剣の侯爵
――勝てない。
その思いが脳裏をよぎった直後、バトラスは瓦礫の中で目を開いた。
息を吸おうとした瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。
「ぐっ……」
砕けた石壁にもたれたまま、喉までせり上がった血を無理やり飲み込む。左腕にはほとんど感覚がなかった。盾は中央から大きくへこみ、縁には黒い剣によって刻まれた深い亀裂が走っている。
王国の鍛冶師が打った鋼鉄の盾。
これまで幾度となく矢を弾き、魔獣の爪を防ぎ、仲間たちの命を守ってきた。
それが、たった一度の斬撃で壊れかけていた。
「団長!」
土煙の向こうから、ミリアムの声が聞こえる。
駆け寄ろうとした彼女の前へ、ロイドが腕を伸ばした。
「来るな!」
「でも、バトラスが!」
「団長の命令だ! 俺から離れるな!」
声を荒らげながらも、ロイドの視線はアスモデウスから外れていない。
長い銀髪を垂らした剣士は、礼拝堂の中央に立っていた。
先ほどと変わらぬ姿勢。
呼吸一つ乱れていない。
黒い刀身から赤黒い雫が滴り、石畳へ落ちるたび、微かな煙が立ち上っている。
「立てるか、団長」
ガレスが巨大な盾を構えながら、ゆっくりとバトラスの前へ移動した。
「ああ」
答えたものの、身体は言葉に従わなかった。
右膝を立てる。
剣を杖代わりにして立ち上がろうとした途端、肺から空気が押し出された。
「無理をするな」
「ここで寝ていられる状況に見えるか」
バトラスは歯を食いしばり、どうにか立ち上がった。
左腕は上がらない。
盾を捨て、右手の長剣だけを握る。
それを見たアスモデウスが、わずかに目を細めた。
「ほう。まだ立つか」
「悪いな」
バトラスは口元の血を拭った。
「部下の前で寝ているわけにはいかない」
「部下、か」
アスモデウスは礼拝堂を見渡した。
ロイド。
ガレス。
エレナ。
ルーク。
そしてミリアム。
その一人ひとりを値踏みするように眺め、つまらなそうに息を吐く。
「弱者を従えることに、何の意味がある」
「従えているんじゃない」
「では、何だ」
「共に戦っている」
一瞬の沈黙。
次いで、アスモデウスの喉から低い笑い声が漏れた。
「同じことだ」
「違う」
バトラスは即座に否定した。
「お前には分からないだろうがな」
挑発だった。
アスモデウスの意識を自分へ引きつけるための、稚拙で危険な挑発。
だが、それでいい。
バトラスの背後では、エレナがわずかに位置を変えていた。ルークも彼女の動きを見て、音を立てずに右側へ回り込もうとしている。
ロイドはミリアムを庇いながら左へ。
ガレスは正面。
何度も繰り返してきた包囲の形だった。
言葉を交わさなくても、全員が次に何をすべきか理解している。
アスモデウスの口元が歪んだ。
「時間を稼いでいるつもりか」
見抜かれている。
それでもバトラスは表情を変えなかった。
「総員」
剣を構える。
「目標、アスモデウス」
団員たちの呼吸が重なる。
「生きて帰るぞ」
「了解!」
最初に動いたのはエレナだった。
左足で石畳を蹴り、柱の陰へ飛び込む。
アスモデウスの視線がわずかに追った瞬間、反対側からロイドが駆けた。
「もらった!」
低い姿勢から放たれた刃が、アスモデウスの脇腹を狙う。
しかし、黒い剣が音もなく下がった。
鋼と鋼が触れた。
ただ、それだけだった。
ロイドの長剣が根元から折れた。
「は――?」
宙を舞う刃を見上げ、ロイドの動きが止まる。
「ロイド、下がれ!」
バトラスが叫ぶ。
アスモデウスの剣が横薙ぎに振るわれた。
その直前、巨大な盾が二人の間へ滑り込む。
「ぬうっ!」
ガレスが両足を踏ん張った。
黒い刀身が盾へ食い込み、火花が散る。
衝撃で石畳が割れ、ガレスの身体が数歩分押し戻された。
それでも倒れない。
「俺の後ろへ!」
ガレスの叫びに、ロイドが転がるように退いた。
その頭上をエレナが飛び越える。
「はあっ!」
狙いは首。
鋭く、迷いのない一閃。
アスモデウスはガレスの盾に剣を押し当てたまま、わずかに顔を傾けた。
エレナの刃が、銀髪を数本切り落とす。
届かなかった。
だが、初めて攻撃が彼の身体を掠めた。
「面白い」
アスモデウスが呟く。
直後、黒い剣を握る腕に力が込められた。
「ガレス!」
盾が砕けた。
厚い鋼板が内側から爆ぜ、無数の破片となって礼拝堂へ飛び散る。
ガレスの巨体が後方へ弾かれ、長椅子を巻き込みながら床へ倒れた。
「ガレスさん!」
ルークが駆け寄ろうとする。
「行くな!」
エレナが叫んだ。
アスモデウスの剣が、すでにルークへ向けられている。
少年の顔から血の気が引いた。
逃げるには遅い。
バトラスは痛む身体を無視し、二人の間へ割り込んだ。
振り下ろされた黒剣を、長剣で受け止める。
金属が軋んだ。
「ぐ……っ!」
腕が折れそうだった。
足元の石が砕け、バトラスの膝が床へ沈む。
アスモデウスは片手しか使っていない。
それでも押し返せない。
「団長!」
「ルーク、下がれ!」
「でも!」
「命令だ!」
少年は歯を食いしばり、後ろへ退いた。
その姿を確認し、バトラスは剣を滑らせるようにして黒剣を受け流す。
身体を回転させ、アスモデウスの胸元へ刃を突き出した。
刃先が黒い外套を裂いた。
その下にある服を貫き、確かな手応えが伝わる。
「入った!」
ロイドが叫んだ。
バトラスの剣は、アスモデウスの胸へ深く突き刺さっていた。
礼拝堂が静まり返る。
アスモデウスは自らの胸に刺さった剣を見下ろした。
次いで、ゆっくりと顔を上げる。
「なるほど」
その瞳には、痛みも怒りもなかった。
「お前が、この群れの長か」
バトラスの背筋を、冷たいものが走った。
剣を引き抜こうとする。
動かない。
アスモデウスが、素手で刃を握っていた。
掌から赤い血が流れる。
だが、その傷は見る間に塞がっていく。
「何……?」
裂けた胸元から覗く傷口も同じだった。
肉が蠢き、骨が繋がり、剣を押し出すようにして元の形へ戻っていく。
あり得ない。
人の治癒力ではない。
高位の治癒魔法でさえ、これほど瞬時に傷を塞ぐことはできない。
「下がって!」
ミリアムの声が響く。
彼女の両手から白い光が放たれ、バトラスの身体を包み込んだ。
折れかけた骨が軋み、傷ついた筋肉が熱を帯びる。
治癒術。
その光を目にしたアスモデウスの表情が、初めてわずかに変わった。
「ほう」
視線がバトラスから離れる。
ミリアムへ向けられる。
「治癒術師か」
その声に含まれた響きを、バトラスは聞き逃さなかった。
興味。
先ほどまで誰にも向けていなかった、明確な興味だった。
「ミリアム!」
叫んだ時には、アスモデウスの姿が消えていた。
黒い影が礼拝堂を駆ける。
真っ直ぐに。
ミリアムへ向かって。
黒い影が、床を滑るように駆け抜けた。
「させるかぁッ!」
最初に飛び出したのはロイドだった。
折れた長剣を迷いなく投げ捨て、腰から短剣を引き抜く。
剣士としては愚策。
だが、距離を稼ぐには十分だった。
アスモデウスの進路へ身を投げ出すように飛び込み、喉元を狙って短剣を突き出す。
黒い瞳が、ほんのわずかにロイドへ向く。
「勇気だけは認めよう」
乾いた声。
次の瞬間、黒剣の柄がロイドの脇腹へ叩き込まれた。
「がっ……!」
鈍い音とともに、ロイドの身体が宙を舞う。
礼拝堂の柱へ激突し、そのまま床へ転がった。
短剣が石畳を滑り、乾いた音を立てる。
「ロイドさん!」
ルークが叫ぶ。
「前を見る!」
エレナの一喝が飛ぶ。
同時に彼女自身も床を蹴っていた。
細身の身体からは想像もできない速度。
低く潜り込み、黒剣の死角へ入り込む。
「はぁぁッ!」
鋭い連撃。
一閃。
二閃。
三閃。
銀色の刃が稲妻のように閃き、アスモデウスの外套を切り裂く。
だが。
その全てが、あと紙一枚届かなかった。
避けたようには見えない。
そこにいるはずなのに、斬れない。
まるで蜃気楼を相手に剣を振るっているようだった。
「速いな」
アスモデウスが呟く。
「人間としては」
その一言で十分だった。
黒剣が、ほんのわずかに持ち上がる。
エレナの瞳が見開かれた。
「しまっ――」
衝撃。
見えなかった。
何をされたのか誰にも分からない。
気付けばエレナの身体は礼拝堂の長椅子を三つまとめて吹き飛ばし、祭壇の階段まで転がっていた。
「エレナ!」
バトラスが叫ぶ。
返事はない。
彼女はまだ息をしている。
だが、立ち上がれない。
肋骨が何本も折れているのは遠目にも分かった。
「畜生……!」
ルークが震える足で剣を構える。
怖い。
身体が言うことを聞かない。
目の前の男を見ているだけで、膝が勝手に震えてしまう。
それでも。
逃げられない。
騎士だからではない。
後ろにはミリアムがいる。
団長がいる。
仲間がいる。
「蒼銀の獅子騎士団!」
震える声で叫ぶ。
「ルーク・エインズ!」
自分を奮い立たせるように名乗りを上げる。
「参ります!」
一直線に踏み込んだ。
教本どおりの、美しい踏み込み。
バトラスが何度も教えた基本。
恐怖を押し殺し、全力で放った渾身の一撃。
アスモデウスはその剣を見つめ、小さく息を吐いた。
「惜しい」
黒剣は動かない。
代わりに左手だけが伸びる。
ルークの手首を掴む。
「え……?」
完全に止められた。
力が違いすぎる。
剣が一ミリも進まない。
「教えが良い」
アスモデウスは初めてバトラスを見る。
「だが、経験が足りぬ」
軽く腕を振る。
ルークの身体が人形のように放り投げられ、礼拝堂の扉へ激突した。
重い木扉が蝶番ごと吹き飛び、少年は瓦礫の中へ埋もれる。
「ルーク!」
ミリアムが悲鳴を上げる。
その声を聞き、アスモデウスが再び歩き出した。
今度こそ真っ直ぐに。
ミリアムだけを見据えて。
「もう、やめて!」
ミリアムの両手から眩い光が溢れる。
治癒術ではない。
光の障壁。
彼女が使える数少ない防御魔法だった。
白い壁が二人の間へ展開される。
しかし。
アスモデウスは歩みを止めない。
黒剣を振り下ろすことすらしなかった。
そのまま障壁へ手を伸ばす。
パリン――。
硝子が割れるような音が礼拝堂へ響いた。
王都でも屈指の治癒術師が張った結界が、紙細工のように砕け散る。
ミリアムの顔から血の気が引いた。
「そんな……」
彼女の肩を誰かが強く押した。
「下がれ!」
バトラスだった。
全身を血に染めながら、それでもミリアムの前へ立つ。
右手一本で剣を握り直し、ゆっくりと切っ先を上げる。
「もう十分だ」
アスモデウスが言う。
「お前では、私を止められない」
「そうかもしれない」
バトラスは苦笑した。
「だがな」
一歩。
前へ出る。
「止められないからって、退く理由にはならない」
礼拝堂に静寂が落ちた。
ロイドは瓦礫の中で拳を握り締める。
ガレスは砕けた盾を杖代わりに立ち上がろうとしている。
エレナも、血を吐きながら剣へ手を伸ばした。
ルークは崩れた扉の向こうで、震える腕を必死に地面へ突いていた。
誰一人、諦めていない。
その光景を見つめたアスモデウスは、小さく目を閉じる。
「……なるほど」
静かな声だった。
「だから、お前たちは滅びるのだ」
その言葉と同時に。
礼拝堂の空気が、凍りついた。
アスモデウスは静かに剣を下ろした。
ただ、それだけだった。
それだけの動作で、礼拝堂全体を覆う重圧がさらに増した。
呼吸が苦しい。
肺へ空気が入らない。
ルークは崩れた扉の前で膝をつき、必死に息を吸おうとしていた。
「身体が……動かない……」
剣を握る指先が震える。
恐怖ではない。
それ以上の何か。
本能そのものが、この男へ刃を向けることを拒絶していた。
「ルーク!」
バトラスの声が飛ぶ。
「目を逸らすな!」
少年は顔を上げる。
瓦礫の向こうには、血に染まりながら立ち続ける団長の背中があった。
その姿を見た瞬間、震えていた足にわずかな力が戻る。
「はい……!」
バトラスは小さく頷いた。
まだ折れてはいない。
それだけで十分だった。
「ロイド!」
「生きてますよ……」
柱にもたれながら、ロイドが苦笑する。
脇腹を押さえた指の隙間から血が流れていた。
「剣は?」
「折れました」
「短剣は」
「まだあります」
「なら戦えるな」
「相変わらず無茶を言いますね」
口ではそう言いながらも、ロイドは短剣を逆手に握り直した。
「ガレス」
「問題ない」
問題ないはずがない。
砕けた盾は半分以上を失い、鎧もひしゃげている。
それでもガレスは立ち上がった。
大きく息を吸い、残った盾を前へ構える。
「エレナ」
「まだ……腕は動くわ」
エレナは口元の血を拭い、ゆっくりと剣を構えた。
切っ先は微かに揺れている。
それでも瞳の鋭さだけは失われていなかった。
バトラスは仲間たちを見渡した。
誰も逃げない。
誰も諦めない。
だからこそ、胸が痛んだ。
本当なら、ここから全員を生きて帰らせたい。
その願いが、あまりにも遠かった。
「隊形を変える」
静かな声だった。
「俺が前へ出る」
「団長」
ロイドが顔をしかめる。
「囮になりますか」
「ああ」
「却下です」
「これは命令だ」
「嫌ですよ」
ロイドは笑った。
「そんな命令、聞けるわけないでしょう」
「……」
「俺たちは蒼銀の獅子です」
短剣を構えながら、バトラスの隣へ並ぶ。
「死ぬなら一緒ですよ」
「縁起でもないことを言うな」
「じゃあ、生きて帰りましょう」
ガレスが無言で二人の前へ出る。
エレナが右へ。
ルークが左へ。
そしてミリアムは震える手で治癒魔法を展開した。
柔らかな白い光が、五人を包み込む。
「お願い……」
彼女は祈るように呟いた。
「みんなを……守って……」
その光景を見つめながら、アスモデウスは静かに目を細めた。
「美しいな」
誰へ向けた言葉でもなかった。
「脆く、美しい」
黒剣を握る手に力が宿る。
「だからこそ」
一歩。
踏み出した。
地面が砕ける。
「壊し甲斐がある」
「来るぞ!」
バトラスが叫ぶ。
全員が同時に動いた。
ガレスが真正面から盾を叩きつける。
ロイドが低く潜り込む。
エレナが右から斬り込み、ルークが背後へ回る。
蒼銀の獅子騎士団が最も得意とする連携。
何百もの戦場で敵を討ち取ってきた必勝の陣形だった。
だが。
アスモデウスは止まらない。
黒い剣が一閃する。
凄まじい衝撃が礼拝堂を駆け抜けた。
祭壇が砕ける。
長椅子が宙を舞う。
色鮮やかなステンドグラスが、一斉に砕け散った。
爆風のような衝撃に、ミリアムは思わず目を閉じる。
白い光が消えた。
静寂。
ゆっくりと舞い落ちる色硝子の破片だけが、礼拝堂へ音を響かせる。
「……団長?」
返事がない。
土煙の向こうは何も見えない。
「ロイド?」
「ガレスさん!」
「エレナ!」
「ルーク!」
呼んでも返事は返ってこない。
恐る恐る一歩踏み出した、その時だった。
土煙の奥から、重い足音が響く。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
その姿が現れる。
銀髪。
黒い外套。
黒い剣。
アスモデウスだった。
傷一つ負っていない。
まるで今の攻防など、何もなかったかのように。
彼は無言のまま歩みを止めると、ゆっくりと黒剣を肩へ担いだ。
「失望した」
静かな声。
「王国最強とは、この程度か」
その言葉が礼拝堂へ落ちた瞬間――
瓦礫の山が、小さく動いた。
血まみれの右手が石を掴む。
そして。
バトラスが、再び立ち上がった。
全身は傷だらけだった。
鎧は砕け、長剣も刃こぼれしている。
それでも彼は倒れない。
仲間たちを背に、ゆっくりと剣を構える。
アスモデウスは、その姿を見て初めて薄く笑った。
「いい」
その笑みには、ほんのわずかな歓喜が混じっていた。
「ならば、お前だけは最後まで立っていろ」
黒い剣先が、静かにバトラスへ向けられる。
第三話へ続く




