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蒼銀の獅子

 「すべてを失った騎士は、魔女と契り、復讐者となる。」


 復讐に生きる騎士と、死を夢見る不死の魔女。


 二人の出会いが、英雄と魔女に隠された世界の真実を暴いていく。


 これは、すべてを失った男が再び生きる理由を見つける物語。


 そして、永遠を生きる魔女が、死ではなく生を望んでしまうまでの物語。

その日、王国最強と謳われた騎士団は滅びた。


 だが、朝日に照らされた王都で、その運命を知る者はまだ誰もいなかった。


 王都アルディアの朝は早い。


 東の城壁から差し込む光が、赤褐色の屋根を順番に照らし、やがて石畳の大通りへと降りてくる。パン屋の窯からは香ばしい匂いが漂い、露店の商人たちは眠気の残る声で客を呼び込んでいた。


 荷車の車輪が軋み、馬の蹄が石畳を叩く。


 仕事へ向かう職人。


 水瓶を抱えた女たち。


 木剣を腰に差し、騎士の真似をして走り回る子供たち。


 いつもと変わらない、穏やかな朝だった。


「来たぞ!」


 大通りの端で、一人の少年が声を上げた。


「蒼銀の獅子だ!」


 その声に、人々が一斉に振り返る。


 通りの向こうから、深い蒼色の外套をまとった騎士たちが歩いてきた。


 胸元には、銀糸で縫い取られた獅子の紋章。


 王国直属――蒼銀の獅子騎士団。


 国境での戦争。


 魔獣の討伐。


 山賊の掃討。


 貴族の反乱。


 幾度となく王国を危機から救い、創設以来、一度も任務に失敗したことがないとされる精鋭部隊である。


 人々は道を空け、憧れと敬意の眼差しを向けた。


 その先頭を歩く男に、特に多くの視線が集まる。


 バトラス・レイヴン。


 二十代半ばにして騎士団長の座に就いた、王国でも屈指の剣士だった。


 短く整えた黒髪。


 鋭く、それでいて静かな灰色の瞳。


 堂々とした体格を包む銀の甲冑には、余計な装飾がない。腰に佩いている剣も、特別な宝剣ではなく、王国騎士に支給される一般的な長剣だった。


 若い。


 王国最強の騎士団を率いるには、あまりにも若く見える。


 だが、その歩みに迷いはなかった。


 彼の背を追う団員たちもまた、誰一人としてその若さを不安には思っていない。


 バトラスが前を歩いている。


 ただそれだけで、必ず帰れると信じていた。


「団長」


 すぐ後ろを歩いていた赤毛の騎士が、声を潜めた。


「少しくらい手を振ってやったらどうです?」


 ロイド・バルカ。


 蒼銀の獅子騎士団でも随一の軽口と素行の悪さを誇る男である。


 騎士らしからぬ長めの赤毛を後ろで束ね、正装の列にいるというのに、外套の留め具すら適当に締めていた。


「何の話だ」


「子供たちですよ。さっきから団長を見てます」


 バトラスは視線だけを横へ向けた。


 通りの脇にいた子供たちが、木剣を胸の前で構えている。


「バトラス様だ!」


「本物だ!」


「俺もいつか蒼銀の獅子に入るんだ!」


 小さな手が何本も振られていた。


 バトラスは少し迷った後、彼らに向かって軽く右手を上げた。


 子供たちから大歓声が上がる。


 ロイドが満足そうに頷いた。


「ほら。俺の助言のおかげで、今日も王都に笑顔が増えました」


「お前に手を振ったわけではない」


「分かりませんよ。あの中に一人くらい、俺の将来性に気づいている子供がいるかもしれない」


「将来性という歳でもないだろう」


 背後から、低い声が飛んできた。


 ロイドが振り返る。


 大柄な騎士が、巨大な盾を背負って歩いていた。


 ガレス・ハルト。


 岩のような体格と寡黙な性格を持つ重装騎士である。


 笑うことは少なく、冗談を理解するまでに時間がかかる。だが、戦場で彼の盾ほど信頼できるものはない。


「ガレス、お前は本当に夢がないな」


「お前が現実を見ていないだけだ」


「人生には夢が必要なんだよ」


「訓練場の掃除を三日分残している者が言う台詞ではない」


 ロイドの顔から笑みが消えた。


「……忘れてた」


「忘れたのではなく、逃げていただけだろう」


「団長。ガレスが俺をいじめます」


「掃除をしろ」


「団長まで冷たい!」


 列の後方から笑いが起こる。


 その中心で、長い金髪を後ろに束ねた女騎士が呆れたように肩をすくめた。


 エレナ・クロード。


 細身の体から繰り出される素早い剣技を得意とする、騎士団でも指折りの剣士だ。


 整った顔立ちをしているが、本人は男たちから向けられる視線にまるで興味がない。むしろ、訓練の邪魔をされることの方が腹立たしいらしい。


「王都の大通りで恥を晒すのはやめなさい」


「俺は晒してない。晒してるのはガレスだ」


「どう見てもあなたよ」


「エレナまで敵に回った」


「味方だったことがある?」


「言葉にすると、結構傷つくな」


 エレナの隣を歩いていた少年が、堪えきれずに吹き出した。


 まだ幼さの残る顔立ち。


 明るい茶色の髪。


 新品の甲冑は、わずかに肩に馴染んでいない。


 ルーク・エインズ。


 蒼銀の獅子騎士団の最年少団員であり、正式に入団してから半年ほどしか経っていない。


 十七歳という若さながら、剣の才能は誰もが認めていた。


「ロイドさん、昨日も掃除から逃げていましたよね」


「ルーク。人は誰しも、触れてはいけない過去を持っている」


「昨日のことは過去って言わないと思います」


「最近の若者は理屈っぽいな」


「あなたが屁理屈ばかり言うからでしょう」


 エレナが冷たく言い放つ。


 また団員たちが笑った。


 バトラスは前を向いたまま、口元にわずかな笑みを浮かべていた。


 これが、蒼銀の獅子の日常だった。


 王国最強。


 無敗の騎士団。


 人々は彼らをそう呼んだ。


 だが、鎧を脱げば普通の人間にすぎない。


 くだらないことで笑い。


 互いの失敗をからかい。


 同じ食卓を囲み。


 時には喧嘩もする。


 戦場では何度も死線を越えてきた。


 それでも王都へ戻れば、明日も同じ日常が続くと誰もが信じていた。


 バトラスもまた、その一人だった。


 騎士団本部へ戻ると、団員たちはそのまま訓練場へ向かった。


 広い中庭には砂が敷かれ、周囲を石造りの建物が囲んでいる。武器庫、宿舎、食堂、治療室。


 長く共に戦ってきた団員たちにとって、ここは単なる施設ではない。


 帰るべき家だった。


 訓練場では、朝から剣と剣がぶつかる乾いた音が響いていた。


「そこまで!」


 バトラスの声に、木剣を交えていた二人が動きを止める。


 片方はルーク。


 もう片方はエレナだった。


 ルークは肩で息をしながらも、まだ剣を下ろしていない。対するエレナは、額に薄く汗を浮かべているだけで、呼吸一つ乱れていなかった。


「ルーク」


「はい!」


「踏み込みが深すぎる」


 バトラスは二人の間へ歩み寄った。


「攻撃に意識を取られすぎだ。外された後のことを考えていない」


「でも、速く踏み込まないとエレナさんには届きません」


「相手に届くことと、無防備になることは別だ」


 ルークは悔しそうに唇を噛んだ。


「もう一度お願いします」


「少し休め」


「まだやれます」


「若いねえ」


 訓練場の端で寝転がっていたロイドが、他人事のように言った。


 両手を頭の後ろで組み、雲一つない空を見上げている。


 エレナが彼の腹に木剣の先を押し当てた。


「あなたも立ちなさい」


「俺は今、体力を温存している」


「訓練中に温存してどうするの」


「いざという時に動くためだ」


「今がいざという時よ」


「話し合おう。暴力はよくない」


 エレナの木剣が、容赦なくロイドの脇腹に叩き込まれた。


「痛ぇ!」


「立ちなさい」


「この女、本当に加減を知らない!」


「敵が加減してくれるとでも思っているの?」


「団長! 部下が暴行を受けています!」


 バトラスはルークに木剣を構え直させながら答えた。


「受けて当然だ」


「この騎士団に慈悲はないのか!」


「治療室へ行けば、ミリアムさんが治してくれるんじゃないですか?」


 ルークが悪気なく言う。


 ロイドの顔に、意地の悪い笑みが浮かんだ。


「なるほど。さすが期待の新人だ」


「ミリアムを巻き込むな」


 バトラスの声が、わずかに低くなる。


 ロイドはそれを聞き逃さなかった。


「おや。まだ名前を出しただけですよ、団長」


「何が言いたい」


「別に何も。ただ、団長はミリアムのことになると、声が一段低くなるなと思いまして」


 周囲にいた団員たちが、聞き耳を立てるように動きを止めた。


 バトラスはその視線に気づき、眉を寄せる。


「訓練を続けろ」


「照れてるんですか?」


「続けろ」


「結婚式はいつに――」


 バトラスの木剣が飛んだ。


「うおっ!」


 ロイドの頭上を掠め、背後の木柱に突き刺さる。


 訓練場が静まり返った。


 ロイドは数秒固まった後、額に浮かんだ汗を袖で拭った。


「じょ、冗談ですよ」


「次は外さない」


「それ、騎士団長が言っていい台詞ですか?」


「騒ぐ元気があるなら、俺と模擬戦をしろ」


「遠慮します」


「命令だ」


 ロイドの顔が引きつる。


 団員たちから歓声が上がった。


「団長、手加減してくださいよ!」


「敵が手加減してくれると思っているのか?」


「エレナの台詞を都合よく使った!」


 バトラスは別の木剣を受け取り、構えた。


 その瞬間、先ほどまでの穏やかな雰囲気が消える。


 右足を半歩引く。


 剣先をわずかに下げる。


 ただそれだけで、訓練場の空気が変わった。


 ロイドも軽口を止めた。


 木剣を構え、重心を低くする。


 普段はふざけてばかりいる男だが、剣を握れば別人のような鋭さを見せる。


「始め!」


 エレナの声と同時に、ロイドが地面を蹴った。


 速い。


 真正面から飛び込むと見せかけ、直前で体を沈めて横へ回り込む。


 狙いは、バトラスの利き腕とは反対側。


 木剣が脇腹を狙う。


 バトラスは振り向かなかった。


 背中を向けたまま剣を下げ、ロイドの一撃を受け止める。


「なっ――」


 そのまま手首を返した。


 ロイドの木剣が弾かれ、宙を舞う。


 次の瞬間には、バトラスの剣先が彼の喉元で止まっていた。


 訓練場に沈黙が落ちる。


 ロイドは数秒間、目の前の木剣を見つめていた。


 やがて諦めたように両手を上げる。


「参りました」


 団員たちからどよめきが起こった。


「今のは悪くなかった」


 バトラスは木剣を下ろした。


「褒められている気がしませんね」


「相手の死角を取ろうとした判断はいい。だが、お前は自分の速さを信用しすぎる」


「俺から速さを取ったら、何が残るんです?」


「掃除当番」


 ガレスの言葉に、訓練場が笑いに包まれた。


「今日のお前、やけに喋るな!」


 ロイドが声を上げる。


 バトラスは笑いが収まるのを待ってから、若い団員たちを見渡した。


「速さは武器になる。力も、技も同じだ」


 訓練場が静かになる。


「だが、それだけで格上の敵は倒せない。自分の武器を過信すれば、次の一撃で死ぬ」


 ルークの表情が引き締まった。


 バトラスは、自分の左手に視線を落とした。


 何度も剣を握ってきた手。


 仲間を守るために鍛えてきた手。


「倒せない敵がいたなら、逃げろ」


 数人の団員が、意外そうな顔をした。


「任務を捨ててもいい。剣を捨てても構わない。生きて戻れ」


「でも、それでは騎士の名誉が」


 ルークが口にする。


「死んだ人間に名誉は守れない」


 バトラスは真っ直ぐに彼を見た。


「騎士の務めは、立派に死ぬことではない。守るべき者を守り、生きて帰ることだ」


 ルークは黙って頷いた。


 戦場では、勇敢な者から死んでいく。


 それをバトラスは知っていた。


 敵へ背を向けることを恥じ、仲間を救おうとして命を落とす。


 そんな騎士を何人も見てきた。


 だからこそ、部下たちには生きていてほしかった。


 無様でもいい。


 泥にまみれてもいい。


 剣を折られても、敗北してもいい。


 全員で帰る。


 蒼銀の獅子が守るべき、最も大切な掟だった。


「随分と厳しく指導しているのね」


 訓練場の入口から、柔らかな声が聞こえた。


 バトラスが振り向く。


 白い法衣を身にまとった女が、大きな籠を両手に抱えて立っていた。


 朝の光を受け、淡い栗色の髪が柔らかく輝いている。


 その姿を目にした瞬間、バトラスの中にあった緊張が、わずかにほどけた。


 ミリアム・セレス。


 蒼銀の獅子騎士団専属の治癒術師であり、団員たちからは「騎士団のお母さん」と半ば本気で呼ばれている女性だった。


 穏やかな笑顔と優しい物腰は誰に対しても変わらない。


 戦場では瀕死の兵士さえ救う治癒魔法を操る一方で、負傷兵を勝手に訓練へ戻そうとした騎士には、団長以上に厳しく叱りつけることでも有名だった。


「ミリアムさん!」


 真っ先に駆け寄ったのはルークだった。


「今日は何を持ってきてくれたんですか?」


「焼きたてのパンよ。それから干し肉と、野菜のスープも」


「やった!」


 ルークが少年らしく笑う。


 その横からロイドが肩を組んだ。


「新人。甘いな」


「え?」


「一番最初に行く相手が違う」


「違うんですか?」


「こういう時はまず団長を連れてくるんだ。そうすれば俺たちも堂々とご相伴にあずかれる」


「あなたが食べたいだけでしょう」


 エレナが呆れたように言う。


「当然だ」


「開き直るな」


 再び笑いが起きた。


 ミリアムは籠を木の机へ置くと、一人ひとりへパンを配り始めた。


「ロイドは二つまで」


「なんでです?」


「前回、五つ食べたでしょう?」


「団長が食べないから」


「言い訳は禁止」


「ガレスは?」


「三つ」


「差別だ!」


「あなたの方が食べたからよ」


「納得いかない!」


 団員たちは笑いながら昼食を受け取っていく。


 そんな光景を眺めるバトラスのもとへ、ミリアムが歩いてきた。


「あなたの分」


 差し出された包みは、少しだけ大きかった。


「また多いな」


「朝も食べていないでしょう?」


「……よく分かったな」


「あなたとは長い付き合いだもの」


 ミリアムは少し得意そうに笑う。


 バトラスは苦笑しながら包みを受け取った。


「ありがとう」


「ちゃんと全部食べるのよ」


「努力する」


「努力じゃなくて約束」


「……約束する」


 そのやり取りを見ていたロイドが、にやにやしながら肘でガレスを突いた。


「見たか」


「見た」


「団長、完全に尻に敷かれてる」


「幸せそうで何よりだ」


「ガレスまでそんなこと言うのか」


 バトラスは少しだけ居心地悪そうに咳払いをした。


「少し散歩しない?」


 ミリアムが小さく尋ねる。


「ああ」


 二人は訓練場を離れ、中庭の片隅へ歩いていく。


 そこには一本の大きな楡の木が立っていた。


 春になると若葉が茂り、夏には心地よい木陰を作る。


 団員たちが昼寝をしたり、本を読んだりするお気に入りの場所だった。


 木漏れ日の中で、二人は並んで腰を下ろす。


 しばらくは何も話さなかった。


 それでも沈黙は苦にならない。


 隣にいるだけで落ち着く。


 そんな関係だった。


「最近、ちゃんと眠れてる?」


 ミリアムが尋ねる。


「ああ」


「嘘」


「……分かるのか」


「目の下に少しだけ疲れが残ってる」


 バトラスは苦笑した。


「昨日は報告書が多かった」


「団長も大変ね」


「仕事だからな」


 ミリアムは少し俯いた。


「ねえ」


「どうした」


「この前ね、夢を見たの」


「夢?」


「あなたが帰ってこない夢」


 バトラスは何も言わなかった。


「何度呼んでも振り向いてくれなくて……追いかけても追いかけても遠くへ行ってしまうの」


 彼女は自分の手を見つめる。


「治癒魔法を使っても届かなくて……目が覚めたら泣いてた」


 木々を渡る風が静かに葉を揺らした。


 バトラスはゆっくりと彼女の手を握る。


「夢だ」


「分かってる」


「俺は帰る」


「……本当に?」


「ああ」


 彼は真っ直ぐ彼女を見つめた。


「帰らない約束はしない。騎士だからな」


 ミリアムは小さく笑う。


「そういうところ、本当に不器用」


「だから約束する」


「え?」


「必ず帰る」


 その一言だけで十分だった。


 ミリアムの瞳が少し潤む。


「この任務が終わったら」


 バトラスは静かに続けた。


「式を挙げよう」


 風が止まった。


 世界が静かになったように感じる。


「……今、何て言ったの?」


「結婚式だ」


「もう一回」


「この任務が終わったら結婚しよう」


 ミリアムは両手で口元を押さえた。


 嬉しそうに笑ったかと思うと、次の瞬間には涙をこぼしていた。


「遅いわ」


「ああ」


「本当に遅い」


「待たせた」


「うん……待った」


 彼女は笑いながら涙をぬぐった。


「でも、嬉しい」


 二人は小さく笑い合う。


「約束よ」


「ああ」


「この任務が終わったら」


「必ず」


 二人は小指を絡めた。


 子どもの頃のような、小さな約束だった。


 だが、二人にとっては何より大切な誓いだった。


 その時だった。


「団長!」


 訓練場の入口から慌ただしい足音が響く。


 一人の伝令騎士が息を切らせて駆け込んできた。


「王城より緊急招集です!」


 空気が一変した。


 笑い声が止む。


 団員たちが一斉に立ち上がる。


 バトラスはすぐに表情を切り替えた。


「内容は」


「辺境のエルダ村から連絡が途絶えました」


「いつからだ」


「十日前です」


 ざわめきが走る。


「調査隊も?」


「はい。派遣した兵士三十名も戻っておりません」


 ロイドの表情から笑みが消えた。


「三十人が?」


「生存者はいません」


「盗賊じゃないな」


 ガレスが低く呟く。


「報告では村の周辺に濃い霧が発生しているそうです」


「霧?」


 エレナが眉をひそめた。


「この季節に?」


「原因は不明です」


 バトラスは数秒だけ考えた。


「出発は」


「本日中に」


「分かった」


 彼は団員たちを見渡した。


「蒼銀の獅子、出動準備だ」


 全員が背筋を伸ばえる。


「食料五日分。魔獣討伐装備も持たせろ。三十分後、正門前に集合」


「了解!」


 返事が重なった。


 騎士たちは一斉に散っていく。


 先ほどまで笑っていた男たちは、もう戦場へ向かう兵士の顔になっていた。


 バトラスはミリアムを見る。


「今回は危険かもしれない」


「だから行くわ」


「王都に残れ」


「嫌」


 即答だった。


「私は蒼銀の獅子の治癒術師よ」


「それでも」


「あなたが危険な場所へ行くなら、私はそこであなたを治す」


 その瞳には迷いがない。


 バトラスは小さく息を吐いた。


「……必ず俺のそばを離れるな」


「約束する」


 ミリアムは微笑んだ。


「あなたも約束して」


「ああ」


「必ず帰ってきて」


「必ず帰る」


 二人はもう一度だけ視線を交わした。


 それが、この穏やかな日常の終わりだった。



 二日後。


 蒼銀の獅子騎士団は、王都から北西へ三日の距離にあるエルダ村へ向かっていた。


 王都を離れるにつれ、人の気配は少なくなり、街道を行き交う旅人の姿も消えていく。


 先頭を歩くバトラスは、周囲へ静かに目を配っていた。


「静かですね」


 ルークが小声で呟く。


「ああ」


 バトラスは短く答えた。


 鳥の鳴き声が聞こえない。


 木々は風に揺れているのに、森そのものが息を潜めているようだった。


 ガレスが地面へしゃがみ込む。


「獣の足跡がない」


「魔獣は?」


 エレナが尋ねる。


「それもない」


 ガレスの眉間に深い皺が寄る。


「何もいない」


 その言葉が、不気味だった。


 魔獣がいるなら痕跡がある。


 獣が逃げたなら、慌てた足跡が残る。


 だが、この森には何もない。


 まるで最初から命というものが存在しなかったかのように。


 先頭を歩くロイドが足を止めた。


「団長」


「どうした」


「見えてきました」


 霧の向こうに、小さな村の輪郭が浮かび上がる。


 エルダ村。


 依頼書に記されていた目的地だった。


 しかし、その光景は異様だった。


 煙突から煙は上がっていない。


 畑には収穫途中の野菜が残されている。


 井戸には桶が落ちたまま。


 洗濯物は干されたまま風に揺れていた。


 人だけが、いない。


「総員、警戒」


 バトラスの声で空気が張り詰める。


 剣が一斉に抜かれた。


 ミリアムは団員たちの中央へ移動し、治癒術の準備を整える。


 家々を調べても、争った跡はなかった。


 家具は倒れていない。


 食卓には食べかけのパン。


 暖炉には燃え尽きた薪。


 住民たちは、日常の途中で消えたようだった。


「……気味が悪い」


 ロイドが珍しく冗談を言わない。


 その時だった。


「団長」


 エレナが村の奥を指差した。


「あれを」


 白い霧の向こうに、小さな教会が建っていた。


 石造りの古い礼拝堂。


 村で唯一、扉だけが固く閉ざされている。


「ガレス」


「周囲を警戒する」


「頼む」


 バトラスは剣を握り直した。


「ロイド、ルーク。俺と来い」


「了解」


「ミリアムは後ろだ」


「分かってる」


 ゆっくりと教会へ近づく。


 一歩進むたびに、空気が重くなる。


 息苦しい。


 肺へ入る空気そのものが冷たい。


 教会の前へ立つと、バトラスは異臭に気付いた。


「……血か」


 鉄のような臭い。


 古く乾いた血の臭いだった。


 扉には無数の黒い染みが付いている。


 血痕だった。


「ルーク」


「はい」


「何があっても飛び出すな」


「……はい」


 バトラスは扉へ手を掛ける。


 ゆっくりと押した。


 重い木の扉が、長い悲鳴のような音を立てながら開いていく。


 礼拝堂の中は薄暗かった。


 窓は板で塞がれ、祭壇の上だけに一本の蝋燭が灯っている。


 その灯りの前に、一人の男が立っていた。


 長い銀髪。


 黒い外套。


 腰には、異様なほど黒い剣。


 男は祭壇へ向かったまま動かない。


「おい」


 バトラスが声を掛ける。


「村人たちはどこだ」


 返事はない。


 静寂だけが礼拝堂を満たす。


 やがて男の肩が小さく震えた。


 笑っている。


「蒼銀の獅子、か」


 ゆっくりと振り返ったその顔を見た瞬間、バトラスの瞳が見開かれた。


 見覚えがあった。


 昔どこかで見た肖像画。


 名はわからないが見たことがあった。


 「私は、七侯爵が一角、剣の侯爵アスモデウス。」


 あれは七侯爵の肖像画だったのか…?


 どこで見た…?


 疑問はあったが、考える余裕もなく緊張感が襲ってくる。


「……なぜ、あなたがここにいる。」


 男は退屈そうに首を傾げた。


「私を知っているのか」


「肖像画で見たことがある。」


「そうか」


 彼は小さく笑う。


「物好きもいたものだな。」


 その声には誇りも喜びもない。


 あるのは、心の底からの退屈だけだった。


 足元で何かが転がる。


 銀の首飾り。


 子供用の小さな魔除けだった。


 よく見ると祭壇の周囲には、同じ首飾りが何十個も積み重なっている。


 ミリアムが息を呑んだ。


「村人たちに……何をしたの?」


 アスモデウスは彼女を一瞥した。


「少し試しただけだ」


「試した?」


「人は、どこまで絶望に耐えられるのか」


 礼拝堂の空気が凍る。


 バトラスは一歩前へ出た。


「剣から手を離せ」


「ほう」


「王都まで同行してもらう」


 アスモデウスの口元が、わずかに吊り上がった。


「面白い」


 彼はゆっくりと剣の柄を握る。


 その瞬間だった。


 礼拝堂全体が軋んだ。


 誰も動いていない。


 それなのに石畳へ細かな亀裂が走る。


 ルークの喉が鳴った。


 ロイドの額を汗が流れる。


 本能が叫んでいた。


 逃げろ、と。


 だが、誰も動けない。


「ロイド」


 バトラスは低く言った。


「ミリアムを守れ」


「団長……」


「命令だ」


 アスモデウスは静かに剣を抜いた。


 黒い刀身。


 赤黒い筋が、生き物の血管のように脈打っている。


 見た瞬間、背筋を悪寒が走った。


 あれは剣ではない。


 災厄そのものだ。


「来るぞ!」


 バトラスが叫ぶ。


 その瞬間。


 アスモデウスの姿が消えた。


「――なっ!?」


 視界から完全に。


 次の瞬間。


 轟音。


 黒い剣が、バトラスの盾へ叩き込まれた。


 盾が悲鳴を上げる。


 骨が軋む。


 腕の感覚が消える。


 そして。


 盾ごと、バトラスの身体が礼拝堂の壁まで吹き飛んだ。


 石壁が砕ける。


 土煙が舞い上がる。


「団長ッ!!」


 ロイドの絶叫が響く。


 誰も動けなかった。


 誰一人として。


 王国最強。


 無敗の騎士団。


 その団長が。


 たった一撃で、敗れた。


 土煙の向こうから、アスモデウスは静かに笑う。


「そうか」


 その瞳に、初めてわずかな愉悦が宿る。


「少しは、楽しめそうだ」


 その言葉を聞いた瞬間。


 バトラスは理解した。


 ――勝てない。


 この男は、人間ではない。


 第二話へ続く

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