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毒竜の縄張り

 初めて。


 ほんの少しだけ。


 砦に張り詰めていた空気が和らいだ。


 しかし、それも束の間だった。


 ゴォォォォォォォ――――ッ!!


 空気を震わせる咆哮が山々へ反響する。


 砦の石壁が微かに揺れ、窓ガラスが震えた。


 広場にいた兵士たちの顔色が一瞬で変わる。


「ま、まただ……。」


「毒竜だ……!」


 一人の若い兵士は腰を抜かし、その場へ尻餅をついた。


 ベテランらしき隊長も険しい表情で北の山を睨んでいる。


「総員、北門を閉じろ!」


「毒霧が流れてくるぞ!」


 兵士たちが慌ただしく動き始める。


 重い鉄門が軋みを上げながら閉じられていく。


 カーミラはため息をついた。


「……毎日これだ。」


 グレイが横へ並ぶ。


「毎日?」


「あぁ。」


 カーミラは腕を組んだ。


「朝と夕方。」


「決まってあの時間になると毒霧を吐きやがる。」


「縄張りの誇示か。」


 サラが静かに呟く。


「恐らく。」


 カーミラは頷いた。


「アイツにとっちゃ、この山全部が自分の庭なんだろ。」


「近付く奴は皆殺し。」


「そういうことだ。」


 バトラスは北を見つめたまま尋ねる。


「何故、砦を襲う。」


「人を喰うためか。」


 カーミラは首を横へ振る。


「違う。」


「アイツ、人を喰わねぇ。」


 三人が同時に彼女を見る。


「喰わない?」


「あぁ。」


「ただ殺す。」


「縄張りに入った奴を。」


「毒でな。」


 その言葉に、広場は静まり返る。


「だから余計に厄介なんだ。」


「腹が減ってるわけじゃねぇ。」


「追い払いたいだけ。」


「つまり……。」


「毒霧を止める理由が、アイツには一つもねぇ。」


 グレイが肩を竦める。


「最悪だねぇ。」


「話し合いが出来ないタイプか。」


「ドラゴンと交渉したいなら止めねぇよ。」


 カーミラは鼻で笑う。


「骨くらいは拾ってやる。」


「優しい。」


「勘違いすんな。」


「死体の始末が面倒だからだ。」


 その乱暴な物言いに、サラが少しだけ口元を緩める。


「照れ隠しでしょうか。」


「違ぇよ。」


 即答だった。


 その時、一人の老兵がこちらへ歩いてくる。


 白髪混じりの髭。


 顔には幾筋もの古傷。


 いかにも歴戦の兵士だった。


「治癒術師殿。」


「その者たちは?」


 カーミラは親指で三人を指した。


「旅人だ。」


「ただし。」


「普通の旅人じゃねぇ。」


 老兵はバトラスを見る。


 隻眼。


 黒い甲冑。


 そして背中に背負った巨大な重剣。


「……。」


 次にグレイへ目を向ける。


 銀髪。


 左目の下に刻まれた十字架の刺青。


 その瞬間だった。


 老兵の目が大きく見開かれる。


「ま、まさか……。」


 震える指がグレイを指す。


「その刺青……。」


「銀髪……。」


「お前……。」


 グレイは困ったように笑う。


「知られてるみたいだねぇ。」


 老兵は息を呑んだ。


「影縫いのグレイ……。」


 広場がざわつく。


「影縫い?」


「まさか……。」


「本物か?」


 グレイは頭を掻きながら苦笑した。


「いやぁ。」


「昔の話だよ。」


「今はただのお兄さん。」


 すると老兵の視線は、今度はバトラスへ移る。


 隻眼。


 そして黒い重剣。


 鍔に刻まれた三つ首の魔獣。


「……その剣。」


「まさか。」


「重剣の……。」


 バトラスは何も答えない。


 だが、その沈黙だけで十分だった。


 老兵はゆっくりと姿勢を正し、深々と頭を下げた。


「失礼した。」


「英雄殿。」


 カーミラは目を細める。


(……なるほど。)


(ただの馬鹿じゃなかったってわけか。)


 そして彼女は初めて、心の中で三人を「戦力」として認め始めるのだった。


 老兵はゆっくりと歩み寄り、三人の前で立ち止まる。


 歳は六十を越えているだろう。


 幾度も死線を潜り抜けてきたことを物語る無数の古傷。


 それでも、その瞳だけは現役の兵士そのものだった。


 彼は胸へ拳を当て、一礼する。


「私はこの砦の隊長、アンドスだ。」


「本来なら、我々だけでこの砦を守り抜くべきだった。」


 アンドスは拳を強く握る。


「だが……力が及ばなかった。」


 その一言には、隊長としての悔しさが滲んでいた。


「討伐隊を三度送り出した。」


「帰ってきたのは……誰一人としていない。」


 砦の兵士たちは俯く。


 仲間を失った光景が脳裏をよぎったのだろう。


 アンドスは静かに顔を上げる。


「毒竜ファブニルは、この砦だけでなく周辺の街道も封鎖している。」


「旅人も商隊も近付けん。」


「物資も滞り始めている。」


 グレイが口笛を吹く。


「つまり、この辺一帯が干上がるってことか。」


「ああ。」


 アンドスは重々しく頷いた。


「放置すれば、この砦はいずれ捨てられる。」


「その前に、多くの命が失われるだろう。」


 静寂が流れる。


 アンドスは三人を真っ直ぐ見据えた。


「失礼ながら、お三方のお力をお借りしたい。」


「この砦を……いや、この街道を救っていただけないだろうか。」


 バトラスは少しだけ考え、カーミラへ視線を向ける。


「お前はどうする。」


 カーミラは鼻で笑った。


「聞くまでもねぇだろ。」


「患者が増える原因をぶっ潰せるなら、それが一番早ぇ。」


「アタシも行く。」


 グレイが笑う。


「決まりだね、お兄さん。」


「美女と一緒の依頼なんて、久しぶりじゃない?」


「調子に乗るな。」


 カーミラは睨みつける。


「足引っ張ったら置いてくぞ。」


「怖いなぁ。」


「でも嫌いじゃない。」


 サラは小さく息をつきながらも、どこか穏やかな表情を浮かべていた。


「賑やかな方ですね。」


「誰がだ。」


「あなたです。」


 一瞬の沈黙。


 次の瞬間、広場のあちこちで小さな笑いが起こった。


 絶望に包まれていた砦に、久しぶりに人の笑い声が響く。


 アンドスはその光景を見つめ、小さく目を細めた。


「……希望とは、こういうものなのかもしれんな。」


 その言葉を聞いたバトラスは、静かに《ケルベロス》の柄を握る。


「毒竜ファブニル。」


「俺たちが討つ。」


 砦にいた誰もが、その言葉に顔を上げた。


 それは、絶望しかなかった砦に差し込んだ、小さな希望の光だった。


 それから一時間後。


 砦は慌ただしく動き始めていた。


 兵士たちは北門の補強を進め、負傷者は広間へ集められていく。


 カーミラは最後の患者へ神聖治癒魔法ヒーリングを施し、小さく息を吐いた。


「これで応急処置は終わりだ。」


「後は安静にしてろ。」


 若い兵士は涙ぐみながら頭を下げる。


「ありがとうございます!」


「礼なんざいらねぇ。」


「生き残れ。」


 それだけ言うと、カーミラは魔導書を閉じた。


 義手が金属音を鳴らす。


 彼女はバトラスたちの前まで歩いてくる。


「待たせたな。」


「行くぞ。」


 グレイは笑いながら立ち上がる。


「了解、姐さん。」


 カーミラの眉がぴくりと動いた。


「……誰が姐さんだ。」


「年上で頼りになる女性は、みんな姐さん。」


「勝手に決めんな。」


「似合ってるけど?」


「ぶっ飛ばすぞ。」


「怖い怖い。」


 グレイは肩を竦めながら笑う。


 サラは小さく咳払いをした。


「その前に。」


「自己紹介をしておきませんか。」


「これから命を預け合うのですから。」


 カーミラは少し考え、


「……そうだな。」


 と頷いた。


「アタシはカーミラ。」


「旅の治癒術師兼、錬金術師だ。」


「神聖魔法を扱う。」


「それだけ覚えときゃ十分だ。」


 グレイが感心したように口笛を吹く。


「だから薬まで作れたんだ。」


「便利だねぇ。」


「便利じゃねぇ。」


「必要だから覚えただけだ。」


 その言葉に、サラが静かに視線を向ける。


 必要だから。


 その一言に、どこか重みを感じた。


 だが、今は誰も踏み込まない。


 グレイは胸へ親指を向ける。


「俺はグレイ。」


「昔はいろいろあったけど、今は旅人。」


「趣味はお兄さんをからかうこと。」


「やめろ。」


 バトラスが即座に返す。


「ほらね。」


「こんな感じ。」


 カーミラは呆れたように笑う。


「馬鹿だな。」


「よく言われる。」


 サラが一歩前へ出る。


「サラです。」


「元王宮魔術師でした。」


「氷魔法を専門としています。」


 カーミラは少しだけ目を見開いた。


「王宮魔術師?」


「……そりゃまた、とんでもねぇ経歴だ。」


 サラは静かに微笑むだけだった。


 最後に、全員の視線がバトラスへ集まる。


「バトラス。」


「元王国騎士団長だ。」


 それだけ。


 余計な言葉はない。


 カーミラは背中の《ケルベロス》を見つめ、小さく鼻で笑った。


「なるほどな。」


「どうりで、最初から妙な貫禄があるわけだ。」


 グレイが笑う。


「お兄さん、見た目だけは怖いからね。」


「だけとは何だ。」


「そこ突っ込む?」


 四人の間に、小さな笑いが生まれる。


 先ほどまで他人だった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。


 カーミラは北の山へ向き直る。


 笑みは消え、治癒術師の顔へ戻る。


「行くぞ。」


「毒竜ファブニルの住処まで案内してやる。」


 四人は砦の北門を抜け、山へ続く細い獣道へ足を踏み入れた。


 その先に待つのは、毒竜か。


 それとも――。


 誰もまだ知らなかった。


 獣道は思っていた以上に険しかった。


 人一人がようやく通れるほどの幅しかなく、両脇には鬱蒼と茂る木々が空を覆っている。


 陽はまだ高い。


 それなのに森の中は薄暗く、湿った空気が肌へまとわりついた。


 先頭を歩くカーミラが足を止める。


「……見ろ。」


 三人が視線を向ける。


 道端に咲いていた花は、すべて黒く変色していた。


 草も。


 低木も。


 まるで命そのものを吸い取られたように枯れ果てている。


 サラはしゃがみ込み、黒くなった葉へそっと触れた。


「……。」


 指先へ霜が広がる。


 葉は音もなく砕け、黒い粉となって風へ舞った。


「もう死んでいます。」


「植物まで侵されています。」


 カーミラは腕を組む。


「毒霧が流れる日は全部こうなる。」


「だから、この辺の獣もほとんど逃げちまった。」


 グレイが辺りを見回す。


「そういや静かだ。」


「鳥も鳴いてない。」


 その言葉通りだった。


 風が枝葉を揺らす音だけが耳へ届く。


 獣の気配も。


 虫の羽音さえしない。


 森とは思えないほど、不自然な静寂。


 バトラスは歩みを止めず、低く呟く。


「嫌な森だ。」


「あぁ。」


 カーミラも珍しく真顔だった。


「生き物が生きる場所じゃねぇ。」


 しばらく歩いた頃。


 グレイが不意に立ち止まる。


「……お兄さん。」


「どうした。」


 グレイは地面を指差した。


「これ。」


 土には巨大な足跡が残っていた。


 一歩だけで、人の身長ほどもある。


 深々と抉れた跡には、昨夜降った雨水がまだ溜まっていた。


 サラが静かに息を呑む。


「大きい……。」


 カーミラは淡々と言う。


「ファブニルの足跡だ。」


「昨日のだな。」


 グレイは苦笑した。


「昨日?」


「そんなデカいのが、この辺歩いてたの?」


「そうだ。」


「嫌なら帰るか?」


「いや。」


 グレイは笑う。


「帰ったら、お兄さんに笑われる。」


 バトラスは即座に返す。


「笑わん。」


「笑わないけど見捨てる?」


「置いていく。」


「ほら怖い。」


 思わずサラが小さく吹き出した。


 その笑い声を聞き、カーミラは横目で三人を見る。


(……こんな状況でも笑えるのか。)


(変な連中だ。)


 しかし、その空気は嫌いではなかった。


 その時だった。


 カーミラが右手を上げる。


「止まれ。」


 全員が足を止める。


 風向きが変わる。


 鼻を刺す刺激臭。


 さっきまでとは比べ物にならない濃さだった。


 カーミラは地面へしゃがみ込み、黒く変色した土を指でなぞる。


「……近い。」


 橙色の瞳が鋭く細められる。


「ここから先が、ファブニルの縄張りだ。」


 その一言に。


 四人の表情から笑みが消えた。


 戦いは、もう目の前まで迫っていた。


 カーミラは腰の革袋から小さな布を取り出した。


 淡い青色の液体を染み込ませた布を、三人へ放る。


「口と鼻を覆え。」


 グレイが受け取りながら首を傾げる。


「何これ?」


「毒除けだ。」


「気休め程度だが、吸わねぇよりはマシだ。」


 サラは布へ鼻を近づける。


「薬草……。」


「それだけじゃありませんね。」


 カーミラは少しだけ驚いたようにサラを見る。


「よく分かったな。」


「解毒草に、銀花。」


「あと……。」


「竜胆も混ぜてある。」


 サラは静かに頷く。


「錬金術ですね。」


「へぇ。」


 グレイが感心したように笑う。


「お嬢さんと姐さん、話が通じてる。」


「俺だけ置いてけぼりだ。」


「気にすんな。」


 カーミラは布で口元を覆う。


「分かんなくても死にはしねぇ。」


「分からないまま死ぬ可能性は?」


「ある。」


「即答だ。」


 グレイは苦笑しながら布を巻いた。


 バトラスも静かに口元を覆う。


 薬草の香りが鼻へ抜ける。


 少しだけ呼吸が楽になった気がした。


 カーミラは周囲を見回す。


「ここから先は、声を張るな。」


「音にも敏感だ。」


「ドラゴンって耳いいんだ。」


 グレイが小声で呟く。


「良すぎるくらいだ。」


「あと。」


 カーミラは地面を指差した。


「足跡以外、踏むな。」


 そこには細く黒い筋が走っていた。


 木の根にも見える。


 しかし、よく見ると土がじわりと黒く滲んでいる。


「毒……か。」


 バトラスが低く呟く。


「あぁ。」


「ファブニルの体液だ。」


「乾いても毒は残る。」


「素手で触るな。」


 グレイが肩を竦める。


「歓迎された気はしないねぇ。」


「歓迎なんかされてたまるか。」


 カーミラは鼻で笑う。


「アイツは、自分の縄張りに入る奴は全部敵だ。」


 その時だった。


 カサッ……


 全員の動きが止まる。


 右手の茂み。


 何かが動いた。


 グレイの短剣が音もなく抜かれる。


 バトラスも《ケルベロス》へ手を添える。


 サラの指先には、冷気が集まり始めた。


 茂みが揺れる。


 一歩。


 また一歩。


 姿を現したのは――


 一頭の鹿だった。


 だが、その姿は異様だった。


 毛並みはまだらに黒く変色し、両目は白く濁っている。


 口元からは黒い泡が溢れ、身体は小刻みに震えていた。


 グレイの笑みが消える。


「……生きてるのか?」


 カーミラは静かに首を振った。


「いや。」


「あれはもう、毒に喰われてる。」


 鹿は四人に気付いた。


 次の瞬間。


 苦しむような叫び声を上げながら、一直線に突進してきた。


「来るぞ!」


 グレイが叫ぶ。


 バトラスは一歩前へ出た。


 《ケルベロス》の柄を握る手に、自然と力が入る。


 毒に侵された鹿は、喉の奥から苦しげな唸り声を漏らしながら突進してくる。


 その瞳に理性はない。


 あるのは、激しい苦痛だけだった。


「待て!」


 カーミラの声が飛ぶ。


 バトラスの動きが止まる。


「殺すな!」


「……?」


 一瞬だけ眉をひそめる。


「まだ助かる。」


 カーミラは魔導書を開きながら駆け出した。


「グレイ!」


「足止めしろ!」


「了解、姐さん!」


 返事と同時に、グレイの姿が消えた。


 次の瞬間には鹿の側面へ回り込んでいる。


「速っ……。」


 カーミラが小さく目を見張る。


 グレイは短剣を逆手に持ち替え、鹿の脚へ刃を滑らせた。


 狙うのは命ではない。


 腱。


 鋭い一閃。


 鹿の前脚が崩れ、勢いのまま地面へ倒れ込む。


 しかし毒に侵された身体は、それでもなお暴れ続ける。


「サラ!」


 グレイが叫ぶ。


 サラは静かに右手を掲げた。


「氷壁アイスウォール。」


 淡い蒼白の魔法陣が地面へ浮かび上がる。


 瞬く間に氷の壁が鹿の進路を塞いだ。


 暴れた鹿が激突し、鈍い音が森へ響く。


 その隙にカーミラが膝をついた。


「暴れんな。」


 義手で鹿の首を押さえ込み、左手を胸へ当てる。


「神聖治癒魔法ヒーリング。」


 黄金色の光が鹿の身体を包む。


 だが。


 黒く濁った血管は消えない。


「……ちっ。」


 革袋から薬瓶を取り出し、無理やり口を開かせる。


「飲め!」


 鹿は苦しそうに暴れる。


 バトラスは静かに歩み寄ると、片手で鹿の角を掴んだ。


 重量操作で腕へ力を集中させる。


 鹿はびくりと身体を震わせたが、それ以上は動けない。


 カーミラが一瞬だけ驚いた顔をする。


(片手で……押さえ込んだ?)


 彼女はすぐに意識を治療へ戻した。


「神聖治癒魔法ヒーリング!」


 再び黄金の光。


 今度は薬が効き始めたのか。


 鹿の身体を覆っていた黒い筋が、少しずつ薄れていく。


 荒れていた呼吸が落ち着き始める。


 数十秒後。


 鹿はゆっくりと立ち上がった。


 白く濁っていた瞳へ、僅かに光が戻る。


 バトラスたちを見つめる。


 敵意はもうない。


 鹿は小さく鼻を鳴らすと、森の奥へ静かに歩いて行った。


 その姿が木々の向こうへ消えるまで、四人は誰も口を開かなかった。


 やがてグレイが息を吐く。


「助かった……のか。」


「あぁ。」


 カーミラは魔導書を閉じる。


「初期症状だったからな。」


「あと少し遅けりゃ無理だった。」


 グレイは苦笑する。


「姐さん。」


「口は悪いけど、やっぱ優しいじゃん。」


「うるせぇ。」


「助けられる命を見捨てる趣味はねぇだけだ。」


 その言葉に、バトラスは静かに頷いた。


「そういう奴は嫌いじゃない。」


 カーミラは少しだけ目を丸くし、すぐに鼻で笑う。


「……アンタ。」


「思ったより真っ直ぐな奴だな。」


 その時だった。


 森のさらに奥。


 地鳴りにも似た重い足音が、一度だけ響いた。


 ズシン――。


 四人の表情が一斉に引き締まる。


 カーミラはゆっくりと北を見据えた。


「……今のは鹿じゃねぇ。」


 バトラスは《ケルベロス》へ手を掛ける。


「来るか。」


 カーミラは静かに首を振った。


「いや。」


「アイツが――。」


「アタシらに気付いた。」


 森を吹き抜ける風が、再び毒の匂いを運んでくる。


 毒竜ファブニルとの本当の戦いは、今まさに始まろうとしていた。


 四人は歩みを速めた。


 カーミラが先頭を進み、獣道を抜ける。


 やがて視界が開けた。


 そこは切り立った岩山に囲まれた巨大な谷だった。


 谷の中央には黒い湖。


 そして、その奥には口を開けた巨大な洞穴。


 周囲の岩肌は黒紫色に変色し、草木は一本残らず枯れ果てている。


 カーミラが立ち止まった。


「……着いた。」


 グレイが口笛を吹く。


「思ってたよりデカい家だね。」


「笑ってる場合じゃねぇ。」


 カーミラは洞穴を睨む。


「あそこが巣だ。」


 バトラスは静かに《ケルベロス》を下ろす。


「気配は。」


 サラは目を閉じる。


 魔力を探る。


 そしてゆっくり目を開いた。


「います。」


「洞穴の中です。」


「ですが……。」


 サラの表情が曇る。


「眠っています。」


 グレイがニヤリと笑う。


「それなら先手を──」


「待て。」


 カーミラが腕を伸ばし制した。


「ドラゴンを寝起きで襲うな。」


「一番やっちゃいけねぇ。」


 その瞬間だった。


 ゴォォォォォ……


 低い地鳴りのような音が谷へ響く。


 洞穴の奥からだった。


 全員が武器を構える。


 しかし。


 何も出てこない。


 数秒。


 沈黙。


 グレイが小さく息を吐く。


「……いびき?」


 カーミラが頷く。


「あぁ。」


「寝てる。」


 グレイが苦笑した、その時。


 バキィィィン!!


 四人の真横の崖が爆発した。


「なっ!?」


 岩石が雨のように降り注ぐ。


 バトラスは反射的に《ケルベロス》を振り上げる。


 重量を軽くした剣で岩を弾き飛ばす。


 サラは即座に両手を掲げた。


「氷壁アイスウォール!」


 氷の壁が四人を守る。


 直後。


 黒紫色の液体が氷へ降り注いだ。


 ジュウウウウウッ!!


 氷が音を立てて溶ける。


 カーミラが叫ぶ。


「毒液だ!」


「触るな!」


 グレイは崖の上を見る。


「上だ!」


 四人が見上げる。


 崖の頂上。


 そこには巨大な影。


 黄金色の瞳が四人を見下ろしていた。


 ドラゴンは洞穴にはいなかった。


 最初から。


 四人を見下ろしていたのだ。


 グレイが苦笑する。


「……お兄さん。」


「完全に待ち伏せされてる。」


 バトラスは静かに剣を構えた。


「あぁ。」


「狩る側だと思っていたが。」


 巨大な竜の双眸が細くなる。


 低い唸り声が谷へ響いた。


 その瞬間。


 四人は理解した。


 狩られる側は、自分たちだった。



 第十九話へ続く

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