約束、守れませんでした。」
その巨体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
「ガレスッ!」
バトラスは駆け出した。
だが、その前へ黒い剣が音もなく差し出される。
あと一歩。
その一歩が踏み出せない。
「退けぇぇぇ!」
怒号と共に飛び込んだのはロイドだった。
短剣を逆手に構え、一気に間合いを潰す。
狙いはアスモデウスではない。
ガレスの亡骸を抱えて退く、その一瞬の隙だった。
「団長! 連れて行け!」
短剣が閃く。
アスモデウスは避けない。
ただ左手で刃を掴む。
鋼が軋む音。
短剣は音を立てて砕け散った。
「悪くない判断だ。」
その一言の直後。
柄頭がロイドの胸を打つ。
骨が砕ける鈍い音が響く。
ロイドは血を吐きながらなお笑った。
「……はは。」
「最後まで……俺らしいでしょう。」
「ロイド!」
「団長。」
息をするたび血が溢れる。
「命令違反……二回目です。」
その身体が横へ倒れる。
二度と起き上がらなかった。
礼拝堂に、ルークの嗚咽だけが響く。
「嫌だ……。」
「嫌だ……。」
剣を握る手が震える。
涙で前が見えない。
エレナが静かに少年の肩へ手を置いた。
「泣くのは後。」
「でも……!」
「騎士でしょう。」
彼女は静かに微笑んだ。
「団長に教わったこと、忘れたの?」
ルークは唇を噛む。
震えながら頷いた。
エレナはバトラスを見た。
目だけで伝える。
――ルークをお願いします。
その意味を理解した瞬間、バトラスは首を振る。
「駄目だ!」
「命令よ。」
エレナは笑った。
「これは副団長命令。」
細い身体が床を蹴る。
銀の軌跡が一直線に伸びる。
これまでで最も速い踏み込みだった。
アスモデウスは静かに迎え撃つ。
剣と剣が交わる。
一合。
二合。
三合。
火花だけが礼拝堂を照らす。
その四合目。
エレナの刃先が、アスモデウスの頬を浅く裂いた。
赤い一筋。
礼拝堂が静まり返る。
アスモデウスは指先で血を拭う。
その赤を見つめ、小さく頷いた。
「美しい剣だった。」
その言葉が、手向けになった。
黒い刃が閃く。
エレナの剣は静かに床へ落ちる。
彼女は崩れ落ちながら、最後までバトラスから目を逸らさなかった。
「立って。」
それだけを残して、瞳を閉じた。
「やめろおおおおッ!」
絶叫が礼拝堂を震わせる。
バトラスだった。
剣を振るい、何度も斬りかかる。
怒りも悲しみも、全てを乗せた剣。
しかし。
届かない。
黒い剣が一度動くたび、弾き返される。
転がされる。
叩きつけられる。
起き上がる。
また弾かれる。
その繰り返し。
アスモデウスは一歩も退かない。
ただ淡々と、バトラスを立たせ続ける。
「まだだ。」
静かな声。
「お前は、最後まで立っていろ。」
その言葉が、呪いのように礼拝堂へ響いた。
残されたのは、ルークとミリアムだけだった。
ガレスは動かない。
ロイドも。
エレナも。
白い法衣だけが揺れている。
ミリアムはその場に立ち尽くし、小さく震えていた。
涙が止まらない。
それでも、その両手は治癒術の光を消さなかった。
誰か一人でも。
まだ助けられるかもしれない。
そんな願いだけが、彼女を立たせていた。
アスモデウスはゆっくりと歩き出す。
剣は肩へ担いだまま。
急ぐ様子もない。
一歩。
また一歩。
その足音だけが礼拝堂を支配する。
「ルーク。」
バトラスは息を切らしながら呼ぶ。
「団長……。」
少年の返事は震えていた。
「ミリアムを連れて逃げろ。」
ルークは目を見開いた。
「でも団長は!」
「命令だ。」
その一言に、ルークは唇を噛む。
逃げたい。
団長を置いていきたくない。
二つの思いが胸の中でぶつかり合う。
だが。
彼は頷いた。
「……了解。」
ふらつきながらミリアムへ駆け寄る。
「行きましょう!」
ミリアムは首を横に振った。
「嫌です。」
「早く!」
「置いていけません。」
「団長の命令です!」
「私は……。」
涙が零れる。
「私は、あの人の婚約者です。」
その言葉に、ルークは何も返せなかった。
アスモデウスは二人を見つめる。
興味深そうに。
「そうか。」
静かな声だった。
「ならば、お前からだ。」
黒い剣が、ゆっくりと持ち上がる。
「やめろォォォッ!」
バトラスが飛び出す。
全身の痛みも忘れ、ただ走る。
間に合わない。
その瞬間。
「団長!」
ルークが叫び、アスモデウスへ飛び掛かった。
子どものように無謀な突撃。
黒剣は振るわれない。
アスモデウスは左手でルークの剣を受け止め、そのまま少年を突き飛ばす。
ルークは祭壇へ叩きつけられ、床を転がる。
もう立ち上がれない。
それでも彼は顔だけを上げた。
「団長……。」
震える唇で笑おうとする。
「俺……。」
「騎士に……なれましたか。」
バトラスの喉が詰まる。
答えようと口を開いた、その瞬間。
黒い刃が閃いた。
ルークの声は、そこで途切れた。
礼拝堂には、二人だけしか残っていない。
バトラス。
そして、ミリアム。
崩れた祭壇から朝の光が差し込み、砕けたステンドグラスの破片を淡く照らしている。
赤、青、緑、金。
色鮮やかな光は、石畳に横たわる仲間たちの亡骸を静かに染めていた。
ガレス。
ロイド。
エレナ。
ルーク。
誰も動かない。
誰も、もう返事をしない。
「残るは二人。」
その言葉に、ミリアムがバトラスの前へ出る。
「もう……やめてください。」
涙を流しながらも、彼女は逃げなかった。
「お願いです。」
「この人だけは……。」
アスモデウスは首を傾げる。
「なぜだ。」
「この人は……。」
ミリアムは震える声で答えた。
「私の、未来だからです。」
礼拝堂に沈黙が落ちる。
アスモデウスは一歩踏み出した。
バトラスは反射的に立ち上がる。
足がもつれる。
それでも前へ出る。
「ミリアムには……。」
剣を構える。
「俺がいる。」
「まだ立つか。」
「立つ。」
右手が震える。
剣先が揺れる。
「最後まで。」
アスモデウスは静かに黒剣を構えた。
一瞬だった。
世界が黒く染まる。
バトラスは反射的にミリアムを突き飛ばす。
同時に、焼けつくような痛みが右顔面を貫いた。
「あああああぁぁぁぁぁっ!」
鮮血が噴き上がる。
右目が見えない。
熱い。
痛い。
何も映らない。
膝が折れる。
それでも倒れない。
左目だけで前を見る。
アスモデウスは静かに頷いた。
「約束は守った。」
その声に、バトラスは歯を食いしばる。
「まだ……終わって……。」
言い終える前に、白い悲鳴が響いた。
「バトラス!」
振り向く。
ミリアムだった。
彼女はバトラスへ駆け寄っていた。
その姿へ、黒い剣が静かに振るわれる。
「やめろォォォォッ!」
手を伸ばす。
届かない。
指先が触れるより早く、白い法衣が赤く染まった。
ミリアムは倒れなかった。
ゆっくりと歩き、バトラスの胸へ身体を預ける。
「……ごめんね。」
涙を浮かべながら笑う。
「約束……守れなかった。」
震える手が、バトラスの頬へ触れる。
「でも……。」
左目を見つめる。
「あなたは、生きて。」
その手から力が抜ける。
温もりが、ゆっくりと消えていった。
礼拝堂は静まり返る。
アスモデウスは黒剣を払うと、背を向けた。
出口へ向かって歩きながら、一度だけ足を止める。
「バトラス。」
振り返らないまま言う。
「最後まで立っていたな。」
そのまま、礼拝堂を去っていく。
足音が遠ざかる。
やがて完全に消えた。
残されたのは、朝日に照らされた礼拝堂。
仲間たちの亡骸。
腕の中で冷たくなっていくミリアム。
そして、右目から血を流しながら、それでも崩れ落ちることなく立ち尽くす、一人の騎士だけだった。
――蒼銀の獅子騎士団は、この日、滅んだ。
第四話へ続く




