蒼銀の獅子
「すべてを失った騎士は、魔女と契り、復讐者となる。」
復讐に生きる騎士と、死を夢見る不死の魔女。
二人の出会いが、英雄と魔女に隠された世界の真実を暴いていく。
これは、すべてを失った男が再び生きる理由を見つける物語。
そして、永遠を生きる魔女が、死ではなく生を望んでしまうまでの物語。
その日、王国最強と謳われた騎士団は滅びた。
だが、朝日に照らされた王都で、その運命を知る者はまだ誰もいなかった。
王都アルディアの朝は早い。
東の城壁から差し込む光が、赤褐色の屋根を順番に照らし、やがて石畳の大通りへと降りてくる。パン屋の窯からは香ばしい匂いが漂い、露店の商人たちは眠気の残る声で客を呼び込んでいた。
荷車の車輪が軋み、馬の蹄が石畳を叩く。
仕事へ向かう職人。
水瓶を抱えた女たち。
木剣を腰に差し、騎士の真似をして走り回る子供たち。
いつもと変わらない、穏やかな朝だった。
「来たぞ!」
大通りの端で、一人の少年が声を上げた。
「蒼銀の獅子だ!」
その声に、人々が一斉に振り返る。
通りの向こうから、深い蒼色の外套をまとった騎士たちが歩いてきた。
胸元には、銀糸で縫い取られた獅子の紋章。
王国直属――蒼銀の獅子騎士団。
国境での戦争。
魔獣の討伐。
山賊の掃討。
貴族の反乱。
幾度となく王国を危機から救い、創設以来、一度も任務に失敗したことがないとされる精鋭部隊である。
人々は道を空け、憧れと敬意の眼差しを向けた。
その先頭を歩く男に、特に多くの視線が集まる。
バトラス・レイヴン。
二十代半ばにして騎士団長の座に就いた、王国でも屈指の剣士だった。
短く整えた黒髪。
鋭く、それでいて静かな灰色の瞳。
堂々とした体格を包む銀の甲冑には、余計な装飾がない。腰に佩いている剣も、特別な宝剣ではなく、王国騎士に支給される一般的な長剣だった。
若い。
王国最強の騎士団を率いるには、あまりにも若く見える。
だが、その歩みに迷いはなかった。
彼の背を追う団員たちもまた、誰一人としてその若さを不安には思っていない。
バトラスが前を歩いている。
ただそれだけで、必ず帰れると信じていた。
「団長」
すぐ後ろを歩いていた赤毛の騎士が、声を潜めた。
「少しくらい手を振ってやったらどうです?」
ロイド・バルカ。
蒼銀の獅子騎士団でも随一の軽口と素行の悪さを誇る男である。
騎士らしからぬ長めの赤毛を後ろで束ね、正装の列にいるというのに、外套の留め具すら適当に締めていた。
「何の話だ」
「子供たちですよ。さっきから団長を見てます」
バトラスは視線だけを横へ向けた。
通りの脇にいた子供たちが、木剣を胸の前で構えている。
「バトラス様だ!」
「本物だ!」
「俺もいつか蒼銀の獅子に入るんだ!」
小さな手が何本も振られていた。
バトラスは少し迷った後、彼らに向かって軽く右手を上げた。
子供たちから大歓声が上がる。
ロイドが満足そうに頷いた。
「ほら。俺の助言のおかげで、今日も王都に笑顔が増えました」
「お前に手を振ったわけではない」
「分かりませんよ。あの中に一人くらい、俺の将来性に気づいている子供がいるかもしれない」
「将来性という歳でもないだろう」
背後から、低い声が飛んできた。
ロイドが振り返る。
大柄な騎士が、巨大な盾を背負って歩いていた。
ガレス・ハルト。
岩のような体格と寡黙な性格を持つ重装騎士である。
笑うことは少なく、冗談を理解するまでに時間がかかる。だが、戦場で彼の盾ほど信頼できるものはない。
「ガレス、お前は本当に夢がないな」
「お前が現実を見ていないだけだ」
「人生には夢が必要なんだよ」
「訓練場の掃除を三日分残している者が言う台詞ではない」
ロイドの顔から笑みが消えた。
「……忘れてた」
「忘れたのではなく、逃げていただけだろう」
「団長。ガレスが俺をいじめます」
「掃除をしろ」
「団長まで冷たい!」
列の後方から笑いが起こる。
その中心で、長い金髪を後ろに束ねた女騎士が呆れたように肩をすくめた。
エレナ・クロード。
細身の体から繰り出される素早い剣技を得意とする、騎士団でも指折りの剣士だ。
整った顔立ちをしているが、本人は男たちから向けられる視線にまるで興味がない。むしろ、訓練の邪魔をされることの方が腹立たしいらしい。
「王都の大通りで恥を晒すのはやめなさい」
「俺は晒してない。晒してるのはガレスだ」
「どう見てもあなたよ」
「エレナまで敵に回った」
「味方だったことがある?」
「言葉にすると、結構傷つくな」
エレナの隣を歩いていた少年が、堪えきれずに吹き出した。
まだ幼さの残る顔立ち。
明るい茶色の髪。
新品の甲冑は、わずかに肩に馴染んでいない。
ルーク・エインズ。
蒼銀の獅子騎士団の最年少団員であり、正式に入団してから半年ほどしか経っていない。
十七歳という若さながら、剣の才能は誰もが認めていた。
「ロイドさん、昨日も掃除から逃げていましたよね」
「ルーク。人は誰しも、触れてはいけない過去を持っている」
「昨日のことは過去って言わないと思います」
「最近の若者は理屈っぽいな」
「あなたが屁理屈ばかり言うからでしょう」
エレナが冷たく言い放つ。
また団員たちが笑った。
バトラスは前を向いたまま、口元にわずかな笑みを浮かべていた。
これが、蒼銀の獅子の日常だった。
王国最強。
無敗の騎士団。
人々は彼らをそう呼んだ。
だが、鎧を脱げば普通の人間にすぎない。
くだらないことで笑い。
互いの失敗をからかい。
同じ食卓を囲み。
時には喧嘩もする。
戦場では何度も死線を越えてきた。
それでも王都へ戻れば、明日も同じ日常が続くと誰もが信じていた。
バトラスもまた、その一人だった。
騎士団本部へ戻ると、団員たちはそのまま訓練場へ向かった。
広い中庭には砂が敷かれ、周囲を石造りの建物が囲んでいる。武器庫、宿舎、食堂、治療室。
長く共に戦ってきた団員たちにとって、ここは単なる施設ではない。
帰るべき家だった。
訓練場では、朝から剣と剣がぶつかる乾いた音が響いていた。
「そこまで!」
バトラスの声に、木剣を交えていた二人が動きを止める。
片方はルーク。
もう片方はエレナだった。
ルークは肩で息をしながらも、まだ剣を下ろしていない。対するエレナは、額に薄く汗を浮かべているだけで、呼吸一つ乱れていなかった。
「ルーク」
「はい!」
「踏み込みが深すぎる」
バトラスは二人の間へ歩み寄った。
「攻撃に意識を取られすぎだ。外された後のことを考えていない」
「でも、速く踏み込まないとエレナさんには届きません」
「相手に届くことと、無防備になることは別だ」
ルークは悔しそうに唇を噛んだ。
「もう一度お願いします」
「少し休め」
「まだやれます」
「若いねえ」
訓練場の端で寝転がっていたロイドが、他人事のように言った。
両手を頭の後ろで組み、雲一つない空を見上げている。
エレナが彼の腹に木剣の先を押し当てた。
「あなたも立ちなさい」
「俺は今、体力を温存している」
「訓練中に温存してどうするの」
「いざという時に動くためだ」
「今がいざという時よ」
「話し合おう。暴力はよくない」
エレナの木剣が、容赦なくロイドの脇腹に叩き込まれた。
「痛ぇ!」
「立ちなさい」
「この女、本当に加減を知らない!」
「敵が加減してくれるとでも思っているの?」
「団長! 部下が暴行を受けています!」
バトラスはルークに木剣を構え直させながら答えた。
「受けて当然だ」
「この騎士団に慈悲はないのか!」
「治療室へ行けば、ミリアムさんが治してくれるんじゃないですか?」
ルークが悪気なく言う。
ロイドの顔に、意地の悪い笑みが浮かんだ。
「なるほど。さすが期待の新人だ」
「ミリアムを巻き込むな」
バトラスの声が、わずかに低くなる。
ロイドはそれを聞き逃さなかった。
「おや。まだ名前を出しただけですよ、団長」
「何が言いたい」
「別に何も。ただ、団長はミリアムのことになると、声が一段低くなるなと思いまして」
周囲にいた団員たちが、聞き耳を立てるように動きを止めた。
バトラスはその視線に気づき、眉を寄せる。
「訓練を続けろ」
「照れてるんですか?」
「続けろ」
「結婚式はいつに――」
バトラスの木剣が飛んだ。
「うおっ!」
ロイドの頭上を掠め、背後の木柱に突き刺さる。
訓練場が静まり返った。
ロイドは数秒固まった後、額に浮かんだ汗を袖で拭った。
「じょ、冗談ですよ」
「次は外さない」
「それ、騎士団長が言っていい台詞ですか?」
「騒ぐ元気があるなら、俺と模擬戦をしろ」
「遠慮します」
「命令だ」
ロイドの顔が引きつる。
団員たちから歓声が上がった。
「団長、手加減してくださいよ!」
「敵が手加減してくれると思っているのか?」
「エレナの台詞を都合よく使った!」
バトラスは別の木剣を受け取り、構えた。
その瞬間、先ほどまでの穏やかな雰囲気が消える。
右足を半歩引く。
剣先をわずかに下げる。
ただそれだけで、訓練場の空気が変わった。
ロイドも軽口を止めた。
木剣を構え、重心を低くする。
普段はふざけてばかりいる男だが、剣を握れば別人のような鋭さを見せる。
「始め!」
エレナの声と同時に、ロイドが地面を蹴った。
速い。
真正面から飛び込むと見せかけ、直前で体を沈めて横へ回り込む。
狙いは、バトラスの利き腕とは反対側。
木剣が脇腹を狙う。
バトラスは振り向かなかった。
背中を向けたまま剣を下げ、ロイドの一撃を受け止める。
「なっ――」
そのまま手首を返した。
ロイドの木剣が弾かれ、宙を舞う。
次の瞬間には、バトラスの剣先が彼の喉元で止まっていた。
訓練場に沈黙が落ちる。
ロイドは数秒間、目の前の木剣を見つめていた。
やがて諦めたように両手を上げる。
「参りました」
団員たちからどよめきが起こった。
「今のは悪くなかった」
バトラスは木剣を下ろした。
「褒められている気がしませんね」
「相手の死角を取ろうとした判断はいい。だが、お前は自分の速さを信用しすぎる」
「俺から速さを取ったら、何が残るんです?」
「掃除当番」
ガレスの言葉に、訓練場が笑いに包まれた。
「今日のお前、やけに喋るな!」
ロイドが声を上げる。
バトラスは笑いが収まるのを待ってから、若い団員たちを見渡した。
「速さは武器になる。力も、技も同じだ」
訓練場が静かになる。
「だが、それだけで格上の敵は倒せない。自分の武器を過信すれば、次の一撃で死ぬ」
ルークの表情が引き締まった。
バトラスは、自分の左手に視線を落とした。
何度も剣を握ってきた手。
仲間を守るために鍛えてきた手。
「倒せない敵がいたなら、逃げろ」
数人の団員が、意外そうな顔をした。
「任務を捨ててもいい。剣を捨てても構わない。生きて戻れ」
「でも、それでは騎士の名誉が」
ルークが口にする。
「死んだ人間に名誉は守れない」
バトラスは真っ直ぐに彼を見た。
「騎士の務めは、立派に死ぬことではない。守るべき者を守り、生きて帰ることだ」
ルークは黙って頷いた。
戦場では、勇敢な者から死んでいく。
それをバトラスは知っていた。
敵へ背を向けることを恥じ、仲間を救おうとして命を落とす。
そんな騎士を何人も見てきた。
だからこそ、部下たちには生きていてほしかった。
無様でもいい。
泥にまみれてもいい。
剣を折られても、敗北してもいい。
全員で帰る。
蒼銀の獅子が守るべき、最も大切な掟だった。
「随分と厳しく指導しているのね」
訓練場の入口から、柔らかな声が聞こえた。
バトラスが振り向く。
白い法衣を身にまとった女が、大きな籠を両手に抱えて立っていた。
朝の光を受け、淡い栗色の髪が柔らかく輝いている。
その姿を目にした瞬間、バトラスの中にあった緊張が、わずかにほどけた。
ミリアム・セレス。
蒼銀の獅子騎士団専属の治癒術師であり、団員たちからは「騎士団のお母さん」と半ば本気で呼ばれている女性だった。
穏やかな笑顔と優しい物腰は誰に対しても変わらない。
戦場では瀕死の兵士さえ救う治癒魔法を操る一方で、負傷兵を勝手に訓練へ戻そうとした騎士には、団長以上に厳しく叱りつけることでも有名だった。
「ミリアムさん!」
真っ先に駆け寄ったのはルークだった。
「今日は何を持ってきてくれたんですか?」
「焼きたてのパンよ。それから干し肉と、野菜のスープも」
「やった!」
ルークが少年らしく笑う。
その横からロイドが肩を組んだ。
「新人。甘いな」
「え?」
「一番最初に行く相手が違う」
「違うんですか?」
「こういう時はまず団長を連れてくるんだ。そうすれば俺たちも堂々とご相伴にあずかれる」
「あなたが食べたいだけでしょう」
エレナが呆れたように言う。
「当然だ」
「開き直るな」
再び笑いが起きた。
ミリアムは籠を木の机へ置くと、一人ひとりへパンを配り始めた。
「ロイドは二つまで」
「なんでです?」
「前回、五つ食べたでしょう?」
「団長が食べないから」
「言い訳は禁止」
「ガレスは?」
「三つ」
「差別だ!」
「あなたの方が食べたからよ」
「納得いかない!」
団員たちは笑いながら昼食を受け取っていく。
そんな光景を眺めるバトラスのもとへ、ミリアムが歩いてきた。
「あなたの分」
差し出された包みは、少しだけ大きかった。
「また多いな」
「朝も食べていないでしょう?」
「……よく分かったな」
「あなたとは長い付き合いだもの」
ミリアムは少し得意そうに笑う。
バトラスは苦笑しながら包みを受け取った。
「ありがとう」
「ちゃんと全部食べるのよ」
「努力する」
「努力じゃなくて約束」
「……約束する」
そのやり取りを見ていたロイドが、にやにやしながら肘でガレスを突いた。
「見たか」
「見た」
「団長、完全に尻に敷かれてる」
「幸せそうで何よりだ」
「ガレスまでそんなこと言うのか」
バトラスは少しだけ居心地悪そうに咳払いをした。
「少し散歩しない?」
ミリアムが小さく尋ねる。
「ああ」
二人は訓練場を離れ、中庭の片隅へ歩いていく。
そこには一本の大きな楡の木が立っていた。
春になると若葉が茂り、夏には心地よい木陰を作る。
団員たちが昼寝をしたり、本を読んだりするお気に入りの場所だった。
木漏れ日の中で、二人は並んで腰を下ろす。
しばらくは何も話さなかった。
それでも沈黙は苦にならない。
隣にいるだけで落ち着く。
そんな関係だった。
「最近、ちゃんと眠れてる?」
ミリアムが尋ねる。
「ああ」
「嘘」
「……分かるのか」
「目の下に少しだけ疲れが残ってる」
バトラスは苦笑した。
「昨日は報告書が多かった」
「団長も大変ね」
「仕事だからな」
ミリアムは少し俯いた。
「ねえ」
「どうした」
「この前ね、夢を見たの」
「夢?」
「あなたが帰ってこない夢」
バトラスは何も言わなかった。
「何度呼んでも振り向いてくれなくて……追いかけても追いかけても遠くへ行ってしまうの」
彼女は自分の手を見つめる。
「治癒魔法を使っても届かなくて……目が覚めたら泣いてた」
木々を渡る風が静かに葉を揺らした。
バトラスはゆっくりと彼女の手を握る。
「夢だ」
「分かってる」
「俺は帰る」
「……本当に?」
「ああ」
彼は真っ直ぐ彼女を見つめた。
「帰らない約束はしない。騎士だからな」
ミリアムは小さく笑う。
「そういうところ、本当に不器用」
「だから約束する」
「え?」
「必ず帰る」
その一言だけで十分だった。
ミリアムの瞳が少し潤む。
「この任務が終わったら」
バトラスは静かに続けた。
「式を挙げよう」
風が止まった。
世界が静かになったように感じる。
「……今、何て言ったの?」
「結婚式だ」
「もう一回」
「この任務が終わったら結婚しよう」
ミリアムは両手で口元を押さえた。
嬉しそうに笑ったかと思うと、次の瞬間には涙をこぼしていた。
「遅いわ」
「ああ」
「本当に遅い」
「待たせた」
「うん……待った」
彼女は笑いながら涙をぬぐった。
「でも、嬉しい」
二人は小さく笑い合う。
「約束よ」
「ああ」
「この任務が終わったら」
「必ず」
二人は小指を絡めた。
子どもの頃のような、小さな約束だった。
だが、二人にとっては何より大切な誓いだった。
その時だった。
「団長!」
訓練場の入口から慌ただしい足音が響く。
一人の伝令騎士が息を切らせて駆け込んできた。
「王城より緊急招集です!」
空気が一変した。
笑い声が止む。
団員たちが一斉に立ち上がる。
バトラスはすぐに表情を切り替えた。
「内容は」
「辺境のエルダ村から連絡が途絶えました」
「いつからだ」
「十日前です」
ざわめきが走る。
「調査隊も?」
「はい。派遣した兵士三十名も戻っておりません」
ロイドの表情から笑みが消えた。
「三十人が?」
「生存者はいません」
「盗賊じゃないな」
ガレスが低く呟く。
「報告では村の周辺に濃い霧が発生しているそうです」
「霧?」
エレナが眉をひそめた。
「この季節に?」
「原因は不明です」
バトラスは数秒だけ考えた。
「出発は」
「本日中に」
「分かった」
彼は団員たちを見渡した。
「蒼銀の獅子、出動準備だ」
全員が背筋を伸ばえる。
「食料五日分。魔獣討伐装備も持たせろ。三十分後、正門前に集合」
「了解!」
返事が重なった。
騎士たちは一斉に散っていく。
先ほどまで笑っていた男たちは、もう戦場へ向かう兵士の顔になっていた。
バトラスはミリアムを見る。
「今回は危険かもしれない」
「だから行くわ」
「王都に残れ」
「嫌」
即答だった。
「私は蒼銀の獅子の治癒術師よ」
「それでも」
「あなたが危険な場所へ行くなら、私はそこであなたを治す」
その瞳には迷いがない。
バトラスは小さく息を吐いた。
「……必ず俺のそばを離れるな」
「約束する」
ミリアムは微笑んだ。
「あなたも約束して」
「ああ」
「必ず帰ってきて」
「必ず帰る」
二人はもう一度だけ視線を交わした。
それが、この穏やかな日常の終わりだった。
二日後。
蒼銀の獅子騎士団は、王都から北西へ三日の距離にあるエルダ村へ向かっていた。
王都を離れるにつれ、人の気配は少なくなり、街道を行き交う旅人の姿も消えていく。
先頭を歩くバトラスは、周囲へ静かに目を配っていた。
「静かですね」
ルークが小声で呟く。
「ああ」
バトラスは短く答えた。
鳥の鳴き声が聞こえない。
木々は風に揺れているのに、森そのものが息を潜めているようだった。
ガレスが地面へしゃがみ込む。
「獣の足跡がない」
「魔獣は?」
エレナが尋ねる。
「それもない」
ガレスの眉間に深い皺が寄る。
「何もいない」
その言葉が、不気味だった。
魔獣がいるなら痕跡がある。
獣が逃げたなら、慌てた足跡が残る。
だが、この森には何もない。
まるで最初から命というものが存在しなかったかのように。
先頭を歩くロイドが足を止めた。
「団長」
「どうした」
「見えてきました」
霧の向こうに、小さな村の輪郭が浮かび上がる。
エルダ村。
依頼書に記されていた目的地だった。
しかし、その光景は異様だった。
煙突から煙は上がっていない。
畑には収穫途中の野菜が残されている。
井戸には桶が落ちたまま。
洗濯物は干されたまま風に揺れていた。
人だけが、いない。
「総員、警戒」
バトラスの声で空気が張り詰める。
剣が一斉に抜かれた。
ミリアムは団員たちの中央へ移動し、治癒術の準備を整える。
家々を調べても、争った跡はなかった。
家具は倒れていない。
食卓には食べかけのパン。
暖炉には燃え尽きた薪。
住民たちは、日常の途中で消えたようだった。
「……気味が悪い」
ロイドが珍しく冗談を言わない。
その時だった。
「団長」
エレナが村の奥を指差した。
「あれを」
白い霧の向こうに、小さな教会が建っていた。
石造りの古い礼拝堂。
村で唯一、扉だけが固く閉ざされている。
「ガレス」
「周囲を警戒する」
「頼む」
バトラスは剣を握り直した。
「ロイド、ルーク。俺と来い」
「了解」
「ミリアムは後ろだ」
「分かってる」
ゆっくりと教会へ近づく。
一歩進むたびに、空気が重くなる。
息苦しい。
肺へ入る空気そのものが冷たい。
教会の前へ立つと、バトラスは異臭に気付いた。
「……血か」
鉄のような臭い。
古く乾いた血の臭いだった。
扉には無数の黒い染みが付いている。
血痕だった。
「ルーク」
「はい」
「何があっても飛び出すな」
「……はい」
バトラスは扉へ手を掛ける。
ゆっくりと押した。
重い木の扉が、長い悲鳴のような音を立てながら開いていく。
礼拝堂の中は薄暗かった。
窓は板で塞がれ、祭壇の上だけに一本の蝋燭が灯っている。
その灯りの前に、一人の男が立っていた。
長い銀髪。
黒い外套。
腰には、異様なほど黒い剣。
男は祭壇へ向かったまま動かない。
「おい」
バトラスが声を掛ける。
「村人たちはどこだ」
返事はない。
静寂だけが礼拝堂を満たす。
やがて男の肩が小さく震えた。
笑っている。
「蒼銀の獅子、か」
ゆっくりと振り返ったその顔を見た瞬間、バトラスの瞳が見開かれた。
見覚えがあった。
昔どこかで見た肖像画。
名はわからないが見たことがあった。
「私は、七侯爵が一角、剣の侯爵アスモデウス。」
あれは七侯爵の肖像画だったのか…?
どこで見た…?
疑問はあったが、考える余裕もなく緊張感が襲ってくる。
「……なぜ、あなたがここにいる。」
男は退屈そうに首を傾げた。
「私を知っているのか」
「肖像画で見たことがある。」
「そうか」
彼は小さく笑う。
「物好きもいたものだな。」
その声には誇りも喜びもない。
あるのは、心の底からの退屈だけだった。
足元で何かが転がる。
銀の首飾り。
子供用の小さな魔除けだった。
よく見ると祭壇の周囲には、同じ首飾りが何十個も積み重なっている。
ミリアムが息を呑んだ。
「村人たちに……何をしたの?」
アスモデウスは彼女を一瞥した。
「少し試しただけだ」
「試した?」
「人は、どこまで絶望に耐えられるのか」
礼拝堂の空気が凍る。
バトラスは一歩前へ出た。
「剣から手を離せ」
「ほう」
「王都まで同行してもらう」
アスモデウスの口元が、わずかに吊り上がった。
「面白い」
彼はゆっくりと剣の柄を握る。
その瞬間だった。
礼拝堂全体が軋んだ。
誰も動いていない。
それなのに石畳へ細かな亀裂が走る。
ルークの喉が鳴った。
ロイドの額を汗が流れる。
本能が叫んでいた。
逃げろ、と。
だが、誰も動けない。
「ロイド」
バトラスは低く言った。
「ミリアムを守れ」
「団長……」
「命令だ」
アスモデウスは静かに剣を抜いた。
黒い刀身。
赤黒い筋が、生き物の血管のように脈打っている。
見た瞬間、背筋を悪寒が走った。
あれは剣ではない。
災厄そのものだ。
「来るぞ!」
バトラスが叫ぶ。
その瞬間。
アスモデウスの姿が消えた。
「――なっ!?」
視界から完全に。
次の瞬間。
轟音。
黒い剣が、バトラスの盾へ叩き込まれた。
盾が悲鳴を上げる。
骨が軋む。
腕の感覚が消える。
そして。
盾ごと、バトラスの身体が礼拝堂の壁まで吹き飛んだ。
石壁が砕ける。
土煙が舞い上がる。
「団長ッ!!」
ロイドの絶叫が響く。
誰も動けなかった。
誰一人として。
王国最強。
無敗の騎士団。
その団長が。
たった一撃で、敗れた。
土煙の向こうから、アスモデウスは静かに笑う。
「そうか」
その瞳に、初めてわずかな愉悦が宿る。
「少しは、楽しめそうだ」
その言葉を聞いた瞬間。
バトラスは理解した。
――勝てない。
この男は、人間ではない。
第二話へ続く




