紅き治癒術師
馬車に揺られ数日の時が経った。
緩やかな丘陵地帯を北へ進んでいる。
夏を迎えた草原は青々と揺れ、遠くには白い雲がゆっくりと流れている。
三週間ぶりの旅。
揺れる荷台の上で、グレイは大きく伸びをした。
「あー……やっぱり旅はいいねぇ。」
「宿のベッドも悪くなかったけど、毎日同じ景色ってのは退屈でさ。」
向かいで本を読んでいたサラがページをめくる。
「退屈と言いながら、毎日酒場へ通っていましたよね。」
「療養だよ。」
「お酒がですか?」
「心の。」
「胃袋の間違いでは?」
グレイは胸に手を当て、大袈裟に頷く。
「いやぁ、お嬢さんは最近ツッコミが鋭くなったね。」
「成長を感じるよ。」
「誰のせいでしょう。」
「俺かな。」
「あなたです。」
即答だった。
そのやり取りを聞きながら、バトラスは荷台の隅で目を閉じている。
風が心地いい。
三週間前なら、この揺れだけで傷が痛んだ。
だが今は違う。
昨夜の調律を終えた身体は、不思議なほど軽かった。
ケルベロスを背負っていても、重さをほとんど感じない。
グレイがそんなバトラスを見て笑う。
「お兄さん。」
「出発前、何かいいことあった?」
「ここ数日、急に元気になってない?」
「調子は悪くない。」
「へぇ。」
「珍しく素直に認めた。」
グレイはニヤリと笑う。
「もしかしてさ。」
「出発の前日の夜――」
その瞬間だった。
サラが本を閉じる。
「グレイ。」
「その先は聞きません。」
「えぇ?」
「何で?」
「聞かなくても、くだらないからです。」
「ひどいなぁ。」
グレイは肩をすくめ、苦笑する。
「昔はもっと優しかったのに。」
「昔からです。」
「そうだっけ?」
「そうです。」
バトラスは思わず小さく息を漏らす。
「……ふっ。」
二人が同時にこちらを見る。
グレイは目を丸くした。
「今、お兄さん笑った?」
「笑ってない。」
「いや、笑ったよ。」
「サラ!」
「笑いました。」
「ほら!」
グレイは得意げに指を差した。
「記念日だ。」
「宿の主人に教えてあげよう。」
「やめろ。」
「きっと泣いて喜ぶよ。」
「絶対喜ばない。」
荷台に小さな笑い声が広がる。
その空気を壊すように、御者が「あれ?」と小さく呟いた。
馬の歩みが少しだけ遅くなる。
「どうした。」
バトラスが尋ねる。
御者は街道の先を細めた目で見つめていた。
「いや……。」
「変だな。」
「この時間なら、向こうから商隊が何組か来るはずなんだが……。」
街道は静まり返っていた。
鳥の鳴き声だけが響く。
旅人も。
商隊も。
一人として姿がない。
グレイが軽口を叩く。
「みんな寝坊かな。」
御者は首を横に振った。
「いや。」
「この街道で、こんなことは一度もねぇ。」
その時だった。
風向きが変わる。
鼻を刺すような、どこか薬品にも似た刺激臭が流れてきた。
馬が突然、前足を止めて大きく嘶く。
「ヒヒィィン!」
「お、おい!」
御者が慌てて手綱を引く。
馬は怯えたようにその場から動こうとしない。
バトラスはゆっくりと立ち上がった。
「……何かいる。」
その一言で、荷台の空気が一変した。
「……何かいる。」
その一言で、荷台の空気が一変した。
グレイも笑みを消し、静かに立ち上がる。
「魔物?」
バトラスは首を横に振った。
「分からん。」
「だが……馬が怯えている。」
御者も馬の首を撫でながら顔をしかめた。
「こんなこと初めてだ……。」
「この馬ぁ、オークだろうが熊だろうが逃げねぇんだぞ。」
しかし馬は荒い鼻息を繰り返し、その場から一歩も動こうとしない。
耳を伏せ、まるで何かを恐れるように街道の先を睨んでいる。
サラが静かに目を閉じた。
周囲の魔力を探るように意識を巡らせる。
「……嫌な魔力です。」
「悪魔ではありません。」
「でも、生き物の気配が……とても濃い。」
グレイは冗談めかして肩をすくめる。
「その言い方、お化けより怖いんだけど。」
サラは真顔のままだった。
「冗談ではありません。」
その声色だけで、グレイも表情を引き締める。
「お兄さん。」
「あぁ。」
バトラスは荷台から飛び降りた。
背中の《ケルベロス》へ手を添える。
柄を握っただけで、自然と身体が戦いの構えへ切り替わる。
グレイも腰の短剣へ手を掛けた。
「御者さん。」
「馬車はここで待ってて。」
「えっ、お、おい!」
「兄ちゃん達、どこへ行く気だ!」
「少し見てくる。」
短く言い残し、バトラスは街道を歩き始めた。
グレイとサラも後に続く。
風が止んだ。
鳥の鳴き声も聞こえない。
街道は異様なほど静まり返っている。
やがて、草むらの中に何かが倒れているのが見えた。
「……人だ。」
三人は駆け寄る。
倒れていたのは商人だった。
荷車は横転し、積み荷は街道へ散乱している。
男の身体には目立った外傷はない。
しかし顔色は土気色に変わり、唇は紫色に染まっていた。
「まだ息はある。」
グレイが首筋へ指を当てる。
「弱いけど、生きてる。」
サラは男の腕をそっと持ち上げた。
「……。」
「皮膚が黒く変色しています。」
袖を捲る。
腕には黒い筋が血管のように浮かび上がり、ゆっくりと肩へ向かって這っていた。
バトラスが眉をひそめる。
「毒か。」
その瞬間――。
街道のさらに先から、鐘の音が鳴り響いた。
ゴォン――。
ゴォン――。
重く、切迫した警鐘。
グレイが顔を上げる。
「あれ……。」
「砦の鐘じゃないか?」
バトラスは街道の先を見据えた。
木々の隙間。
その向こうに、石造りの砦の屋根がわずかに見える。
そしてもう一度、警鐘が鳴った。
今度は悲鳴が混じる。
人々の叫びが、風に乗って三人の耳へ届いた。
バトラスは迷わなかった。
「行くぞ。」
三人は顔を見合わせることもなく、砦へ向かって駆け出した。
街道を外れ、小高い丘を駆け上がる。
近付くにつれ、鼻を刺す刺激臭はますます濃くなっていく。
腐臭ではない。
薬草でもない。
どこか鉄錆にも似た、不快な匂いだった。
グレイは思わず鼻を押さえる。
「うわ……。」
「これ、本当に毒か?」
サラも眉を寄せる。
「魔力を帯びています。」
「普通の毒ではありません。」
バトラスは歩みを緩めない。
やがて砦の全景が見えた。
石造りの門は半ば開いたまま。
本来なら見張りが立っているはずの見張り台には、誰の姿もない。
門前には荷馬車が二台。
一台は横転し、積み荷だった樽が辺りへ散乱していた。
「静かすぎるな。」
その時だった。
「助けてくれぇ!」
男の叫び声が砦の中から響く。
三人は門をくぐった。
広場へ入った瞬間、その光景に息を呑む。
兵士。
旅人。
商人。
二十人近い人々が地面へ倒れていた。
苦しそうに喉を押さえる者。
呼吸すらできず痙攣する者。
身体中へ黒い筋が浮かび上がっている者。
まだ息はある。
しかし、このままでは長くは持たない。
広場では数人の兵士が必死に応急処置をしていた。
「包帯を!」
「水だ!」
「誰か治癒術師はいないのか!」
怒号が飛び交う。
だが誰も応えない。
兵士の一人が膝をつき、倒れた仲間を抱き起こした。
「頼む……!」
「死ぬな……!」
その姿を見たグレイが舌打ちする。
「ちっ……。」
「これは俺たちじゃどうにもならない。」
サラも静かに頷く。
「私の氷魔法では助けられません。」
バトラスは倒れた兵士の首元へ手を当てる。
脈は弱い。
身体は異様なほど熱い。
しかも傷は一つもない。
「毒だ。」
「かなり強い。」
その時。
広場の奥から鋭い女性の怒鳴り声が響いた。
「そこの兵士!」
「まだ動かすな!」
全員が声の方を見る。
「毒が心臓まで回る!」
「その場で寝かせろ!」
聞いたこともない声だった。
凛としていて。
荒っぽくて。
よく通る声。
広場の奥では兵士たちが何かを囲んでいる。
人垣の隙間から、白い光が何度も瞬く。
グレイが目を細めた。
「……治癒術?」
サラは静かに首を振る。
「違います。」
「神聖魔法……。」
その声には、わずかな驚きが混じっていた。
人垣の向こう。
一冊の大きな魔導書が宙に浮かび、その周囲を淡い光が舞っている。
だが術者の姿までは見えない。
次の瞬間。
「邪魔だ!」
「見てるだけならどけ!」
再び女性の怒声。
兵士たちが一斉に道を開ける。
バトラスたちは無意識に、その先へ視線を向けた。
そこに立っていたのは――。
黒と白を基調としたローブを纏う、一人の女だった。
燃えるような赤いショートヘア。
鋭く吊り上がった橙色の瞳。
豊かな胸元を隠そうともしない堂々とした立ち姿。
左腕には分厚い魔導書。
そして右腕だけは、陽光を反射する鈍い銀色だった。
人の腕ではない。
指先まで精巧に造られた錬金義手。
女は膝をつき、倒れた兵士の胸へ左手を添える。
魔導書のページが独りでにめくれ始めた。
「……神聖治癒魔法ヒーリング。」
淡い黄金色の光が兵士の身体を包み込む。
苦しげだった呼吸が一瞬だけ落ち着く。
だが、兵士の腕を這う黒い筋は消えない。
「……ちっ。」
女は露骨に舌打ちした。
「やっぱ一発じゃ抜けねぇか。」
義手の指先が器用に腰の革袋を開く。
色とりどりの小瓶が並んでいた。
迷うことなく一本を取り出し、兵士の口へ流し込む。
「飲め。」
「全部吐いたらぶん殴るぞ。」
兵士は震える喉で薬を飲み込む。
女は間髪入れず、再び掌を胸へ当てた。
「神聖治癒魔法ヒーリング。」
今度は黄金の光が兵士の全身を巡る。
黒い筋がゆっくりと薄れ始めた。
兵士は激しく咳き込みながらも、大きく息を吸う。
「……はぁっ!」
広場に安堵の声が広がる。
「助かった……。」
「隊長が助かったぞ!」
しかし女は振り返りもしない。
「喜ぶのは後だ。」
「まだ二十人以上残ってんだよ。」
兵士たちは一斉に姿勢を正した。
「は、はい!」
「次!」
「症状が重い奴から連れて来い!」
誰一人として逆らわない。
命令口調なのに、不思議と反発する者はいなかった。
その姿を見つめながら、グレイが小さく口笛を吹く。
「……すげぇ。」
「あれだけの人数を一人で?」
サラは静かに頷く。
「あの方……。」
「神聖魔法だけではありません。」
「薬も併用しています。」
「毒を中和しながら、治癒している。」
「そんなことが……。」
「普通はできません。」
サラの声に、珍しく感嘆が混じる。
バトラスは黙って女を見つめていた。
無駄がない。
一つ一つの動作に迷いがない。
命を救うことだけを考え、身体が自然に動いている。
まるで何百、何千という患者を診てきた者の手つきだった。
その時だった。
一人の若い兵士が、慌てた様子で駆け寄ってくる。
「た、大変です!」
「北門の見張りが毒霧を吸って倒れました!」
女は顔も上げずに答えた。
「担いで来い。」
「でも!」
「歩かせるな!」
「毒が回る!」
「早くしろ!」
「は、はい!」
兵士は飛ぶように走り去る。
その背中を見送りながら、女は小さく息を吐いた。
「ったく……。」
「どいつもこいつも、世話ばっか焼かせやがって。」
乱暴な物言い。
だがその手は、一瞬たりとも患者から離れない。
バトラスは静かに一歩前へ出た。
「俺たちにも手伝えることはあるか。」
その一言に。
初めて女が顔を上げた。
橙色の瞳が、隻眼の騎士を真っ直ぐ射抜く。
その視線は一瞬で、バトラス、グレイ、サラの三人を値踏みするように見渡した。
「……。」
沈黙は、ほんの数秒。
そして女は鼻で笑った。
「ある。」
「邪魔だけはすんな。」
バトラスは短く頷いた。
「何をすればいい。」
女は周囲を見回す。
広場には苦しむ兵士たち。
治療を待つ旅人。
泣き叫ぶ子供。
そして右往左往するだけの衛兵。
その光景に舌打ちした。
「まず、その辺で突っ立ってる兵士どもを動かせ。」
「軽症と重症を分けろ。」
「黒い筋が首まで来てる奴を優先。」
「歩ける奴は日陰へ。」
「水は飲ませるな。」
「毒が回る。」
兵士たちは顔を見合わせる。
「で、ですが……。」
「治癒術師殿。」
「その判断は……。」
女は鋭く睨み返した。
「質問してる暇があったら身体動かせ。」
「死なせてぇのか、ボンクラ共!」
「い、いえ!」
兵士たちは慌てて走り出した。
その統率ぶりに、グレイは思わず感心する。
「すごいね。」
「兵隊じゃないのに。」
サラも小さく頷く。
「現場に慣れています。」
「治癒術師というより……。」
「戦場の治療班ですね。」
女の耳はよかった。
「聞こえてるぞ。」
振り返りもせず吐き捨てる。
「戦場も疫病も毒も、患者は患者だ。」
「助ける順番が違うだけだ。」
グレイは苦笑した。
「怖いお姉さんだなぁ。」
「でも嫌いじゃない。」
その瞬間。
女は初めてグレイへ視線を向けた。
「銀髪。」
「口は動くみてぇだな。」
「だったら患者を運べ。」
「力はあるだろ。」
「了解。」
グレイは軽く敬礼する。
「命令されるの、案外嫌いじゃない。」
「調子に乗るな。」
「はいはい。」
笑いながら倒れた兵士を抱え上げる。
見た目よりずっと軽い。
毒で力が抜けているのだ。
一方、バトラスは二人の兵士を肩へ担ぐ。
その様子を見た女の目が僅かに細くなる。
(隻眼……。)
(しかもその剣。)
背中の巨大な黒い重剣。
鍔には三つ首の獣。
柄頭から伸びる長い鎖。
普通の剣ではない。
(あんなもん背負って平然と歩いてるのか。)
心の中でだけ呟く。
しかし口には出さない。
今は患者が優先だった。
「次!」
「こっちへ運べ!」
兵士たちが次々と患者を運び込む。
女は休む間もなく神聖治癒魔法ヒーリングを重ね、錬金薬を使い分けていく。
額には汗が滲んでいた。
それでも手は止まらない。
サラはその治療を見つめながら、小さく息を呑む。
「……。」
魔法だけではない。
薬だけでもない。
症状を見極め、薬を変え、神聖魔法で身体を支える。
一人ひとり、処置が違う。
(すごい……。)
元王宮魔術師だったサラですら、その技術に見入っていた。
その時だった。
砦の見張り台から兵士の悲鳴が響く。
「た、大変だ!」
「また毒霧だ!」
「谷の方から流れてくるぞ!」
その一言で、広場にいた全員の顔色が変わった。
女は静かに立ち上がる。
魔導書を閉じる音だけが、小さく響いた。
「……来やがったか。」
その橙色の瞳は、砦の北――山の奥深くを真っ直ぐ見据えていた。
その時だった。
――ゴォォォォォォ……。
低く、腹の底まで震わせる咆哮が山々へ響き渡る。
地面が微かに震えた。
砦にいた全員が息を呑む。
兵士の一人が青ざめた顔で呟く。
「ま……まただ……。」
「ドラゴンだ……。」
別の兵士が震える声で叫ぶ。
「北の洞穴だ!」
「また毒霧を撒き始めたぞ!」
砦の北側。
森の向こうから、黒紫色の靄がゆっくりと空へ昇っていく。
煙ではない。
霧でもない。
それは生き物の吐息のように、うねりながら谷を覆い始めた。
風に乗った毒霧は、木々の葉へ触れただけで色を失わせていく。
青々としていた草花が、瞬く間に黒く枯れた。
グレイは思わず顔をしかめる。
「……冗談だろ。」
「植物まで。」
サラの表情も険しい。
「あれは魔法ではありません。」
「生物が持つ毒です。」
バトラスは静かにケルベロスの柄へ手を掛ける。
「ドラゴンか。」
その一言に、女はようやく口を開いた。
「ファブニル。」
「三週間前から、この辺を根城にしやがった。」
「洞穴に住み着いてから、あの毒霧を毎日のように撒き散らしてる。」
兵士の一人が拳を握る。
「討伐隊も出した!」
「でも……。」
言葉を失う。
女が代わりに吐き捨てた。
「全滅だ。」
静まり返る砦。
「毒を吸った時点で終わり。」
「近付くことすら出来ねぇ。」
彼女は再び兵士たちへ視線を向ける。
「だからアタシはここに残ってる。」
「運ばれてくる患者を助けるためにな。」
グレイは苦笑しながら頭を掻いた。
「なるほどね。」
「戦ってるんじゃなくて、後始末してたわけか。」
「後始末?」
女は橙色の瞳でグレイを睨む。
「違ぇな。」
「まだ終わっちゃいねぇ。」
そう言って魔導書を閉じる。
義手が鈍く音を鳴らした。
「アイツは、アタシが殺す。」
その声には怒りではない。
覚悟だけがあった。
バトラスはその横顔を見つめる。
「一人で行くつもりか。」
女は鼻で笑う。
「だったら何だ。」
「止めるか?」
バトラスは静かに首を横へ振った。
「いや。」
ケルベロスを肩へ担ぐ。
「俺たちも行く。」
その一言で。
女は初めて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「……面白ぇ。」
「死ぬ覚悟だけは出来てるみてぇだな。」
バトラスは静かに答えた。
「覚悟なら、とっくの昔に決めている。」
「そうか。」
女は鼻で笑う。
「嫌いじゃねぇ。」
そう言った直後だった。
「カーミラさん!」
一人の兵士が血相を変えて駆け寄ってくる。
「また一人、毒が回りました!」
「呼吸が止まりそうです!」
カーミラは舌打ちすると、すぐに踵を返した。
「ったく……。」
「次から次へと。」
バトラスたちも後を追う。
砦の一角では、まだ若い兵士が苦しげに喉を押さえ、激しく咳き込んでいた。
黒い筋はすでに首元まで達している。
兵士の隣では、年老いた母親らしき女性が泣き崩れていた。
「お願いです……!」
「息子を助けてください!」
「お願いします……!」
カーミラは膝をつき、兵士の瞳を見る。
瞳孔は開き始めている。
「……間に合う。」
小さく呟くと、魔導書を開いた。
ページが風もないのに高速でめくられていく。
「神聖治癒魔法ヒーリング。」
黄金の光が兵士を包む。
だが黒い筋は消えない。
「ちっ……。」
すぐさま義手で薬瓶を取り出す。
蓋を歯で噛み切り、中身を兵士へ飲ませた。
「飲め。」
「全部だ。」
兵士は震えながら薬を飲み込む。
カーミラは再び掌を胸へ当てた。
「神聖治癒魔法ヒーリング。」
今度は先ほどよりも眩い光が兵士を包む。
黒い筋が、ゆっくりと薄れていく。
兵士は大きく咳き込み、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「……はぁっ!」
母親が息子へ抱きつく。
「ありがとう……!」
「ありがとうございます!」
カーミラは照れた様子もなく立ち上がる。
「礼ならいらねぇ。」
「次の患者を連れて来い。」
その横顔を見つめながら、グレイが小さく笑う。
「口は悪いのに。」
「ちゃんと全員助けようとしてる。」
「分かりやすい人だねぇ。」
サラも静かに頷く。
「患者を診る手が、とても優しいです。」
その言葉に、カーミラは少しだけ眉を動かした。
「……。」
聞こえていた。
だが何も返さない。
代わりに魔導書を閉じ、バトラスへ視線を向ける。
「アンタ。」
「さっき、戦えるって言ったな。」
「ああ。」
「なら聞く。」
カーミラの表情から笑みが消えた。
「ドラゴンを相手にしたことはあるか?」
広場が静まり返る。
バトラスは少しだけ考え、首を横へ振った。
「ない。」
「そうか。」
カーミラは深く息を吐いた。
「なら覚えとけ。」
「あいつは魔物じゃねぇ。」
「一瞬でも油断したら――死ぬ。」
その声には脅しではなく、実際に死を見てきた者だけが持つ重みがあった。
バトラスはその瞳を真っ直ぐ見返す。
「だからこそ倒す。」
「放っておけば、ここにいる者たちは助からない。」
カーミラは数秒、バトラスを見つめる。
やがてニヤリと笑った。
「いい目してる。」
「その減らず口が最後まで続くか、見せてもらうぜ。」
砦の北。
山の奥から、再び大地を震わせる咆哮が響いた。
四人は同時にその方向を見据える。
戦いの幕が、静かに上がろうとしていた。
しかし――。
「待て。」
口を開いたのはカーミラだった。
バトラスが視線を向ける。
「どうした。」
「突っ込む気か?」
「ああ。」
「大馬鹿か。」
即答だった。
グレイが思わず吹き出す。
「ははっ。」
「初対面でそこまで言う?」
「言う。」
カーミラは腕を組んだ。
「あんなもん、何も知らねぇで突っ込んだら五分で死ぬ。」
「運が良くても十分だ。」
グレイは肩を竦める。
「辛辣だねぇ。」
「でも嫌いじゃない。」
「アンタもだ。」
「口だけ達者そうだな。」
「図星。」
「認めるんかい。」
カーミラは小さく笑う。
その横でサラが静かに口を開いた。
「情報があるのですね。」
「ああ。」
カーミラは砦の北を見据えた。
「あのドラゴンは三週間前、突然飛んできた。」
「最初はただ洞穴に住み着いただけだった。」
「誰も相手にしなかった。」
「ところが三日後。」
「最初の犠牲者が出た。」
砦の空気が重くなる。
「兵士が五人。」
「洞穴の様子を見に行った。」
「帰ってきたのは一人だけ。」
「しかも毒に侵されてな。」
「その日のうちに死んだ。」
グレイの表情から笑みが消えた。
「……。」
「それから何度も討伐隊が出た。」
「結果は全部同じだ。」
「近付く前に毒霧。」
「近付けても、爪と牙。」
「生きて帰った奴はいねぇ。」
バトラスは静かに尋ねる。
「お前は見たのか。」
「見た。」
短い返事だった。
「真正面からな。」
そう言って右腕の義手を軽く叩く。
「だから分かる。」
「ドラゴンを甘く見たら死ぬ。」
その一言だけで十分だった。
彼女の右腕が失われた理由は、まだ誰も知らない。
だが、その義手には彼女の過去が刻まれているように見えた。
サラが問い掛ける。
「毒は神聖治癒魔法ヒーリングだけでは治せないのですね。」
「治せねぇ。」
「だから薬を使う。」
「神聖魔法で命を繋いで。」
「薬で毒を中和する。」
「その繰り返しだ。」
バトラスは倒れた兵士たちを見回した。
「つまり。」
「ファブニルを倒さない限り、この状況は続く。」
「ああ。」
カーミラは頷く。
「だからアタシは待ってた。」
「待ってた?」
「そうだ。」
彼女は初めて、バトラスの背中にある重剣ケルベロスをじっと見つめる。
「アンタらみてぇな。」
「大馬鹿者をな。」
グレイが吹き出した。
「ははっ!」
「お兄さん。」
「褒められたよ。」
「違う。」
バトラスは真顔で返す。
「馬鹿と言われた。」
「同じことだろ?」
「違う。」
そのやり取りを見て、カーミラは思わず鼻で笑った。
「……変な連中だ。」
初めて。
ほんの少しだけ。
砦に張り詰めていた空気が和らいだ。
第十八話へ続く




