霧の魔女、再び
夜。
宿場町。
三週間の療養も終わりを迎えようとしていた。
バトラスは一人、宿の部屋でケルベロスの手入れをしている。
サブナックとの戦いで付いた細かな傷を砥石で整え、鎖の一つひとつを確認する。
部屋は静かだった。
その静寂を破ったのは、窓の外に立ち込める白い霧。
風もないのに、霧だけが生き物のように揺れ、窓の隙間から部屋へと流れ込んでくる。
甘く妖しい香り。
バトラスは苦笑する。
「……来たか。」
霧が人の形を取り、美しい女が姿を現す。
黒く艶やかな巻き髪。
白磁のような肌。
金色の瞳。
リリスだった。
窓枠へ腰を掛け、脚を組みながら微笑む。
「あら、ちゃんと私だって分かったのね。」
「その香りは忘れようがない。」
「ふふっ。」
リリスは満足そうに笑う。
「久しぶりね、仔犬。」
「三週間と少しぶりか。」
「寂しかった?」
「まさか。」
「即答ね。」
リリスは肩を竦めながら部屋へ降り立つ。
そのままバトラスの周囲をゆっくり歩き、傷跡を眺め始める。
「ふぅん……。」
「思ったより壊されたのね。」
「七侯爵だ。」
「ええ。」
「でも、生きて帰ってきた。」
リリスはそう言うと、不意にバトラスの胸へ指を当てた。
傷跡をゆっくりとなぞる。
「……っ。」
「痛い?」
「触るな。」
「嫌。」
くすくす笑いながら、今度は首筋へ。
荊の契約印を指先で優しくなぞる。
「ちゃんと残ってる。」
「当然だ。」
「嬉しいわ。」
「……。」
「私の仔犬だもの。」
バトラスはため息を吐く。
「その呼び方はやめろ。」
「嫌。」
「じゃあ坊や?」
「もっと嫌だ。」
「ふふっ。」
リリスは楽しそうに笑い、今度はバトラスの眼帯へそっと触れる。
「この傷を見るたび思うの。」
「アスモデウス、本当に容赦がないわね。」
その一言だけ、笑みが消える。
しかし次の瞬間には元の表情へ戻る。
「でも、そのおかげで今の貴方がいる。」
「皮肉か。」
「褒めてるの。」
リリスは突然バトラスの頬を両手で挟み、顔を近づける。
「サブナックを倒した。」
「七侯爵を一柱。」
「よく頑張ったわ。」
「仔犬。」
額が触れそうな距離。
バトラスは顔を逸らそうとするが、逃がさない。
「……離せ。」
「褒めてあげてるのに?」
「十分だ。」
「全然足りない。」
リリスは悪戯っぽく笑う。
「もっと可愛がってあげる。」
そう言うと、彼女はバトラスの頬から手を離さず、そのまま親指で眼帯の縁を優しくなぞった。
「この眼帯も、随分と馴染んできてるわね。」
「……そうか。」
「ええ。でも、その下の傷はまだ疼くでしょう?」
バトラスは何も答えない。
その沈黙だけで、リリスには十分だった。
「強がりね。」
「癖だ。」
「知ってる。」
ふっと笑ったリリスは、今度は首筋へ指を滑らせる。
荊の契約印。
細い指先がその紋様をなぞった瞬間、印が淡く紫色の光を帯びた。
バトラスの身体が僅かに震える。
「……っ。」
「あら。」
「やっぱり乱れてる。」
「何がだ。」
「グラビティの力よ。」
リリスは楽しそうに笑う。
「サブナックとの戦いで随分と酷使したもの。」
「三週間休んでも、完全には安定していないわ。」
「支障はない。」
「あるわ。」
即答だった。
「貴方はいつもそう。」
「壊れる寸前まで無理をして、『まだ戦える』なんて言う。」
リリスは一歩近づく。
二人の距離は、もう腕一本もない。
「だから私がいるの。」
は
「……。」
「また調律をしてあげる。」
「断る。」
「あら。」
リリスは首を傾げる。
「断れると思っているの?」
「今日は眠い。」
「可愛い言い訳。」
「本気だ。」
「なおさら駄目。」
くすりと笑うと、リリスはバトラスの胸を軽く押した。
療養中とはいえ、まだ完全ではない身体は簡単に体勢を崩す。
バトラスは寝台へ腰を下ろした。
「リリス。」
「大人しくして。」
その声だけは、いつもの戯れるような調子ではなかった。
魔女として契約者を気遣う、静かな響き。
リリスはバトラスの前に膝をつき、両手で彼の首筋を包み込む。
「勘違いしないで。」
「これは甘やかしているんじゃない。」
「貴方を壊さないための、必要な儀式よ。」
金色の瞳が真っ直ぐバトラスを見つめる。
「貴方はまだ、私を楽しませてもらわないと困るもの。」
バトラスは小さく息を吐いた。
「……結局、それか。」
「もちろん。」
リリスは嬉しそうに微笑む。
「私の可愛い仔犬には、まだ死んでもらっちゃ困るの。」
リリスはそう囁くと、そっとバトラスの顎へ指を添えた。
逃がさないように、その顔をゆっくりと自分へ向ける。
「そんな顔をしないの。」
「……何のつもりだ。」
「調律。」
「それだけよ。」
唇が触れそうなほど近い距離。
金色の瞳が、隻眼の騎士をじっと映している。
バトラスは顔を背けようとするが、リリスはくすりと笑った。
「逃げるの?」
「逃げてはいない。」
「なら、こっちを見て。」
その声は命令ではない。
甘く誘うような響きだった。
バトラスは観念したように視線を戻す。
リリスは満足そうに微笑む。
「そう。」
「その方が可愛いわ。」
「……俺は犬じゃない。」
「ええ。」
リリスは首を傾げる。
「犬じゃないもの。」
「仔犬よ。」
からかうように笑うと、細い指先が首筋をゆっくりとなぞる。
荊の契約印へ触れた瞬間、印が淡い紫色の光を帯びた。
「……っ。」
「ほら。」
「もう反応してる。」
「グラビティが乱れてる証拠。」
「だから調律が必要なの。」
バトラスは小さく息を吐く。
「毎回、お前は人を試す。」
「だって。」
リリスは悪戯っぽく微笑み、耳元へ顔を寄せる。
「反応が面白いんだもの。」
吐息が耳をかすめる。
バトラスは眉をひそめるが、リリスはそれを見てさらに楽しそうに笑う。
「そんなに力まなくても平気よ。」
「貴方を食べたりしないわ。」
一拍置いて、わざとらしく続ける。
「……今日はね。」
「脅しか。」
「冗談。」
「半分くらいは。」
そう言うとリリスは静かに一歩下がり、両手をバトラスの胸元へかざす。
部屋を満たす霧がゆっくりと二人を包み込み、紫銀の光が契約印から穏やかに広がっていく。
「さあ、仔犬。」
「調律を始めましょう。」
「今日は、逃げないのね。」
リリスは微笑みながら一歩近づく。
バトラスは小さく肩をすくめた。
「逃げても無駄だ。」
「ふふっ。」
「よく分かってるじゃない。」
リリスはそっと彼の頬へ手を添える。
親指が頬をゆっくりと撫で、隻眼の騎士を愛おしむように見つめた。
「目を閉じて。」
「……命令か。」
「お願い、と言ったら聞いてくれる?」
「聞かない。」
「あら、正直。」
くすりと笑う。
「じゃあ、命令。」
バトラスは諦めたように目を閉じた。
「いい子。」
その一言とともに、柔らかな唇がそっと重なる。
数分間の触れるだけの口付け。
甘い香りがふわりと広がり、荊の契約印が淡い紫銀の光を放った。
世界の”ことわり”が静かに共鳴する。
胸の奥で乱れていたグラビティが、一本の流れとなって全身を巡っていく。
リリスはゆっくりと唇を離し、満足そうに微笑んだ。
「へぇ。」
「新たな芽が出たわね。」
バトラス
「何の話だ。」
「まだ話すには早いわね。」
「仔犬も成長してるけど、グラビティも成長してる、そのうち分かるわ。」
「これで終わり。」
「……相変わらず唐突だな。」
「何度も経験してるのに、まだ照れるの?」
「照れてはいない。」
「耳が赤いけれど?」
バトラスは無言で顔を逸らす。
その様子を見て、リリスは肩を震わせて笑った。
「やっぱり可愛い。」
「私の仔犬は、何度調律しても飽きないわ。」
バトラスは呆れたように息を吐く。
「その仔犬という呼び方は、いい加減やめられないのか。」
「嫌よ。」
即答だった。
「貴方は最初に会った日から、ずっと私の仔犬だもの。」
「契約して二年経ってもか?」
「百年経ってもよ。」
リリスはくすりと笑う。
「契約は時間じゃ色褪せないもの。」
バトラスは肩を竦めた。
「難儀な契約主だ。」
「褒め言葉として受け取っておくわ。」
リリスは満足そうに頷くと、指先で首元の荊の契約印へそっと触れた。
印はもう熱を失い、静かな紫銀色だけを残している。
「綺麗。」
「今回は乱れもほとんど無かった。」
「ちゃんと扱えるようになったのね。」
「毎回、お前に叩き込まれるからな。」
「努力したのは貴方よ。」
その言葉には珍しく茶化す色がなかった。
バトラスは少しだけ驚いたように彼女を見る。
リリスは視線を合わせないまま、小さく微笑んでいた。
「初めて会った頃は、力任せに振り回すだけだった。」
「今は違う。」
「ちゃんと自分の力になってる。」
静かな部屋に、その言葉だけが残る。
やがてリリスは、いつもの調子を取り戻したように軽く手を叩いた。
「さて。」
「調律も終わったし、私は帰るわ。」
「もう帰るのか。」
「名残惜しい?」
「いや。」
「明日の出立に備えて寝たい。」
「ふふっ。」
「そこは少しくらい嘘をついてくれてもいいのに。」
「苦手なんだ。」
「知ってる。」
リリスは霧の中へ一歩下がる。
その身体は白い靄に溶けるように輪郭を失い始めた。
「仔犬。」
「次に会う時まで、その首輪を錆びさせないで。」
彼女は荊の契約印を指差し、妖しく微笑む。
「死なれたら困る。」
「私の契約者なんだから。」
バトラスは苦笑しながら剣を見やる。
「努力はする。」
「それで十分。」
リリスは満足そうに頷いた。
「また必要になったら顔を見に来るわ。」
「その時まで、ちゃんと暴れてらっしゃい。」
霧がふわりと舞い上がる。
甘い花の香りだけを残し、魔女の姿は夜の静寂へ溶けていった。
静まり返った部屋で、バトラスは首元の契約印へ静かに触れる。
「……相変わらず、勝手な女だ。」
そう呟く声は、不思議と苦笑を含んでいた。
明日になれば、新たな旅が始まる。
そして、どこかでまた霧が彼を迎えに来る。
それが――契約者と契約主の日常だった。
翌朝。
東の空が白み始める頃、宿場町は静かに目を覚ましていた。
石畳には昨夜の雨露が残り、朝日に照らされて淡く輝いている。
宿の一階では主人が朝食の支度に追われ、焼きたての黒パンの香りが漂っていた。
バトラスは黒い甲冑の留め具を締め直し、背負った《ケルベロス》の重みを確かめる。
違和感はない。
昨夜の調律のおかげか、身体は驚くほど軽かった。
「……悪くない。」
拳を軽く握る。
グラビティは静かに応え、乱れなく身体の奥を巡っていた。
扉が開く。
「おはよう、お兄さん。」
いつもの調子でグレイが姿を見せた。
その後ろには、白いローブを纏ったサラが静かに立っている。
「顔色、ずいぶん良くなったね。」
「昨夜、よく眠れたみたいだ。」
グレイの何気ない一言に、バトラスはほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……ああ。」
それだけ答える。
グレイは何かを察したように口元を緩めたが、それ以上は何も聞かなかった。
聞くべきではないことくらい、彼には分かっている。
「じゃあ、行こうか。」
「馬車はもう待ってる。」
三人は宿を後にする。
朝の冷たい空気が頬を撫で、街門の向こうには一本の街道が真っ直ぐ伸びていた。
御者が軽く帽子を上げる。
「北の砦までだ。乗るなら今だぜ。」
バトラスは街道の先へ目を向ける。
その先に待つものが何かは、まだ誰も知らない。
魔物か。
悪魔か。
それとも、まったく別の脅威か。
「行くぞ。」
短く告げると、三人は馬車へ乗り込んだ。
車輪がゆっくりと回り始める。
宿場町が少しずつ遠ざかり、新しい景色が広がっていく。
その頃――。
遥か後方、朝霧の中。
一人の魔女が小さく微笑んでいた。
「行ってらっしゃい、仔犬。」
誰にも届かないその囁きは、風に溶けるように消えていく。
馬車は北へ進む。
第十七話へ続く




